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弥生

 意外だった。認知症と聞いたのでてっきり老女を思い描いてしまったが、仙波弥生は若々しい姿を保持していた。窓際にゆったりしたチェアをすえて、リラックスした姿勢でテレビを眺めている。見た目は四十代半ばといったところだ。実年齢より十は若く見える。それがかえって哀れだった。

「仙波さん。いまよろしいですか」

「こんにちは。……どなたでしたっけ」

 弥生は藤堂を見上げ、困ったようにこちらに視線を向ける。

「医師の藤堂ですよ。体調は良さそうですね。覚えておられますか。こちらにいらっしゃるのは……」

「ああ、藤堂先生ね。ごめんなさい、最近忘れっぽくて。ええと、新しい看護師さんかしら、それともヘルパーさん?」

 気後れしつつも会釈を返す。名前を名乗っても大丈夫だろうか。過剰な刺激になったりしないだろうか。

 藤堂が進み出て弥生に優しく声をかけた。

「退屈していませんか。何か欲しいものがあったら遠慮なく教えてくださいね。できる範囲でなるべく手配しますから」

「ああ、そういえばワンピースはまだなの?」

「ワンピース? ……頼まれていましたっけ。どんなワンピースですか」

 笑顔をキープしているものの、藤堂に困惑の色が浮かんだ。

「どんなって、どんな……もういい。ワン……ワイン、ワインはどうしたの」

「ああ、ワインは頼まれていましたね。でもお酒は手に入らないんですよ。今度美味しいぶどうジュースを持ってきますね」

「嘘つき。役に立たないんだから。もう出て行って」

 藤堂はこちらを振り返り肩をすくめた。

 言われたとおりに三人はいったん廊下に出て、部屋の扉を背にして足を止める。

「ご覧のようにちょっと短気なところは認知症の症状ですのでご心配なく。ご本人もお辛いんですよ。深く考えることができなかったり思い出せなかったりして、イライラしてしまうのです」

「さすがに病室でお酒は無理ですよね。服薬への影響もあるでしょうし。でも個室なら多少のわがままは許されそうに思えますが、やっぱ無理ですよね」

 阿るような間宮の口ぶり。

 弥生の部屋は病室とは思えないほど豪華だった。テレビは大型の壁掛けでカード式ではない。木目調のデスクには可愛らしいバスケットが置かれていた。飲みかけの紅茶はミルクティー。リンゴやバナナのほか個包装の焼き菓子が弥生らしいチョイスだった。個室に入院するには相当の金がかかりそうなのに。

「他の患者さんの場合、見舞客が持ち込んだ飲食物に目をつぶることもありますけど、仙波さんはアルコール依存症の既往歴があるので一滴も口にできないんです」

「アルコール依存症?!」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。

「ええ、二十代三十代の頃に。先ほど見舞客が来たら見て見ぬふりもあると言いましたけれど、これまでに仙波さんを訪ねてきたご友人は皆無です。刺激のない孤独な生活は、ますます症状を悪化させてしまいます」

 個室の扉を振り返り、藤堂は眉を寄せた。藤堂が俺達を呼び寄せたのは、弥生に刺激を与えるためなのか。昔話に花を咲かせればいいのだろうか。

「あの、無理ですよ。僕は貧乏で……来月にもアパートを追い出されそうなんです」

 間宮が窮乏を訴えたのを見ておのれの迂闊さに気づいた。身寄りのない孤独な中年女が豪華な個室を占領し続けられるわけがない。弥生の入院費用を肩代わりしろと言い出されてはたまらない。

 間宮の拒絶を受けて、藤堂はこちらに視線を移した。

「俺も同じようなもんで、女房を食わすのが精一杯。家のローンも残ってるし──」

 自然と口をついて出たのはあまりに情けない言い訳だった。だが頼りにされては困る。

「持ち家があるならいいじゃないか。僕なんか独身で──」

「まだシングルなのか、身軽な身分で羨ましい。俺の苦労なんて想像もできないだろう」

「海外で一回結婚はした。けど女に金を持ち逃げさ……なんでもない」

「あの、藤堂先生」ふいに扉が開いて、弥生が困ったような顔で出てきた。怒っていたことはもう忘れたようだ。「なんだか学生の頃に戻ったみたい。私これでも男子学生にモテてね、よく私を取り合って喧嘩があったものよ。……そういえば、なんとなくだけれど、似てるわねえ、あなたたち。綾川雄二と間宮岳に」

 ぎくりとした。間宮も息を飲んでいる。

「ふふ、私何言ってんのかしらね。綾川雄二はこんなハゲ親父じゃないし間宮岳はこんなぼろ雑巾みたいに臭くないもの。やだやだ、彼らに失礼だわ」

 もはや名乗れないし、名乗っても信じてもらえないに違いない。若いころの姿だけを覚えていてくれたほうがありがたい。

 しかし意外だった。弥生はてっきり金持ちの男を掴まえて、人が羨むような贅沢な暮らしをしていると思っていた。昔の弥生はいつもスポットライトを浴びているように輝いてみえたものだ。アルコール依存のあげくに認知症とは気の毒なことだと思う。

「勘違いされていないといいのですが」藤堂が口を開いた。「入院費や治療費を負担していただきたいという話ではないんですよ。そちらは問題ありませんのでご安心ください」

 となると。さらに厄介なことに気づいて綾川は眉を寄せた。

 藤堂は警察に通報すべきか、それだけを迷っているのだ。

 どうしたらいい。医師ならば人並み以上の倫理観の持ち主だろう。だが同情心はどうか、土下座して頼んでみたらどうか。

「ヘルパーさん、ちょっと売店まで連れて行ってもらえます? アイスが食べたくなったの」

 弥生がよいしょと掛け声をかけて立ち上がった。

 一階の自動販売機の並びにアイスを見かけた覚えがあった。

「でしたら、ちょっと足をのばして森のほうにでもお散歩に行かれたらいいんじゃないかしら。ヘルパーさんが二人ついていたら安心だもの」

 藤堂は弥生に笑顔を向けた。退屈な毎日に少しでも刺激を与えたいと考えているようだった。

「森なんかあったかしら」

「仙波さんのお気に入りですよ。森の小道を行くと、何がありましたっけ」

「ああ、草原があったわね。とても気持ちがいいところよ。あ、でもさきにアイスが食べたい」弥生は間宮の腕を掴んだ。「ヘルパーさん、さあ連れて行ってちょうだい。アイスのあとにお散歩よ」

 ついていこうと一歩を踏み出した綾川は、しかし何気なく藤堂を見やって足を止めた。

「すまない、先に行ってくれ。あとから追いかける」

 間宮は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、弥生に引っ張られてエレベーターの中に消えた。姿が見えなくなるまで目で追った。残った理由は、藤堂が胸ポケットのレコーダーを弄っていたからだった。藤堂に向き直る。

「聞かせたい録音があるんですね」

 藤堂は無言でレコーダーを押した。

『とんでもないことをしてしまった。どうしたらいいの』

『悪夢ですよ、悪い夢を見たんですよ、仙波さん』

『夢じゃない。綾川雄二も間宮岳も夢じゃない。わたしは人を殺したの。ついさっき、死体を埋めたの』

『落ち着いてください』

『嫌だったのに、無理やり彼らが……綾川と間宮が私を巻き込んだのよ!』

 カチッと音が鳴って弥生と藤堂の音声が止まった。

 藤堂は場違いににこりと微笑んだ。

「以前は研究職をしていて、仮説を立てたことがあるんです」

「……なんの話ですか」

「記憶は脳という容れ物に入っているのか、それともクラウドのように、どこか別のところに刻まれているのか。つまり脳みそは記憶の受信機に過ぎないんじゃないかって」

「受信機? 弥生の周波数がおかしくなって別人の記憶が再生していると言いたいんですか?」

 その仮説だと、別人の記憶を弥生が受信したことになるが、名前を出されている綾川と間宮は救われない。

「ばかばかしい」

 レコーダーを取り上げて力任せに折った。床に投げ捨て、粉々になるまで踏みつけた。

「で、俺らを脅迫した理由はなんです」

「無駄ですよ。撮影もしてあると言ったでしょう。院長室のパソコンを壊しても無意味です。動画はクラウドに保存してありますから」

 院長室に向かいかけた足を止め、藤堂に向き直った。

「あんたはマッドサイエンティストかなにかですかね」

「彼女は昔のことはよく記憶しているんですよ。あなたは覚えていますか?」

「俺は認知症ではありませんよ」

「私があなたたちを呼んだ理由はわかりますか?」

「いいえ、教えてください。どうしたらいいんですか」

「わからないんですか。本当に?」藤堂は意外そうに目を見開いた。「ではよく考えてください。ゆっくりお散歩でもされたらおわかりになるかもしれませんよ」

 エレベーターに向かった。こうなったら間宮と弥生と一緒に散歩でもなんでもしてやろう。

「仙波さんは足腰は丈夫ですけど充分気遣ってあげてくださいね。森を抜けた先に草原と海があって、とっても眺めがいいんですよ。なのに近隣の人間は波が荒いと言って近づきません。……穴場なんです」

 エレベーターの扉が邪魔をして、藤堂がどんな表情をしているかは見えなかった。


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