2-26
魔塔は、スターラ大陸の東に位置している。
広大な荒野のただ中に聳え立つ塔は常に真っ白だ。
陽光を受けても色を変えず、砂埃に晒されても汚れひとつ付かない。窓はおろか扉すら見当たらず、遠目には人が住まう建物というより地上に突き立てられた巨大な白い柱のようにも見える。
そんな出入り不可能に思える塔の前へ、ふわりとセレンティナが降り立った。
「よいしょ……っと」
セレンティナは首に提げた鎖を引っ張り、胸元から天秤を取り出した。
指先で軽く握り、魔力を流す。次の瞬間、荒野に立っていた純白のローブ姿は一瞬にして掻き消えた。
魔塔の中へ入ることができるのは魔塔の主に許可された者だけ。
白い光がほどけるように消えるとセレンティナは塔の内側に立っていた。目の前には終点の見えない螺旋階段が上へ上へと続いている。
ひやりとした空気とどこまでも白い壁、そして自分の呼吸すら吸い込まれていくような静寂。
セレンティナはそれらに少しも怯えることなく、螺旋階段を見上げてにこっと微笑んでから再び姿を消した。
セレンティナの部屋は必要最低限の家具が置かれているだけの、ひどく殺風景な空間だった。
ベッドと作業用のテーブルと椅子、それから壁際に小さめの本棚が一つあるだけ。
残りの空間には装飾らしいものもなく、床と壁は剥き出しのままになっている。生活の匂いも、持ち主の趣味もほとんど感じられなかった。
落ち着ける部屋とはとても言いがたいというのに、セレンティナはその部屋の中心で大きく背伸びをすると、左手を天井へかざした。
次の瞬間、何もない場所から大量の魔紋巻がどさどさと降ってきた。巻かれた羊皮紙が床に積み重なり、殺風景だった部屋の一角をあっという間に埋めていく。
セレンティナはその山を満足げに眺めてから再び左手をかざす。すると、山積みになっていた魔紋巻は一瞬で跡形もなく消えた。
ほどなくして、目の前にふわりと一枚の紙が降ってくる。
セレンティナはそれを手に取ると、署名の欄に指を触れさせた。魔力を流した瞬間、契約書が光の粒となって散っていく。
「これでバートリー兄様からの依頼は完了……っと。あと急がなきゃいけないのはどれだったかな」
ぶつぶつと呟きながら、セレンティナは手持ちの契約書を宙に浮かせた。
薄い紙片がずらりと並び、目の前に即席の書架のようなものが形作られる。一枚ずつ視線を滑らせ内容をたしかめていった。
うーん、と首を傾げながら悩んでいると、扉の向こうからノックの音が聞こえた。
「セレン、魔塔主様がお呼びだよ」
「はーい」
セレンティナはまるで窓硝子を拭うように左手を軽く振った。
すると宙に並んでいた契約書は左端から順にすうっと薄れていく。透明な布で拭き取られたかのように文字も紙も消え、最後には何もなかったように空間だけが残った。
セレンティナは扉へ駆け寄ると勢いよく開ける。そこにはセレンティナと同じ銀紫の髪と瞳をした、すらりと背の高い男性が佇んでいた。
「お帰り」
「ただいま戻りました!」
調律者の一人であり、次期魔塔主でもあるキアラン・ロシュフォードは、整った顔にふわりと上品な笑みを浮かべた。
それからセレンティナの頭へ手を伸ばし、優しく撫でる。セレンティナもまた目を細め、唇に笑みを浮かべてそれを受け入れた。
「すぐに向かえるかい?」
「大丈夫だよー」
「そう。じゃあ行こう」
キアランが純白のローブを翻し、廊下を進みはじめる。セレンティナはその後ろを弾むような足取りでついていった。
魔塔主の部屋は魔塔の中でも完全に隔絶された空間にある。そこへ入ることができるのは、その時に魔塔主から許可されている者だけ。
たとえ調律者であっても自由に足を踏み入れることはできない。
キアランとセレンティナは廊下の端にある魔術紋の上へ並んで立った。
ほどなくして二人の姿が銀紫色の光に包まれていく。
次の瞬間――視界が白く染まった。
移転した先は、すべてが真っ白な空間だった。
壁も床も天井も境目が曖昧に溶け合っている。広いのか狭いのかも分からない。足音すら吸い込まれてしまいそうな静寂の中でキアランは恭しく頭を下げた。
「セレンティナを連れてきました」
その声に応えるように部屋の中央に立っていた人物がゆっくりと振り返る。
長くまっすぐな銀紫の髪が動きに合わせてさらりと揺れた。細身の身体を包む純白のローブは飾り気がないにもかかわらず不思議な威厳を帯びている。顔立ちはひどく整っていて男とも女ともつかない中性的な美しさがあった。
彼こそが魔塔主、ジン・ロシュフォード。
若者のようにも見えるが、そこに宿る静かな眼差しは、途方もない時間を見てきた者のものだった。
「聖女と接触できたようだな」
「はい。神聖魔術を使うところもしっかり見てきました!」
記録用の魔道具で撮った映像はすでに送ってある。だが魔塔主が言っているのは、そのことではない。セレンティナもそれはちゃんと理解していた。
ジンは無表情のまま、更に問う。
「どうだった?」
「予想していた通りです」
セレンティナはきっぱりと、迷いなく答える。
自信満々というより、見てきたものをそのまま報告しているだけだと言わんばかりの響きだった。
ジンはしばし、末の調律者を眺め、やがて「そうか」と低い声で返すと再び背を向ける。
その視線の先には「天秤」があった。
真っ白な空間の中心には、透明な球体が静かに浮かんでいる。
硝子にも水晶にも似ているがその表面には光を弾く硬さがない。そこに在るはずなのに、触れようとすれば指先が通り抜けてしまいそうなほど澄んでいた。
球体の内側には逆さに据えられた円錐のようなものが収まっている。
円錐の上面は平皿のようにわずかに窪んでおり、その皿へ向かって球体の上方から砂が絶え間なく降り注いでいる。
音もなく落ちる砂は粒の大きさが揃っていなかった。細かな粉のようなものもあれば、小石に近い粗い粒もある。それらが混ざり合いながら皿の面へ積もり、薄い層を作っていく。
けれど、その砂がただひたすら積もり続けることはない。皿の縁まで満ちた砂は少しずつ溢れて零れ落ちていく。
零れた砂は球体の底に溜まることも、床へ届くこともなかった。落ちる途中で淡く揺らぎ、まるで最初から存在しなかったかのように白い空間へ溶けて消えていく。
降り注ぎ、積もり、溢れ、消える。
その繰り返しはあまりにも静かで、あまりにも整然としていた。
これはただの魔道具ではない。
世界のどこかで生まれる無数の重みを受け止め、測り、そして手放しているような、荘厳な気配がそこにはあった。
ジンはその天秤を見つめたまま、しばらく佇んでいた。
今回はセレンティナがめちゃめちゃ移動していますね……。




