第十話:有馬温泉(兵庫県)
土曜日の夜八時頃、そのお店に藤本さんが奥さんと一緒にやって来た。食中毒未遂事件があり、お店を休んでいたが、営業再開して来てくれたようだった。
晴斗は二人に感謝する。
「なあ、山崎。奥さんは?」
ふと、藤本さんが彩乃の不在に気づいて言う。
「少し前に貧血で倒れてから、夜は彼女抜きで営業しているんです」
晴斗がそう言うと、「へー、そうか。もしかして、奥さん、妊娠しているのかい?」と、彼が訊いた。
「ええ、そうなんです」
「二人目か! それはおめでたい!」と、彼は嬉しそうに言った。
「ありがとうございます」
「今、何か月目なんですか?」
それから、奥さんがそう訊いた。
「もうすぐ十ヶ月になります」
晴斗がそう答えると、「じゃあ、もうすぐですね」と彼女は微笑んだ。
「はい」
「女の子かな? それとも、男の子かい?」と、藤本さんが訊く。
「男の子みたいです」
「へー、男の子か! それじゃあ、一姫二太郎というわけだ」
藤本さんはそう言って笑う。
「ええ、そうなりますね」と、晴斗もにこりと笑う。
「名前は? もう決めたかい?」
再び藤本さんが訊く。
「いや……まだです」
晴斗がそう言うと、「なんだ。もう生まれてくるんだぞ? 早く決めてあげなきゃ!」と、彼が言った。
「はい……」と晴斗が小さく頷くと、「あなた、もういいわよ」と奥さんが藤本さんをたしなめた。それから、「ゴメンナサイね」と彼女は謝る。
「いえ」と、晴斗は手を振る。「では、ごゆっくりどうぞ」と晴斗は言い、厨房に戻った。
厨房で晴斗は考える。確かに藤本さんに言われたようにそろそろ生まれてくる子の名前を決めなくてはならないなと。
それから、一週間後の土曜日。
晴斗たちは新幹線で神戸へ向かった。その日は有馬温泉に行くことになっていた。
新神戸駅に着き、そこからタクシーでその日泊まる旅館へ向かう。
旅館に着き、早速、晴斗たちはそこへ入る。
「いらっしゃいませ」と年配の女将が挨拶し、晴斗が名乗ると、女将はすぐに晴斗たちを部屋まで案内してくれた。
部屋は広く、落ち着いていた。寝室は和室でありながらベッドが置かれていた。和洋室の様であった。
部屋の窓からは枯山水の庭が見えた。温泉の湯気が立ち昇っている。
「いい景色ね」と、彩乃が外の景色を見て言った。
「そうだね」と、晴斗もその景色を見て頷く。好乃も見る。
「温泉行こっか!」
少しして、晴斗が二人に言う。
「うん、行こう!」と、彩乃が頷く。
それから、「いこいこ!」と、好乃が嬉しそうに言った。
この旅館の温泉は二つあるらしい。一つは、金剛泉という屋内湯。もう一つは、露天風呂の貸切風呂である。
金剛泉は、「金泉」が湧き出る源泉かけ流しの湯であるという。その旅館のホームページにそう書いてあるのを晴斗は思い出す。
「金泉って?」と、彩乃が訊く。
「金泉っていうのは、『鉄分を含み、茶褐色に輝くお湯』のことらしい」と、晴斗は答える。「それと、『銀泉』っていう無色透明に澄んだ煌めく温泉もあって、有馬温泉には二種類の源泉があるらしい」
晴斗はその説明を思い出し、そう話した。
「へー。ここは、金泉なのね」
それから、彩乃が納得したように言った。
「そう」
「それは楽しみだわ」彩乃はそう言った後、「そうそう。好乃は今日、どっちと入る?」と彼女は好乃にそう訊いた。
「ママと入る!」と好乃が言ったので、「だって」と、彩乃は晴斗の方を見て言った。
「分かった。それじゃあね」
晴斗は手を挙げて、男湯の暖簾を潜る。それから「またね」と好乃が言い、彼女は母親と一緒に女湯の暖簾を潜った。
晴斗は服を脱ぐなり、すぐにその温泉に入る。
温泉の色は確かに茶褐色であった。
「これが金泉か……」
その温泉は温かくて、気持ちが良かった。
ふと、晴斗はネットの記事を思い出す。
有馬温泉の歴史はとても古く、「万葉集」や「日本書紀」に登場したとされている。この温泉は、日本最古の温泉なのだという。
「……確か、一四〇〇年前だったか……」
晴斗は独り言つ。
一四〇〇年前だから、有馬温泉が開湯したのは西暦六〇〇年頃である。つまり、奈良時代よりも前、飛鳥時代の頃だ。有馬温泉は日本の神々によって発見されたと言われているらしい。やがて、寺院仏閣が建てられると、その時代の公家たちがその温泉を管理するようになったとされている……。
そんなことを考えていると、晴斗は熱くてのぼせそうになった。さすがにもう上がることにした。
温泉から出て晴斗はシャワーの所へ行き、冷たい水を頭からかぶった。冷たいが、その水の温度でスッキリした。それから晴斗は頭だけ洗い、身体を拭いて出ることにした。
着替えて晴斗がロビーへ出ると、そこに彩乃たちがいた。
「お待たせ」
晴斗がそう言う。二人はフルーツオレを飲んでいた。
「あなたも、何か飲む?」
それから、彩乃がそう訊いた。何か飲もうと思い、自販機の前に行く。コーヒー牛乳を見つけて晴斗はそれを買い、飲んだ。そのコーヒー牛乳は冷たくて美味しかった。火照った身体にはちょうど良かった。
飲み終わった後、三人は一度部屋に戻り、夕飯までくつろいだ。
夜六時になり、部屋に女将がやって来た。
「お食事の準備を致しますね」
彼女はそう言って、食事の用意を始める。ここでの夕食は部屋食だった。
晴斗たちはテーブルに座る。それぞれの目の前には会席料理が並べられた。
「こちらのご飯は、美方御庄米という自家栽培のお米を使っております。それから、こちらのお魚は明石浦漁港で獲れた鮮魚になります」
女将は丁寧に料理の説明をしてくれた。
「ふーん」と、彩乃が頷く。
「へー」と、晴斗も頷く。
それから、飲み物は何になさいますか? と女将に訊かれ、晴斗は瓶ビールを一本と烏龍茶とオレンジジュースを一つずつ貰うことにした。
すぐに女将が飲み物を持って来てくれたので、三人は乾杯する。
それから、三人は会席料理を堪能する。どれもおいしいと晴斗は思った。
夕食を食べ終えて、三人は部屋でくつろいでいた。好乃と彩乃は寝室のベッドで横になる。晴斗はテレビを観ながらごろ寝をしていた。
七時頃に部屋がノックされ、先程の女将がやって来て食事の片づけをしてくれた。
「ねえ、ちょっとこっち来て」
ふと、晴斗が二人を呼ぶ。
「何?」と、好乃が訊きながら居間へやって来る。彩乃もゆっくりと起き上がり、こちらにやって来た。
「外、見てよ!」と、晴斗は言う。
「すごーい!」と、好乃がその景色を見てビックリする。
「きれいね~」と、彩乃もその景色を見て言う。
外の中庭はライトアップされていた。
「ねー」と、晴斗は言う。その景色はお昼に見た時とはまた違って見えた。
それから、三人は三十分程ゆっくりした後、予約していた貸切風呂へ行くことにした。
そこへ行き、三人でその温泉に入る。その貸切風呂は露天風呂だった。温泉の色は茶褐色だった。金泉のようである。
その温泉は気持ちが良かった。晴斗は彩乃を見る。お腹は前よりも大きくなっているように見えた。服を脱いでいるので、妊婦なのがよく分かる。
好乃はママのお腹が大きくなってきてから、一緒に温泉に入るようになった。確かに妊婦が一人で入るよりかは、娘と一緒に入った方がいいのだろうなと晴斗は思った。けれど、そうなると、晴斗は一人で入ることになることが多くなり、少々寂しい気もした。だけれども、好乃も女の子である。いつまでも一緒に入れるわけでもない……。
「あなた、私、そろそろ出るわね」
そんなことを晴斗が考えていると、彩乃がそう言った。彼女は妊婦なので、長時間入るのを止めているのだと言う。
「ああ、分かった」と、晴斗は返事をする。
「パパ、よしのもママといっしょにでるね!」
それから、好乃がそう言った。
「うん」と、晴斗は頷く。
二人が出た後、晴斗は瞑想する。五分程そうした後で、晴斗は熱くなったのでそこを出ることにした。
部屋へ戻ると、彩乃たちがベッドで横になっていた。
「ただいま」と晴斗が言うと、「おかえり」と彩乃が晴斗の方へ寝返りを打って言った。好乃を見ると、もう寝ていた。
「もう寝てるのか」と、晴斗は呟くように言う。
「ええ。疲れたんでしょう。私のお世話で」
彩乃はそう言って笑った。
「そっか」
「でも、好乃がいてくれて助かるわ。お腹の子もいるから。好乃はいいお姉ちゃんだわ……」
彩乃はにこりと笑って言った。
「うん」と、晴斗は頷く。
「さ、私ももう寝るわ。おやすみ」
それから彩乃がそう言って、再び寝返りを打つ。
「おやすみ」と、晴斗は言った。
それから晴斗も歯を磨き、もう寝ることにした。
翌朝、七時に晴斗は目が覚めた。晴斗は朝風呂へ行くことにした。
戻って来た頃には、彩乃と好乃が起きていた。
九時になり、部屋の扉がノックされた。女将が朝ごはんを持って来てくれた。朝食は御膳であった。朝食もおいしそうである。
「こちらの湯豆腐は丹波の名産の黒豆を使用した豆腐になります。そして、こちらの焼き海苔は須磨浦沖の海苔を使ったものになります」
女将がメニューの説明をしてくれる。
豆腐に海苔と地元の食材が使われているのが分かった。
「ごゆっくりどうぞ」と言って、女将は立ち上がる。
晴斗は早速、その湯豆腐をふうふうして食べる。その豆腐の味は濃厚でなめらかな食感だった。おいしいと晴斗は思った。
それから、焼き海苔もご飯と一緒に食べてみる。パリパリとした海苔の食感と磯の風味が感じられ、それも美味しかった。
その後も、三人は朝食を堪能する。
朝食を食べ終えて、女将がそれを片付けに部屋へやって来る。
晴斗たちは身支度を済ませ、入り口のお土産屋で従業員のお土産を買い、チェックアウトをした。
タクシーを呼んでもらい、少ししてやって来たので、晴斗たちは新神戸の駅までそれに乗った。
「楽しかったわ」
タクシーに乗って、駅へ向かう途中で彩乃がそう言った。
「うん。今回の温泉も良かった」と、晴斗は言う。
「ねえ、そう言えば、『金泉』には入ったけど、『銀泉』には入らなかったわね……」
それから、彩乃が思い出すように言った。
確かにと晴斗は思った。ここの宿は「金泉」だけであった。
「銀泉にも入ってみたいわね……」
「そうだね……」
晴斗も入ってみたいと思った。
「まあ、また今度……この子が産まれてからかな……」
それから、彩乃が自分のお腹をさすって言った。
「うん、そうしよう」と、晴斗は頷く。
「ねえ、パパ」
その後、好乃が晴斗を呼ぶ。
「ん?」
「次はどこ行く?」と、好乃が訊いた。
「うーんと……」
次は、どの温泉へ入ろうか? と、晴斗は考える。
その翌日の月曜日、晴斗はいつも通りお店に出勤していた。いつものように昼の営業をしていた。
正午を回った頃、お店に一本の電話が鳴った。晴斗は電話に出る。
「お電話ありがとうございます――」
晴斗が次の言葉を言おうとして、電話口の声が言う。
「あ、杉下です」
電話の相手は、彩乃の友人の杉下栞里さんであった。彼女からの電話に晴斗は何だろうと思い訊く。
「どうかしました?」
「山崎さん、今、彩乃から連絡があって、陣痛が起きたみたいなんです。お仕事中だと思うんですが、今少しだけ抜けられたりしないですか……?」




