2-22
時は少し遡ります。
レナトスは安息の祈りを終えた聖女を支えながら会場を後にした。
辛うじて歩いてはいるものの、ユリアーナは今にも倒れそうなほど衰弱している。
ただでさえ白い肌からは完全に血色が失われ、揺れる黒髪の合間から覗く唇も青ざめている。乱れた呼吸の音が乾いた風に紛れてかすかに聞こえてきた。
「もう少しだ」
「はい……」
ユリアーナは小さく頷く。
昨日は朝から晩まで神殿を訪れた信者の治療にあたっていたため、体力も魔力も十分には回復していない。
本来ならば休息する日なのだが、神官の都合でこの日に慰霊祭の執り行うように神殿から命じられてしまった。
――無理をしてまで来なくてもいい。
そう言いたい気持ちはあった。
しかし遺族の気持ちを考えれば、聖女には出席してもらいたい。ユリアーナ自身も、ヴィルナタール鉱山で命を落とした者たちに祈りを捧げたいと強く望んだ。
それに、聖女の伴侶であるにもかかわらず、なぜ聖女は来ないのかという非難を避けたい気持ちがあったのも事実である。
満身創痍のユリアーナが少しでも休めるように、会場から離れた場所に天幕は用意させてある。レナトスは内心の焦りを押し殺しながら、足取りが早まらないよう気を付けて岩だらけの道を進んでいった。
「ベッドの用意はできております」
「分かった」
先に天幕の様子を見に行っていたウィルフォードが急ぎ足で戻ってくると、今にも倒れそうなユリアーナを見るなり、痛みを堪えるように表情を歪める。
治療も、慰霊祭への参加も、神殿からの指示だった。聖騎士であるウィルフォードはそれに従うほかない。
聖女を守ることが役目でありながら、聖女を消耗させる命令を止めることはできない。その矛盾が彼の胸を深く抉っているのだろう。
「聖女様、早めにアウレシェルムに戻りましょう」
「え……で、も」
「いや。その方がいい」
少し休んだら会場に戻る予定だったが、この様子では難しい。
レナトスとウィルフォードに説得され、気丈に振る舞っていたユリアーナも気落ちした様子で頷いた。
このまま聖女は退席すると会場に伝えた方がいいだろう。聖騎士に伝言を頼もうとレナトスが周囲へ意識を向け――すっと表情を固くする。
「……何か来る」
「え?」
ウィルフォードが聞き返した直後、ユリアーナの後方を守っていた聖騎士が、突如として横へ吹き飛んだ。
見えない何かに殴りつけられたように鎧が鈍い音を立てて宙を舞う。岩肌に叩き付けられた聖騎士が呻き声を上げた時には、もう次の気配が迫っていた。
「下がれ!」
レナトスはユリアーナの肩を抱くようにして背後へ庇い、腰に佩いた剣を抜いた。同時にウィルフォードも剣を抜く。
何も見えないが空気が動き、殺気が肌を刺す。
レナトスは半歩踏み込みながら空を裂くように剣を振り上げた。刃先に硬い感触が返り、甲高い金属音が岩場に響く。音の響きから短剣と打ち合ったのだと瞬時に察した。
「姿を隠しています!」
ウィルフォードが叫ぶ。おそらく、魔道具を使っているのだろう。
次の瞬間、彼の左側で砂利が弾けた。不可視の敵が踏み込んだのだと判断し、ウィルフォードは迷わず剣を横薙ぎにする。何かを浅く掠めたのか布が裂けるような音がした。
レナトスは視線だけで周囲を走査した。岩場に残る足跡、跳ねる砂利、風を切るかすかな音。そのすべてを拾いながら、ユリアーナの前から一歩も動かず剣を構える。
――数は二、いや三か。
ユリアーナは逃げられる状態ではない。
足元は覚束なく、レナトスの腕に支えられてようやく立っている。無理に走らせればその場で倒れるだろう。
ならばここで防ぐしかない。
「ユリアーナ、私の後ろに」
「は、い……」
細い指がレナトスの外套を掴む。服越しに伝わってくる震えに奥歯を噛み締めた。
目の前で空気が歪む。喉元へなにかが迫った気配を感じ、レナトスは身を捻りながらその歪みに剣を合わせた。何もないはずの場所で火花が散る。
どうやら敵の狙いは聖女ではない。
少なくとも、殺すつもりなら今の一撃はユリアーナへ向けられていたはずだ。
だが不可視の攻撃はレナトスとウィルフォードを執拗に狙っている。護衛を排除し聖女を連れ去るつもりなのだ。
「誘拐目的か」
低く呟いたレナトスの声にウィルフォードの顔が強張った。その一瞬を狙ったように不可視の敵が二方向から迫る。
ウィルフォードは正面の一撃を受け止めたが、横合いから伸びた別の刃を避けきれなかった。肩口を掠められ白い聖騎士の外套に赤が散る。
「くっ……!」
「ウィルフォード!」
「問題ありません!」
ウィルフォードは歯を食いしばり踏み留まった。さらに数度、剣に透明な攻撃がぶつかる。
魔道具の効果が切れたのか、岩場の前に三つの人影が滲むように現れた。
数はレナトスの予想した通りだ。
男達は背から暗いマントを乱暴に引き剥がす。完全に姿を現してなお、男たちは怯む様子を見せなかった。
身体にぴたりと沿う暗い色の衣をまとい、手には短剣を握っている。頭にはターバンを巻いて口元も布で覆っているため、人相はまったく分からない。
一人が低く身を沈めてレナトスに対峙し、もう一人がウィルフォードへ向かって踏み込んだ。
最後の一人は、レナトスの背後に庇われたユリアーナへ視線を向けている。
――やはり、狙いは聖女か。
剣を握る手に力を込め、ユリアーナを背に庇ったまま一歩前へ出る。
短剣を構えた男たちが無言で地を蹴った。
最初に仕掛けてきたのは、レナトスと対峙していた男だった。低い姿勢のまま距離を詰め、喉元ではなく脇腹を狙って短剣を突き込んでくる。これは殺すためではない。動きを鈍らせるための攻撃だ。
レナトスは剣の腹で短剣を弾き、返す刃で男の腕を狙った。
だが男は深追いしない。刃が届く直前に身を引き、すぐさま別の角度から踏み込んでくる。
その間にも、ウィルフォードはもう一人の男と激しく刃を交えていた。聖騎士としての技量は確かだが、先ほど肩口を裂かれている。動きに大きな乱れはないものの、白い外套に広がる赤が嫌でも目に入った。
そして三人目の男がじりじりと距離を測りながらユリアーナへ近付こうとしている。
レナトスはユリアーナを背に庇ったまま、踏み込んでくる男の短剣を受け流した。
金属のぶつかり合う音が岩場に鋭く響く。
こちらから大きく動けば、背後のユリアーナが危険に晒される。かといって防御に徹し続ければ、いずれ包囲されるだろう。
男達はそれを分かっているのか、短剣の切っ先は執拗にレナトスの腕や足を狙い、決して致命傷を与えようとはしない。ただ少しずつ、守りを削ろうとしている。
その時だった。
ユリアーナへ視線を向けていた男が懐から小瓶を取り出した。透明な硝子の内側で薄い琥珀色が揺れる。
嫌な予感がした。
「下がれ」
レナトスが短く告げる。
だがユリアーナの足取りは覚束ない。背後へ退かせようにも彼女はレナトスの外套を摑んで立っているのが精一杯だった。
男は小瓶の蓋を引き抜くと、中身をこちらへ向けて振り撒こうとする。
レナトスは反射的にユリアーナの身体を抱き寄せ、横へ跳ぶ。
液体が宙を舞い、二人のすぐ脇を通り過ぎて岩肌に散った。
まさに間一髪。避けた瞬間、風に混じって甘く痺れるような匂いが鼻先を掠める。
レナトスの背筋に冷たいものが走った。
これは強力な痺れ薬だ。
肌に少しでも触れればそこから全身へ回って動けなくなる類のものだろう。おそらく、吸い込むだけでも危険だ。
ユリアーナはすでに消耗しきっているから、あの薬を浴びてしまえば抵抗することはおろか、意識を保てるかも分からない。
レナトスは息を浅く抑え、ユリアーナを再び背後に庇った。
男達は逃げ場を塞ぐように位置を変える。
ウィルフォードが一人を押し返そうとするが、肩の傷が響いているのか、踏み込みがわずかに鈍った。その隙にもう一人が回り込み、レナトスとユリアーナの退路をさらに狭めていく。
ここはとにかく足場が悪い。ユリアーナを支えたままでは素早く動くにも限界がある。加えて、痺れ薬を避けるためには距離を取らなければならない。だが距離を取れば、その分だけ男達に回り込まれる。
じりじりと追い詰められているのを感じながら、レナトスは剣を構え直した。
せめてユリアーナだけは逃がさなくては。男が再び小瓶を構えた瞬間、レナトスは迷わず一歩前へ出た。
自分が盾になって痺れ薬を防ぎながら攻撃し、その隙にウィルフォードへユリアーナを託す。どれほど強い痺れ薬だとしても少しくらいは意識を保てるだろう。
男が小瓶を振る。
琥珀色の液体が弧を描いてレナトスへ迫った。
その寸前――岩場を強い風が吹き抜ける。
レナトスへ向かっていた液体が空中で押し戻され、飛沫はそのまま軌道を変え、逆に小瓶を投げた男の方へ吹き飛んでいった。
「っ……!」
男が慌てて後方へ跳び、他の二人も即座に距離を取る。
今の風はあまりにも都合がよすぎるて、明らかに自然のものではない。
だが、今はそんなことに気を取られている暇はない。
レナトスは剣を構えなおし、小さく息を吐いた。




