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異端の調律者は天秤を持たない  作者: うつおぎ
第三章 婚約者は調律者
69/73

3-9


 正しい手順で作られた誘獣香には独特の匂いがある。蜂蜜を思わせる、甘さの奥に舌へ残る苦みを連想させるその香りは、寒冷地に自生するセレナという低木の樹脂が放つもので、誘獣香に含まれる魔獣の核、その残滓を周囲へ広く拡散させるために混ぜられている。

 魔獣を誘引する主成分そのものではないので、この匂いを嗅いだからといって魔獣が寄ってくるわけではなかった。

 それでも、甘苦い香りが鼻先を掠めると否が応でも緊張が高まっていく。


 これから何が起こるのか。この香りを知る者ならば、その先に待つ光景を想像せずにはいられない。

 静かに深呼吸を繰り返すレナトスの隣に立っていたセレンティナが、ぴょんと一歩前へ出る。


「うーん、風がちょっと強いかも? 調整しよっかな」


 両手を左右に広げる。それまで銀紫の髪を揺らしていた風が、目に見えない手で押さえ込まれたかのように徐々に弱まっていった。

 その一方で誘獣香の甘苦い匂いは濃くなっていく。

 森へ向かって流れていた香りが留まり、狙った場所へゆっくりと溜まっていくようだった。


「お、釣れたみたいですね」


 軽やかな声でセレンティナが告げる、その言葉を裏付けるように森の中で何かが蠢いたような気がした。

 葉擦れの音に続いて、少し離れた場所で枝が折れる。

 ひとつ、そしてまたひとつ。やがて音は森のあちらこちらから聞こえ始めた。

 枯れ葉を踏み潰す足音に、硬いもの同士がぶつかるような乾いた音まで混ざる。

 深い森の闇そのものがざわざわと蠢き、こちらへ押し寄せてくるようだった。

 鳥の声はいつの間にか消えている。風が止まった森は異様なほど静かで、無数の足音だけが不気味なほど鮮明に耳へ届いた。

 じわじわと、だが確実に近付いてきているのを肌で感じる。


 これからレナトスとセレンティナは骸憑の群れを抜け、その奥に潜む骸導のもとへ向かわなければならない。

 戦闘は必要最低限に留めるつもりだが、あれほどの数を突っ切るとなれば容易ではない。


 レナトスは槍の柄を握り直し、掌へ伝わる馴染んだ感触を確かめた。

 いつもなら安全を優先するものの、父を連れて帰るために今回ばかりは多少の無理は覚悟するしかない。

 胸の奥に湧き上がるものを押し込め、レナトスは森をまっすぐに見据えた。


「私が先行しますね。陛下は頑張ってついてきてくださいね」

「二人で抜けた方が効率がいいのではないのか?」


 問い返したその時――森の縁で何かが揺れた。

 木の陰から黒ずんだ腕が伸びてくる。続いて現れたのは、人の形を残しながらも不自然に身体を傾けた骸憑だった。

 ぎこちない歩みで森を出てくるその後ろから、さらに別の影が現れる。

 四肢を地面につけた獣や大きく身体の一部を欠いた魔獣。そして古びた装備を纏った人影。闇の中から次々と姿を現し、誘獣香に引き寄せられるまま街道へ向かってくる。


 それらの足音が重なり、やがてそれは地面を震わせるほどの響きへ変わっていく。それでも森の奥では、まだ幾つもの影が蠢いていた。

 いったい何体潜んでいるのか。数えることが馬鹿らしくなるほどの骸憑が誘獣香を求めて這い出してきている。


 移動速度が落ちれば、それだけ襲撃を受ける危険は高まる。速さを保ち、敵に囲まれる前に突破するのが集団を相手にする際の定石。

 だからこそ、セレンティナが自ら先行すると申し出たことをレナトスは意外に思った。


「えっとですね。陛下にはできるだけ体力を温存しておいてほしいんですよ」

「温存?」

「さて、いきますよー」


 問いには答えず、セレンティナが軽やかに宣言するとたたっと駆け出した。純白のローブと長い銀紫の髪を靡かせながら進む姿はどこまでも軽やか。だが、その速度は驚くほど速い。

 レナトスも僅かに距離を空け、すぐさま後を追った。


 凄まじい地響きと共に骸憑の群れが迫る。次々と森から溢れ出す異形の存在を前にしても、セレンティナは速度を落とさないどころか、真正面から群れの中央へ飛び込もうとしていた。


「はいはーい、ちょっと通りますよー」


 場違いなほど軽やかな声と同時に濃密な魔力が周囲へ渦を巻く。次の瞬間――黒々としていた前方の景色がぱくりと上下に割れた。

 放たれた【風の刃】が骸憑の群れをまとめて薙ぎ払ったのだと、僅かに遅れて理解する。

 魔獣の身体がまとめてすぱりと分断され、群れの真ん中に一筋の道が生まれた。


 セレンティナは振り返らない。足取りもまったく鈍らず、一定の速度を保ったまま真っ直ぐ森の奥へ駆けていく。レナトスもその後ろを離されぬよう追った。

 左右から新たな骸憑が迫ればセレンティナの指先がひょいと動く。風が唸り、道を塞ごうとした骸憑だけが吹き飛ばされる。

 そしてまた前方が群れに塞がれると再び【風の刃】が走った。


 周囲にある木々はそのままに、進行を妨げるものだけを的確に排除していく。まるで最初からそこに一本の道があったかのように、二人の前だけが次々と開かれていった。


「わぁ、大きいのが来た!」


 セレンティナがどこか嬉しそうに告げる。その直後、茂みを突き破って飛び出してきた巨大な骸憑が爪を振り上げた。だが届くより早く突風に攫われ、闇の向こうへ消えていく。

 相変わらず足は止まらず、森が深くなるほど周囲の闇も濃さを増していった。

 背後では誘獣香に引かれた骸憑たちが街道へ向かい続けている。それでも残された骸憑が行く手を塞ぐたびに風が走り、黒い群れが容赦なく割れていった。


 レナトスはただ、その僅かな瞬間に生まれる道を駆け抜けていく。

 槍を振るう必要すらほとんどない。セレンティナが言った「体力を温存してほしい」という言葉の意味を考えながら、ひたすらその背を追った。


 何度目かの【風の刃】が骸憑を薙ぎ払う。

 拓けた道のさらに奥、目指す場所が目前まで迫っているのを肌で感じた。


遂に一ヶ月連続更新を果たしたぞ……!

今月いっぱいは頑張る予定なので、引き続きお付き合いください。

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