2-21
しばらくしてからユリアーナがゆっくりと目を開いた。そして祈りの姿勢を解くと、小さくほっと息を吐く。
象牙色の法衣に包まれたその姿は、鉱山の荒々しい岩肌の中ではひどく儚げに見える。
黒い髪は陽光を受けてやわらかく艶めき、伏せられていた睫毛が白い頬に淡い影を落としている。細い肩も、祈りの余韻を残した指先も、少し強い風が吹けばそのまま攫われてしまいそうだった。
ユリアーナが慰霊碑に向かってもう一度深く頭を下げ、振り返ろうとした時だった。
足をもつれさせたのか身体がふらりと揺れる。バランスを崩す直前、横から素早く腕が差し伸べられた。
レナトスに支えられたユリアーナが顔を上げる。そして申し訳なさそうに、けれどどこか安堵したように淡く微笑みかけた。
レナトスは口元をわずかに緩めてそれに応えると、必要以上に騒ぎ立てることなく、彼女を支えたままゆっくりと階段を下りはじめた。
「へぇぇ。陛下ってあんな顔もできるんだね」
「そりゃそうですよ。なにせ『聖女の伴侶』なんですから。五大国の王族から選ばれる大変名誉なお役目ですし、陛下もそれに相応しい振る舞いをなさっているだけです」
セレンティナが驚きと感心交じりの声を上げる。それに対して、ケヴィンはどこか呆れたように返した。
世間一般にとって、聖女の伴侶に選ばれることはこの上ない栄誉である。女神に愛された聖女を傍で支える役目は信仰厚い者であれば誰もが羨むものだろう。
だからレナトスが聖女を気遣う様子も、周囲の者たちにはごく自然な光景として受け止められていた。
レナトスに支えられたユリアーナは、遺族や鉱山関係者の立ち並ぶ一角に近付くと、静かに一礼した。
遺族たちは涙を拭いながら頭を下げる。
失われた命が戻るわけでもないし、大事な人を亡くした悲しみが消えたわけではない。
それでも慰霊碑に刻まれた名が白い光に包まれたことで、その場にはどこか穏やかな空気が漂っていた。泣き崩れる者の肩を隣の者が支え、年老いた鉱夫が黙って帽子を胸に抱く。
誰もが悲しみを抱えたまま、それでも少しだけ息をつけるようになったのだ。
ユリアーナとレナトスは聖騎士たちに守られながら会場を去っていった。
二人の背を岩陰から見送っていたセレンティナが、ふいに口を開く。
「ねぇ、ケヴィン」
「なんでしょうか」
「アルシェラと話ができるようにしてもらえる? できるだけ急ぎで」
「急ぎですか……それはちょっと難しいですよ」
ケヴィンは困ったように眉を寄せた。
セレンティナは会場に姿を見せるわけにはいかない。アルシェラと話をするなら、こちらに呼ぶ必要がある。
だがアルシェラは慰霊碑近くの前方の席に座っている。しかも慰霊祭はまだ終わっていない。王妹である彼女が今この場で席を立てば、周囲の目を引くのは避けられないだろう。
渋るケヴィンに、セレンティナは悪戯っぽく微笑みかけた。
「平気平気。アルシェラにね、こっちに耳を傾けてくれるように頼んでくれればいいから」
「耳を傾ける、ですか……分かりました。少し待っていてください」
動いちゃ駄目ですよ! と念を押してから、ケヴィンは小走りで岩陰を離れた。
会場の警備任務についていたレオノーラに話しかけると、彼女はすぐさまセレンティナの方をきっと睨みつけてくる。
目だけで、面倒なことを頼んでくるなと言っていた。
岩陰から顔だけ出したセレンティナは、そんな視線を受けてもまったく堪えた様子がない。むしろ可愛さ満点の笑顔でにっこりと手を振ってみせる。
その眩しさに負けたのか、それとも諦めたのか、レオノーラはわざとらしく深い溜息を吐くと、慰霊碑の前方へ歩き出した。
会場の端を大回りし、参列者の邪魔にならないよう慎重に進んでいく。やがてアルシェラの背後へ近付くと、周囲に聞こえないよう身を屈め、そっと耳打ちした。
それを聞いたアルシェラが小さく頷く。
そしてゆっくりと、さりげない仕草で会場から少し離れた大岩へ視線を向けた。
次の瞬間――アルシェラは驚いたように目を瞠った。
みるみるうちに表情が強張っていく。それから右耳に髪を掛けると小さく息を吐いた。
膝の上に戻された手が固く握り締められている。それに気付いたレオノーラは、怪訝そうに眉を寄せた。
ただ呼びかけに応じただけなら、アルシェラがここまで動揺するはずがない。となれば、原因は一つしか思い浮かばなかった。
あの調律者が、見えないところからまた何か余計なことをしたに違いない。
「どうかなさいましたか?」
「……後で、話すわ」
それだけ告げると、アルシェラは前を向いて黙り込んだ。
会場には安息の祈りを終えた後の穏やかな空気がまだ残っている。
遺族たちは静かに涙を拭い、神官たちは低い声で祈りの言葉を続け、慰霊碑の前には白い花が風に揺れていた。
ただアルシェラだけが、膝の上で拳を握り締めたまま、先ほどまでとはまるで違う緊張をその身に宿していた。
「それじゃあ、アルシェラから許可もらったし、行ってくるねー」
「えっ? 許可ってどうやって……ああっ!!」
驚くケヴィンの目の前で、笑顔を浮かべたセレンティナの姿が音もなく揺らいだ。
輪郭が陽炎のように滲み、次の瞬間には純白のローブも銀紫の髪も、そこにいたという気配ごと掻き消えてしまう。
「セレンティナ様!?」
ケヴィンは思わず一歩踏み出した。だが、手を伸ばした先には何もない。
つい先ほどまでそこにいたはずの調律者は跡形もなく消えていた。
お守り役を任されたのは自分だ。絶対に目を離さず、勝手な行動をさせるな。レオノーラにもアルシェラにも、あれほど念を押されていた。
それなのに、肝心の相手が目の前から消えてしまったのだ。
「まずい……これは、まずいぞぉ……」
これはレオノーラに知らせるべきだろうか。
いや、ここで騒げば慰霊祭の会場に余計な動揺を広げるかもしれない。だが知らせずにいて、もし何かが起きれば取り返しがつかない。
焦るケヴィンの耳に、かすかな叫び声が届いた。
山肌をのぼってきた風が遠くの音を運んできたのか、それはごくごく小さな音。慰霊祭に意識を向けている者たちは気付いていないらしい。
一体どこから聞こえてきたのか。
ケヴィンが周囲を見回していると、今度は金属同士がぶつかり合うような音まで聞こえてきた。
「…………戦闘、か?」
反射的にケヴィンは腰に提げた剣の柄を摑んだ。身構えながら近くにいる隊員へ声をかけようとする。
その次の瞬間――視界の端で純白のローブがふわりと揺れた。
「うわっ!?」
「ただいまー。どうしたの?」
何事もなかったかのようにセレンティナがそこに立っていた。
消える前とまったく同じように無邪気に笑っている。純白のローブに乱れはなく、魔術を使った後の疲労も、戦闘の痕跡もまるで見えなかった。
臨戦態勢のまま固まっているケヴィンを見て、セレンティナは不思議そうに首を傾げる。
「どこに、行っていたんですか……!?」
「えぇー? ひ・み・つ」
少し怒ったような、焦ったような口調で訊ねたというのに、セレンティナは楽しそうに笑うだけだった。




