2-27
「グランヴィレアへの介入によって、天秤に変化はありましたか?」
ジンはキアランの問いに背を向けたまま「ああ」と短く答えた。
その瞬間、セレンティナの表情がぱっと明るくなる。声を上げることはないが、銀紫の瞳を輝かせながら胸の前できゅっと両手を握る。
「ごく僅かだが、十年近くまったく動きがなかったことを考えれば大きな進歩だ」
ジンはゆっくりと振り返った。年齢不詳の美貌の上に一切の表情を乗せず、満面の笑みを浮かべるセレンティナを見据える。
「この調子で進めろと言いたいところだが、状況は一刻を争う」
ジンがそこまで言うと、セレンティナの目の前にふわりと一枚の紙が降ってきた。白い空間の中に現れたそれは、音もなく手元に滑り込む。
セレンティナは紙を受け取ると、そこに記された文字と図をじっと見つめた。
「これを使え」
「うーんと……ちょっと強引になってもいいですか?」
「構わない」
「承知しました!」
弾むような返事すると、セレンティナは早くも大きな瞳を輝かせ、頭の中であれこれと作戦を立てているように見えた。
魔塔主からの命令を嬉々として受け入れている。末の調律者の顔を、長男であるキアランが身を屈めて覗き込んだ。
「セレン、くれぐれも無理してはいけないよ」
「はーい」
「キアラン、あまり甘やかすな」
怜悧な美貌に何の色も浮かべないまま、ジンが静かに窘める。普段から表情をほとんど変えないせいか、キアランもセレンティナもさして気にした様子はなかった。
「セレンティナは人ではない。意味のない学習をさせるな」
責めているわけでも、怒っているわけでもなく、淡々とした声にはやはり感情が透けていない。
ジンにとってそれは事実を述べただけなのだろう。セレンティナという存在の用途と限界を、ただ正確に確認したに過ぎない。
キアランはその言葉を受けても笑みを崩さなかった。穏やかに、だけど一歩も退く気のない眼差しで魔塔主を見つめ返す。
「ですが、様々な感情を知ることは任務に必要ではないでしょうか」
「必要な反応だけを学べばよい」
「反応だけでは足りません。人の感情を知らなければ、人が何に動かされるのかを正しく測ることはできませんから」
「人ではない」セレンティナに何を学ばせ、どこまで人として扱うべきか――。
それは、これまで何度も繰り返されてきたやり取りだった。
ジンは一貫して彼女を任務のために造られた存在として見ている。余計な感情は判断を鈍らせ、無駄な情は均衡を乱すだけだと考えているのだろう。
一方でキアランは、やんわりとした口調のまま譲らない。セレンティナが人ではないと告げられても、それを真っ向から否定することはしない。けれど人の中へ送り出すのなら人の喜びも悲しみも怒りも愛着も、知らないままでよいはずがないと考えている。
白い空間に静かな緊張が満ちていく。
声を荒らげず、感情を露わにもしてない。それでも二人の間には互いの主張が決して交わらないことを示すような、冷たく細い線が引かれている気がした。
当のセレンティナは自分のことを話されているというのに、どこか他人事のようにそのやり取りを微笑みながら見守っている。
ジンの言葉に傷付いた様子も、キアランの言葉に縋る様子もない。
ただ銀紫の瞳をゆるく細め、二人の会話がどこへ転がっていくのかを愉しそうに眺めているだけだった。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇
翌日の早朝、グランヴィレア国王の姿は訓練場にあった。
まだ空には薄い夜の名残があり、冷たい空気の漂う訓練場でレナトスはただ一人、黙々と槍の稽古に励んでいる。
アンソニーが登城すればすぐに執務へ追われる。だから稽古ができるのは深夜か早朝に限られていた。
本来なら、もっと休息を取るべきなのかもしれない。だが武を誇る国を率いる者として、腕が鈍るようなことがあってはならない。その義務感がレナトスをこの場所へ追い立てていた。
手にしているのは稽古用の槍で、刃は潰されているが重さも長さも実戦用に近い。握り慣れた柄の感触を確かめるようにレナトスはゆっくりと構えを取った。そして、想像上の敵へ向かって素早く踏み込む。
相手は魔獣の時もあれば、人間の時もある。
これまで戦ってきた敵の動き、癖、間合い、攻撃の速度。それらを頭の中で組み合わせ、目の前に存在しない相手として立ち上げる。
今朝の相手は、昨日対峙したばかりの襲撃者だった。暗殺者らしき風体をして短剣を手に低く軽やかに動き、こちらの腕や足を狙って守りを削ってきた。
レナトスは彼らの動きを頭の中でなぞりながら槍を振るう。
儀礼の場では槍を携えるわけにはいかないので、帯びていたのは剣だった。だから、槍であればどう動けたかを想像して動いていく。
短剣の間合いに入る前に柄で牽制できたか。
三人同時に相手をした場合、どこまで距離を制御できたか。
レナトスは半歩引き、槍の石突きで背後へ回り込もうとする見えない敵を払い、すぐに身体を反転させる。そして、正面から踏み込んでくるもう一人の短剣を穂先で弾くように想定して突きを繰り出した。
風を裂く重々しい音が訓練場に響き、レナトスの戦いだけが鋭く続いていった。
その最中、不意に襲撃者が振り撒こうとした痺れ薬の甘く不快な匂いが脳裏を掠める。
肌に触れれば動きを奪われ、吸い込むだけでも危険だと直感したあの薬を、突如として現れた調律者は風で押し返した。
しかも、ただ防いだだけではない。相手へ向かって正確に吹き返し、怯んだところを逃さず追撃した。
地形を利用して相手の武器も薬も動きも封じ、そのまま生かして捕らえる。あまりにも鮮やかな手際だった。
セレンティナが優秀な魔術師であることは合成獣の討伐で目の当たりにしている。だが、対人戦は根本的に戦い方が違う。
あれは単に強い魔術を放っているだけではない。状況を読み、相手の目的を見抜き、必要なだけの力を必要な場所へ使っていた。
レナトスは槍を振るいながら深く息を吐いた。魔導騎士団の件だけでなく、昨日の襲撃の件でセレンティナに訊きたいことがあった。
近いうちに呼び出して話をしなくてはならない。そう考えながら槍を引いた――その時だった。
銀紫の髪が朝の淡い光を受けて柔らかく揺れている。
訓練場を囲う柵の上に純白のローブ姿がちょこんと座っているのを視界の端で捕らえ、レナトスは思わず動きを止めた。
――いつからそこにいたのか。
静かに見学していたセレンティナは、レナトスが気付いたことを察するとふっと姿を消した。そして 次の瞬間には柵の内側に移動し、こちらへと軽やかな足取りで近付いてくる。
「おはようございます。お邪魔でしたか?」
無邪気な様子で問いかけられ、レナトスはわずかに返答に詰まった。つい先ほどまで彼女のことを考えていた。
戦いぶりを思い返し、話をしなければならないと思っていた。その相手が、まるで思考を読んだかのようなタイミングで現れたせいで、妙な気まずさが胸の内に残る。
「いや……問題ない」
返事はいつも以上にぶっきらぼうになったが、セレンティナは気にした様子もなくにこにこと笑っている。
「魔塔に帰っていると聞いていたが?」
「はい。さっき戻ってきました」
――どうしてこんな早朝に。
そんな疑問が頭を過ったが、レナトスはひとまず「そうか」とだけ返した。
王城に戻ってきたところ、訓練場に自分の姿があったから見学していたのだろう。一瞬そう考えたがすぐに違和感を覚える。
王城の入口からこの訓練場は位置的に見えない。
ならばセレンティナは、何らかの目的があってこちら側へ来たと考えるのが妥当だった。そんなレナトスの考えを見抜いたかのように、セレンティナがこちらを見上げてにこりと微笑む。
「陛下、あとでお時間をいただけますか?」
「……ここではできない話か」
訓練場には、レナトスとセレンティナしかいない。
柵の外を警備の騎士が通ることはあるが、この距離なら会話を聞かれる心配はないはずだった。
それでもセレンティナは小さく頷く。
「はい」
それから銀紫の瞳をまっすぐに向け、いつもの軽い調子をほんの少しだけ潜めて言った。
「とっても大事なお話なんです」




