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異端の調律者は天秤を持たない  作者: うつおぎ
第二章 調律者の改革
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2-16


「空いてるよ。どうぞー」


 朗らかな声にアルシェラの手が止まった。ノックしようと浮かせていた右手でそのまま扉の取っ手を握り、押し下げながら扉を開く。

 そこには、深夜にもかかわらず純白のローブを纏い、髪を緩くひとつにまとめたセレンティナが佇んでいた。

 そして、華奢な手には使い込まれた筆が握られている。


「おかえりなさーい」

「ただいま」


 セレンティナは今、グランヴィレア王城の一角にある客室に滞在している。

 ベッドルームとは別に応接間が付いた立派な部屋だが、今はすっかり作業部屋になっていた。重厚なテーブルの上には、まだ何も書かれていない羊皮紙が山積みになっている。


「邪魔してごめんなさい。仕事中だったのね」

「気にしないで。単純な魔紋巻シジルムを描いているだけだから」


 魔紋巻とは羊皮紙に魔術紋を描き、魔力を流すことで紋様に応じた魔術を発動させる簡易魔道具である。

 あらかじめ術式が描き込まれているため、使う者は一から魔術を組み上げる必要がない。必要なのは決められた場所へ魔力を流し込むことだけだ。

 だからこそ、緊急時の備えや、術者の少ない場所での補助として重宝されている。


 ただし使い勝手がよい分、製作には高い精度が求められる。

 魔術紋の線がわずかに歪むだけでも発動する魔術は不安定になる。複雑な魔術を封じ込めるものほど描き手の技量と魔紋墨の品質が結果を左右するのだ。

 魔術に関してはまだ勉強中のアルシェラには、目の前の紋様を読み解くことは難しい。


 セレンティナは「単純」と言っているが、製作途中の魔術紋は細部まで精緻に描き込まれていた。

 曲線は滑らかで、交差する線の太さも均一。複雑に絡み合う紋様はまるで最初から羊皮紙の中に眠っていたものを筆先で浮かび上がらせているかのようだった。

 こんな精緻なものを手本も見ずに描けることに、アルシェラは純粋に感心してしまう。


「この魔紋墨シグラは変わった色をしているわね」


 魔紋墨は魔術紋を描くために調合された専用の墨である。

 主原料は大陸全土に自生する胆樫タンギルの瘤を乾燥させ、煮詰めた液だ。そこに樹液や油煤、鉄錆を溶いた水などを加え、羊皮紙に定着しやすく、なおかつ魔力を通しやすい状態へ整える。


 魔紋墨の基本的な材料は広く知られている。

 けれど配合は製作者ごとに異なり、粘度、乾き方、魔力の通りやすさ、術式への馴染み方に差が出る。単純な魔術であれば大きな問題にはならないが、複雑な魔術を発動させる魔紋巻では、そのわずかな差が精度と安定性を大きく左右する。

 そのため、優れた魔紋墨の配合は多くの場合、工房や製作者ごとの秘伝とされていた。


 普通の魔紋墨は、主原料である胆樫の瘤に由来する黒褐色をしている。

 だが書き途中の紋様はほんのり青みがかっていた。ランプの光を受けると表面に淡い艶が走り、見る角度によっては金色にも見える。

 まるで真珠の内側に夜明け前の空を薄く溶かしたような色だった。

 アルシェラが身を屈めて興味深げに羊皮紙を覗き込んでいると、セレンティナはぱっと表情を輝かせた。


「そうなの! これはね、バートリー兄様が新しく開発した魔紋墨でね、配合を微妙に変えたもので効果の違いを検証するんだってさ」


 セレンティナが指し示した先には、たしかにインク壺がずらりと並んでいた。

 ランプの光を受けたそれらはどれもまったく異なる色をしている。青みがかっていたり灰色に沈んで見えたり、そして赤銅色の艶を帯びたものや表面に細かな光の粒が浮かんでいるものなど千差万別だ。

 一体どんな材料が使われているのか、アルシェラには見当もつかない。とはいえ、魔紋墨の配合や材料は製作者によって異なり、その多くは秘匿されている。気軽に訊いてよいことではないのだ。

 アルシェラは興味を胸の内に留めたまま、並んだインク壺を静かに見つめていた。


「それで、どうしたの?」


 セレンティナに問われ、アルシェラははっと我に返った。慌てて身を起こすと、人形のような顔がこてんと小首を傾げる。

 深夜に訪ねてきた理由はセレンティナには察しがついているはずだった。けれどあえて、アルシェラの口から言わせようとしているようにも見える。

 とはいえ、こちらから切り出すのが礼儀だ。その機会をセレンティナがさりげなく与えてくれたのかもしれない。


「初めて移転装置トランシアを使ったけれど、なんとか大丈夫だったわ」

「それはよかった。酔わなかった?」

「ええ。軽く眩暈がしたくらい」


 移転装置は大陸各地に設置された長距離移動用の魔道具である。

 主要な交易町や国境都市に置かれ、人や荷物を遠く離れた別の移転装置まで送り届ける。利用には厳しい審査と高額な手数料が必要だが、交易や外交、緊急時の連絡手段としては欠かせない。

 魔術を忌避してきたグランヴィレアでも、それだけは公共交通の一種として割り切って運用されていた。


 ただし、王城内部にある王族用の特別な移転装置は別である。

 かつては王族や高位の使者が用いるために設置されていたらしいが、王城での魔術使用が禁じられて以降、稼働を停止したままになっている。管理のための魔術師も触れることを禁じられており、修繕も調整も行われていない。


 だから今回アルシェラが使ったのは王城内のものではなく、王都から少し離れた主要な交易町にある、一般用の移転装置だった。

 魔力を封じられていたアルシェラは、これまで移転装置を使うことができなかった。本人の魔力を流し、術式に認識させる必要がある以上、封魔具で魔力を閉ざされていた彼女には起動そのものができなかったのだ。


 これまではどこへ行くにも飛竜に頼るしかなかったが、今回、初めて移転装置を使ってみて、あまりの便利さに感動すら覚えた。

 これで時間を掛けずに大陸中を移動できる。今後は他国の王族と同じように、外交や公務のためにさまざまな場所へ顔を出せるようになるだろう。


 公務がはかどると思えば嬉しい。

 けれどその一方で、胸の奥にはどこか後ろめたさが残っていた。

 その理由は――。


「ねぇ、セレン……」

「なぁに?」


 これは、迂闊に口にするべき事柄ではない。そう思い直したアルシェラは「なんでもない」と言おうとした。

 だが、目の前に佇む調律者は、その葛藤すら見抜いているかのように淡い笑みを浮かべている。


 深夜の淡い灯りの中で、セレンティナの紫銀の髪は絹糸のように光を含んでいた。

 白い肌には血の気が薄く整いすぎた顔立ちは人の温もりよりも精巧な魔道具を思わせる。長い睫毛に縁取られた瞳は角度によって銀にも紫にも見え、その奥で虹色の光がかすかに揺れていた。

 そんな美貌でじっと見つめられると、隠そうとしていた言葉まで見透かされているような気がした。


「……お兄様の封魔を解く方法は、あるのかしら?」


 これまで誰も口にしなかった。いや、口にすべきではないと思われていたことを、かつては同じ境遇に置かれていたアルシェラが問うた。

 訊ねてしまった瞬間、途轍もなく悪いことをしているような気分になる。

 国王である兄の事情を本人のいないところで探るような真似をしている。そう思うと胸がざわつき、アルシェラは急いで撤回しようとした。


「あははっ、おっかしいの!」


 けれどその前にセレンティナがけらけらと笑い出す。

 動揺を隠しきれないアルシェラを眺めながら愉快そうに肩を揺らしていた。


今日は誕生日なのでリアクションをいただけると嬉しいです!

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