閑話① 影務庁の過剰なる日常
マレク・ベルナルトは、確信していた。
自分は、この国でただ一人、黒宰相アルベルト・グランディーネの真意を真に理解する男である、と。
処刑台からの生還劇。免税特権の撤廃を「搾り取れ」の一言で成した手腕。王家に倍の税を課し、それを「二度目の戴冠」に変えた深謀。あの御方の言葉は、常に二重、三重の意味を孕んでいる。凡百の臣下は表面をなぞって満足するが自分は違う。言葉の裏の、そのまた裏まで読み解いてこそ副官たる己の使命がある。マレクは、そう信じて疑わなかった。
だからこの日も彼は執務室の隅に控え、全神経を主の一挙一動へ注いでいた。
窓の外は、朝から重い曇天だった。灰色の雲が王都の屋根の上に低く垂れ込め、部屋には羊皮紙をめくる乾いた音と、羽根ペンの走る音だけが続いている。閣下は、王領課税の実務書類と朝からずっと格闘しておられた。常人なら三日で音を上げる数字の海を無言で、恐ろしい速さで捌いていく。その背中をマレクは、息をひそめて見つめていた。
と。
ペンの音が止まった。
閣下がゆっくりと椅子の背にもたれる。そして――首を、傾けた。
ゴキッ、と。
乾いた、それでいて妙に重い音が、静かな部屋にはっきりと響いた。
マレクの背筋が、稲妻に打たれたように伸びた。心の臓が、とんと一つ跳ねる。
(――今の、音は)
閣下は、椅子にもたれたまま、窓の外の曇天へ視線を投げておられた。そして、その灰色の空を見据えたまま、ぽつりと呟かれたのである。
「……曇ってきたな。少し、風通しを良くするか」
それだけ言うと、閣下はおもむろに席を立ち、茶でも所望されるのか部屋を出て行かれた。
あとに残されたマレクは、しばらくその場に凍りついていた。
(曇ってきた……風通しを、良くする……)
こめかみに、じわりと汗が滲んだ。頭脳が猛然と回転を始めていた。
(閣下は今、確かに窓の外の曇天を見ておられた。だが――待て。落ち着け、マレク。あの御方が、天気などという些事をわざわざ口になさるものか。あの御方の言葉に意味のない一語など、ただの一度もなかったではないか)
彼は、震える指で懐から帳面を引き抜いた。
(ならば「曇り」とは、何の謂か。……比喩だ。比喩に決まっている。王都の空にではなく、王都の路地裏に垂れ込める、目に見えぬ曇り。すなわち――いまだ払拭しきれぬ不正、澱んだ民の不満、暗がりに燻る小悪党どもの気配! それらを、閣下は「曇り」の一語に、託されたのだ!)
汗が頬を伝った。マレクはもはや前のめりに卓へ身を乗り出していた。
(そして「風通しを良くする」――ああ、なんと峻厳なる御意思か。これは粛清の号令にほかならぬ! 王都の澱みを、一掃せよと! しかも――しかも閣下は、その号令に先立って)
ゴキッ。
あの音を、鳴らされた。
(あの一撃で骨を鳴らす御手技! あれを街の悪党どもの首筋に施し、その凝り固まった悪心を根こそぎ挫いてやれと――そういう、無言の御下命!)
マレクの筆が、帳面の上を猛然と走った。
『閣下の御言葉、解読の記録。
一、「曇り」=王都に澱む不正・不満の総体。
一、「風通しを良くする」=これを一掃せよとの執行命令。
一、頸部より発せられし音=悪心を挫く御手技の伝授、と解す。』
書き終えて筆を置いたとき、彼の額は汗で光り、目は使命感で爛々と燃えていた。
彼は勢いよく立ち上がった。椅子が床を鳴らして後ろへ滑った。
「――セラフィーナ長官を。至急、お呼びしろ!」
◇◇◇
セラフィーナ・ヴォルトは、マレクの熱弁をまばたき一つせずに聞いていた。
その顔には表情と呼べるものが何もなかった。もっとも、この氷の長官の顔が動くところを見た者は、影務庁広しといえど一人としていない。彼女は凍りついた湖面のような静けさで、どんな急報の前にも決して波立たない。
マレクが語り終えると彼女は、しばし沈黙し、それから、平坦な声で要点だけを口にした。
「……確認します、ベルナルト補佐官。閣下は王都に澱んだ不正を『曇り』と称され、その一掃を『風通しを良くする』と表現なさった。そして、その手立てとして悪心を挫く御手技を、頸部の音をもってお示しになった。……相違ありませんか」
「相違ない! この耳で確かに聞いた!」
「わかりました」
それきり彼女はもう何も問わなかった。
問う必要がなかったのである。彼女の頭の中では、すでに作戦の骨格が音もなく組み上がりつつあった。閣下のご下命はいつも、恐ろしいほど簡潔だ。簡潔ゆえにそれを実装する者が意図の隅々までを、寸分の狂いもなく汲み取らねばならない。一片の曇りも残してはならない。閣下は「風通しを良くする」と仰った。ならば、この王都の空気は塵の一粒に至るまで澄み渡らねばならないのだ。
セラフィーナは卓の下で、そっと自分の右手を持ち上げた。そして、開いて、閉じた。閣下があの音を鳴らされたその角度を――伝え聞いた通りの角度を、指の記憶に刻みつけるように、もう一度開いて、閉じる。
悪心を挫く、御手技。捕らえた者一人ひとりにこれを正確に施さねばならない。
(塵芥を残らず払う。そして、悪心を根から挫く。それが、閣下の御意思の完全な実装)
彼女は立ち上がった。外套の裾が音もなく揺れた。
「全班へ。非常招集を」
声は静かだった。静かなのに、逆らうという発想を聞く者から奪う響きがあった。
「対象、王都全域。任務、澱みの一掃。閣下の御意思により、この街の曇りを本日中に晴らします。……捕らえた者には一人残らず、御手技を施すこと」
その日、王都のあちこちの物陰から黒い外套が音もなく、滲み出すように現れた。
◇◇◇
東の貧民街は、狭い路地に洗濯物と貧しさの匂いが入り混じる、日の差さぬ一角である。
その奥まった一軒で、法外な利息で金を貸していた高利貸しの元締めが、二重帳簿を抱えたまま黒外套に踏み込まれた。男が隠し財産のありかを白状するより先に、影務庁はすでにその全容を掴んでいた。相談箱に投げ込まれた三枚の投書――「あそこの蔵は、夜中にだけ荷が動く」「床下に、地下がある」「証文の、日付がおかしい」――それを、庁員が寸時に照合し、金の流れを残らず暴いていたのである。
「な、なぜだ! なぜ俺の隠し蔵の場所まで……っ! ええい、こうなりゃ、暴れて、逃げて――」
男が机を蹴倒して立ち上がった、まさにその時。
背後にいつの間にか黒外套が一人、音もなく立っていた。
庁員は何も言わなかった。ただ、静かに手を伸ばし、男の首筋へそっと指を添え――
ゴキッ。
「……あ、うっ」
間の抜けた声が、男の喉から漏れた。
次の瞬間だった。あれほど気色ばんで、机まで蹴倒していた高利貸しの元締めが、糸の切れた操り人形のように、かくん、と肩の力を抜いた。そして、へなへなとその場に膝をつく。強がりの仮面は、跡形もなく剥がれ落ちていた。
「……なんだか……こう……悪いこと、しちまったなあ、って……今さら、無性に気になってきちまいました……」
男はそう呟いて、うなだれた。
「――閣下の、御手技である」
庁員は、うやうやしくその一言だけを告げた。悪心が抜けたのだ。少なくとも庁員は、心の底からそう信じていた。
西の職人街では、また別の追跡劇が佳境を迎えていた。
手抜き工事の違法建築を重ねてきた大工の棟梁が、屋根から屋根へと飛び移り、入り組んだ路地の空へ必死の逃走を図っていたのである。だが、無駄だった。角を曲がれば黒外套。塀を越えれば黒外套。下水の出口にも、井戸の陰にも、干された洗濯物の裏にすら、まるで最初からそこで待っていたかのように、黒外套が立っている。たかが手抜き工事の大工一人に対し、王都の一区画を丸ごと封鎖する包囲網であった。
「ば、化け物か、てめえら……!」
棟梁は荒い息で、最後の力を振り絞り、物干し台の屋根へとよじ登った。もう一息、あの屋根まで跳べば――と、彼が身を沈めた、その刹那。
「ちょいと、あんた!」
真下から洗濯物を抱えたおかみさんの、雷のような一喝が飛んだ。
「うちの物干し竿を折ったりしたら、承知しないよ――っ!」
棟梁の足が、びくりと、宙で止まった。
命を懸けた大脱走が、たった一声の生活の剣幕に無様に射すくめられた。その、たっぷり二拍分の硬直を屋根の上で待ち構えていた黒外套は見逃さなかった。棟梁の肩へ、そっと手が置かれる。
ゴキッ。
「ぬ、おっ……」
棟梁は屋根瓦の上に、へたへたとへたり込んだ。そして、しばらくのあいだ茜のさし始めた遠い空を、ぼうっと見つめていた。やがて憑き物の落ちた顔でしみじみと、こう呟いたのである。
「……なあ。俺さ。明日から……ちゃんと真面目に、柱を、組もうかな……」
「それが、よろしい」
黒外套は、ただ一言、渋く頷いた。
中央市場の騒ぎは、いっそう、絵として珍妙だった。
量り売りの豆に指を添え、目方をごまかしていた――ただそれだけの悪徳商人。そのせせこましい不正の一人に対し、影務庁が市場に投入した庁員の数は実に十二名であった。逃げ場を失った商人は、屋台の陰で黒い外套に、ぐるりと、幾重にも取り囲まれていた。往来の野次馬が遠巻きに、固唾を呑んで見守っている。
「ま、待て、待ってくれ、俺のは、ほんの、指、一本分の、出来心で――」
「指、一本分を」
庁員の一人が、静かに遮った。
「毎日、千人の客から掠め取れば。それは山となります」
言うが早いか別の庁員が、証拠の「不正に重い分銅」を、まるで神器でも扱うように両手で捧げ持って押収した。そして残る十一名が、じり、と半歩、円を縮め――
ゴキッ。ゴキッ。ゴキッ。
右から、左から、背後から。三方向立て続けに、御手技が施された。
「あうっ、うおっ、ぬわーっ!」
商人は三度、奇声を上げて跳ね、そして、その場に平伏した。
「ま、まいった! まいりました! 明日から、正しい分銅を使います! いえ、今日から! 今すぐに! ですから、もう、どうか、御手技だけは、ご勘弁を――っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、商人は地に額をこすりつけて詫び倒した。野次馬から、どっと、笑いと拍手が湧いた。
あとはもう、雪崩であった。
賭場の胴元は店に踏み込まれた刹那、自ら両手を挙げ、うやうやしく首を差し出した。「どうぞ、御手技を」。ゴキッ。「……ありがとう、ございました」。
辻馬車の元締めは、往生際悪く「しゃ、車輪は、来月替えるつもりだったんだ!」と言い張ったが、ゴキッと一発で「……すいません。今日、替えます」と、あっさり陥落した。
かっぱらいの常習犯に至っては、逃げ込んだ路地の先で別の黒外套と鉢合わせるなり、その場にへたり込み、自分から首を差し出したのである。「……もう、いいです。疲れました。どうぞ……」。ゴキッ。「……あー……すっきり、した」。
本来ならば街の衛兵が数日がかりで一人ずつ相手にするはずの、ささやかな小悪党たち。その悉くが、この一日で、まるで国家転覆の大陰謀でも暴くかのような影務庁の総力戦によって捕らえられ――そして、閣下直伝と固く信じられた、あの「御手技」の一撃によって、一人残らず憑き物を落とされ、借りてきた猫のようにしおらしくなったのであった。
◇◇◇
夕刻、王都を統べる高台の一室で、セラフィーナは掃討の報告を受けていた。
「長官。王都、東西南北、掃討完了。……御手技も全対象に滞りなく、施し終えました」
「ご苦労。……効き目のほどは」
「はい。捕らえた者、いずれも憑き物が落ちたように、素直に罪を認めております。中には――『生まれて初めて、まっとうに生きようと、思えた』と、涙する者まで」
「……そう」
セラフィーナは窓の外へ目を向けた。澄み渡った夕空の下、塵一つなく掃き清められた王都の通りが、茜色に静かに染まっている。
その光景を眺める彼女の氷の横顔が――ほんの一瞬。
わずかに、和んだ。ように、見えた。だが、それが微笑の兆しだったのか、ただ夕日が眩しかっただけなのか、見極められた者はこの場に一人もいなかった。氷の下で何が揺れたのかは、いつものように誰にも見えない。
「……閣下の御手技は」
彼女は窓の外を見たまま、独りごちるように呟いた。
「やはり――本物ね」
それが、この街の主がただ肩の凝りに任せて鳴らした、たった一度の音であったとは。
この場の誰ひとりとして、知る由もなかった。
◇◇◇
一方その頃、当のアルベルトは。
茶を一杯飲み、凝った肩を持て余しながら執務室へ戻ってきた。そして、何気なく窓の外へ目をやり――そのまま動きを止めた。
朝にはあれほど澱んで、どんよりと灰色だった王都の通りが。
なぜか物理的にぴかぴかに輝いていたのである。
道の塵は払われ、うろんな露店は影も形もなく、通りには洗い上げたような秩序が満ちていた。そして、その通りを行き交う民が、揃いも揃って城の方角を見上げ、両手を振り、割れんばかりの歓声を上げているのだ。
「……マレク」
「はっ、閣下!」
控えていた副官が誇らしげに進み出た。その顔は、生涯の大任を果たした忠臣の達成感で内側から光り輝いていた。
「ご下命の通りにございます! 王都に垂れ込めておりました『曇り』は、影務庁の総力をもって、一片残らず払拭いたしました! 捕らえし悪党どもには、閣下直伝の御手技を施し、その凝り固まった悪心を根こそぎ挫いてございます! ――いやはや、たった一撃で、悪人が涙して改心するとは。なんと、慈悲深い御手立てにございましょうか!」
「…………御、手技」
アルベルトは、しばし言葉を失った。
(……なんの、話だ)
首が凝っていた。だから鳴らした。空が曇っていた。だから風でも通そうかと思った。それだけの、ごく個人的でささやかな休憩の前振りだったのだ。
それが、いったい、どこをどう通り抜ければ、王都の治安大掃討作戦と、悪心を挫く謎の秘技に化けるのか。
(どの言葉が。どう、曲がったら。こう、なる)
だが、目の前には、達成感で光り輝く副官の顔がある。窓の外には安全を取り戻した通りを、心から喜ぶ民の顔がある。この高揚に水を差し、「俺はただ、換気がしたかっただけだ」と告げたなら――その顔は、いったいどうなってしまうのか。
アルベルトは、そっと胃のあたりを押さえた。
そして、諦めた。
「……好きに、解釈しろ」
「はっ! 身に余るお言葉!」
感激に打ち震えるマレクの前で、アルベルトは精一杯の悪役の顔を作り、重々しく頷いてみせた。それが、今の彼にできる精一杯であった。
と――その時。
長い一日の疲労が、どっと肩の後ろに圧しかかってきた。凝りがまた、ぶり返している。アルベルトは、ほとんど無意識に凝りをほぐそうと首を傾け――
ゴキッ。
と、鳴らしてしまった。
その音を聞いた瞬間、マレクの顔からさっと血の気が引き、次いで、めらりと新たな使命感が燃え上がった。
「……っ! ま、まさか、閣下――だ、第二次のご下命ですかっ!? まだ、この王都に払拭すべき曇りが残っていると……!?」
「違う」
アルベルトは即座に、しかし努めて静かに否定した。
「違うぞ、マレク。これはただの肩こりだ」
「――なんと! 『ただの肩こり』とは、すなわち、『こたびの一掃など、ほんの序の口。真の澱みはこれからだ』との、深遠なる御謙遜! 承知いたしました、第二次掃討、直ちに――!」
「違う。待て。待てと言っている。本当に、違うんだ。マレク。頼むから――一度、私の話を、聞いてくれ……!」
その日、王都の空気はかつてないほどに澄み渡っていた。
ただ一つ、宰相執務室だけが、とうとう最後まで換気されることなく、主の切実な悲鳴で、いつまでも騒がしかったという。




