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森を抜ける

「新しいヘルパーさん。どうぞ、よろしくお願いします」

 アイスを食べ終えたらしい弥生は丁寧に腰を折った。こうしてみると、眩しくてしかたなかったかつての伸びやかな肢体はだいぶ衰えている。普段筋肉を使うことがほとんどないのだろう、少し前かがみに立っている。歩幅も小さい。どこにでもいる中年の女にしか見えなかった。

「本当に俺たちが誰かわからないのかな」

「演技ではなさそうだが」

 足腰が丈夫だと藤堂医師は言っていたが、弥生の歩みは心許ない。

 確認したいことがあった。弥生の記憶は本当に真実を記録しているのかどうか。認知症だからといって、若いころの記憶をしっかりと留めているとは限らないのではないか。

「波の音がする。あっちが海ね」

 散歩好きにしては、まるで初めての場所に来たかのようにきょろきょろと回りを見ている。昔馴染みの顔を新しい付き添いとしか認識できないのはしかたないとしても、今日あった出来事も話した内容ももちろん付き添いの顔も弥生の脳内には残らないだろう。気楽なものだ、と羨望に似た気持ちが湧いて、思わず頬が緩む。

「俺たちもいつかこうなるんだろうか」

 認知症になりたくてなる者はいない。自分が患ったら妻の涼子に面倒をかける。逆に、涼子が認知症になったら、子供一人もいない俺は耐えられるだろうか。

「想像もしたくない。だが温存していたみたいだな」

「温存?」

 何の話かピンとこず、間宮を見やると、彼は口元を捩じった。

「あの個室は金がかかるはずだ。金はたっぷり残していたんだろう」

 高級老人ホームのような個室に暮らす仙波弥生。あのときの分け前が残っていたとしたら理解できる。藤堂医師によると飲酒に耽溺していた時期があったようだが、さすがに全額を鮭に消費したとも思えない。一人頭八千万円。学生には手に余る大金だ。

「弥生があのあとどう暮らしていたか、知っているのか?」

「知らないよ。お互いに二度と会わないと誓って別れたじゃないか。金は綺麗に三等分して一生の間、口をつぐむ。あの時は僕らが約束を守りさえすればなんの問題もないと信じ込んでた。まさか認知症とは。くそ!」

 間宮は吐き捨てるように言った。

「ねえ、ちょっと。置いてかないでよ」

 はっとなって弥生を振り返った。抗議する強い口調は学生時代を彷彿とさせた。間宮と話し込んでつい気遣いを忘れていたようだ。

「どうぞ」

 伸ばした腕に弥生がすがりついた。

「ああ、ありがとうね」

 ところが間宮はさして気にした様子もなく話を続けていく。

「あれからまもなく仙波が退学して行方知れずになり、綾川も田舎に帰っただろ。僕だけ居残るのが急に不安になって、海外に留学したんだ。……僕の持ってた分はそれで消えてなくなった。なくなるのはあっという間だったな。あの金が今あればと思うことが何度あったか」

 間宮は弥生を一瞥して舌打ちした。その目つきは三十五年前にも見たことがある。高級車に乗ってナンパばかりしていた裕福な家の子息を「あいつ、バイトしたことないんだってさ。ずるいよな」と愚痴っていたときだ。

 大学生にとって遊興費は悩みの種だった。裕福でない三人はちょっと小遣いを稼ぐくらいの気軽さで留守宅に盗みに入ったのだ。正確には留守宅と思い込んでいただけで、老人が居残っていた。しかも札束を数えて箪笥の中に乱雑に投げ込んでいた現場を偶然にも目撃してしまった。三人は理性を失った。

 思わず、揶揄うような言葉がこぼれた。

「身寄りがいないそうじゃないか。チャンスだよ。プロポーズしたらどうだ」

「つまんないことを言う」

「ヘルパーさん、誰かにプロポーズするの? あらまあ、きっと袖にされるよ。だってあんた、しょぼくれたおじさんじゃないの」

 弥生はけらけらと笑った。

 間宮はむっと顔をしかめたが、認知症の相手のためだろう、反駁せず横を向いた。

「私は結婚には縁がなかったわねえ」

「そうなんですか。……とても素敵なのに」

「結婚とかしちゃいけないのよ私は。そんな資格ないの。だって……止められなかったんだもの」

 弥生は両手で顔を覆った。演技めいて見えた。

「……何を止められなかったんですか?」

 なるべく優しい響きになるように訊ねた。

「友人がね、とんでもなく酷いことをしたのよ。私の目の前で、人殺しを……。私は巻き込まれただけだけど、それでも、心が壊れてね。毎晩悪夢を見たのよ」

「それは悪い友人ですねえ。どうして警察に届けなかったんです?」

「捕まりたくないもの。私に罪はないとはいえ……ううん、きっと彼らはもう死んでる。天罰が下ってないとおかしいから」

 弥生の手は小刻みに震えていた。

「おかしい。というか、ずるい。やはりずるい女だ」

 間宮はさっさと先を歩いていく。

 俺はひそかに頷いた。弥生は記憶を改竄している。認知症だからなのか。それとも良心の呵責に耐えられなくて書き換えたのか。まるで自身を被害者のように語る。

『嫌だったのに、無理やり彼らが……綾川と間宮が私を巻き込んだのよ!』

 藤堂が保存している動画には弥生の悲痛な叫びが残されているだろう。弥生はおそらく本心からそう信じている。

「まあ、それでもいいんじゃないか」

 無意識にそう呟いていた。間宮が振り返って天を仰ぐ。

「おいおい、認知症だからって憐れんでるのか。僕たち三人は平等に罪を負っている。そうじゃないのか」

「潮の匂いが濃いわ」

 弥生は間宮の横をすり抜けて先を歩きだした。若返ったかのように軽やかな足取りだった。

 俺は弥生の背中を通りこして遠くを見つめた。

「山分けした八千万、俺はギャンブルで溶かしてしまったよ。弥生の性格を考えたら汚い金を手放さずに取っておいたとは思えないけどな」

「仙波の性格? 言うほどよく知ってたっけ」

 間宮の嘲笑に頬がかっと熱くなった。振り切るように弥生の後ろ姿を追うと、前方の木立がふっつりと消えて視界が開けた。森を抜けたのだ。丈の短い草の原が広っている。

「ほら、素敵なところでしょう。ちょっとお休みしましょう」

 弥生が草原の真ん中に腰を下ろした。

「おい、あっち、やばいぞ」

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