2-3
最大速度で空を駆ける飛竜の背で、ガレスはぐっと奥歯を噛み締めた。
風が顔を打ち、赤い髪が荒々しく煽られる。眼下には険しい山肌が流れるように過ぎていった。
――よりによって、このタイミングで現れるとは。
火竜は成長に時間が掛かる。だから定期的に生息地を巡回し、幼体のうちに駆除していた。これまではそれで問題なかったはずだ。
だがヴィルナタール鉱山に大勢の人が出入りするようになったことで、密かに成長していた火竜はオルヴァンド火脈鉱山群の奥から出てきたのだろう。
人の気配が増えたせいか、あるいは合成獣が消えたことで、この一帯の魔力の均衡が変わったのを感じたのかもしれない。
だが、原因を考えるだけの余裕はない。今は救援が間に合うかどうかがすべてだった。
「団長、間もなく救難信号が上がった地点です!」
「高度を落とせ。そのまま降りる」
命じた途端、飛竜の首がぐっと下がった。翼が風を切り裂き、斜め下へと滑空する姿勢に変わる。
身体が鞍へ押しつけられ、胃が浮くような感覚がした。切り立った崖を回り込んだ途端、焦げ臭い匂いが鼻先を掠める。
「くそっ……!」
「マジかよ……」
騎士の誰かが、思わず呻いた。
岩肌はところどころ黒く焦げていた。その一部はまだ赤く燻り、細い煙を上げている。地面には焼け砕けた石が散乱し、乾いた草は跡形もなく灰になっていた。
点在する岩陰には、調査隊として派遣された騎士と警備兵が身を潜めている。盾を構えている者もいるが、その動きは鈍い。熱にやられたのか数人は岩陰でぐったりと倒れていた。
そして、その視線の先で――巨大な火竜が重々しい足音を立てながら急勾配を這い上がってきていた。
赤黒い鱗は岩のように厚く、ひび割れた隙間から炎のような光が漏れている。長い尾が地面を擦るたび、砂利が焼けた音を立てて弾けた。開いた口の奥には灼熱の光が揺らめき、次の吐息ひとつで周囲を炎に呑み込みそうだった。
崩落への対策として調査隊に頑丈な盾が支給されていたのは不幸中の幸いだが、気休め程度にしかならない。
おそらく、あの炎を真正面から受ければ、盾ごと焼かれるだろう。
「降下開始!」
火竜出現の報を受けて出動したため、ガレスたちは火耐性に特化した装備をしていた。
まずは魔獣の意識をこちらへ向けさせ、調査隊を避難させる。その後に地形を利用して進行方向を制限し、増援が到着するまで時間を稼ぐ。
頭の中でいくつもの行動パターンを組み立てながら、ガレスは小型の火竜の皮を幾重にも張った盾を構える。そして飛竜の背から身を躍らせ、岩陰の前へ着地した。
「団長……!」
「状況を報告しろ」
隊列を整えていると、調査隊の警備責任者がよろめきながら駆け寄ってきた。
額から流れた血が片目に入り込んでいる。眉の下に斜めに走った切り傷があり、傷口から滲む赤が頬を濡らしていた。
責任者はしきりに袖で目元を拭っているものの、血はすぐにまた視界を塞ぐらしい。足取りは危うく、まっすぐこちらへ向かっているつもりでも身体がわずかに横へ流れていた。
平衡感覚を失いながらも必死に駆け寄ってくる姿に、ガレスはぐっと唇を引き結ぶ。
皮鎧の一部は欠け、その端は黒く焦げている。間近で炎を浴びたのだろう。背から抜いた大剣を握る手に自然と力が籠もった。
「調査員は、鉱山の休憩室として使われていた場所へ避難するよう指示してあります」
「わかった。怪我人はそちらに運べ。戦える者は装備を整え次第、戦線に戻れ」
「承知しました!」
指示を伝えようと離れかけた部下に、ガレスはすっと左手を伸ばした。
額にかざした手からぼんやりと薄青の光が放たれた。
目に血が入る原因になっていた眉下の傷が、じわじわと塞がっていく。完全に痛みが消えたわけではないだろう。だが流血は止まり、奪われていた視界がはっきりと戻ったのはわかったはずだ。
「えっ……これ、は…………?」
「早く行け。治癒薬を飲むのを忘れるなよ」
「は、はいっ!!」
責任者は今度こそ危なげない足取りで駆け出した。
その背を見送り、ガレスは火竜が近付いてくる方角へ視線を向ける。そして【治癒】を使ったばかりの手で盾を握り直した。
「覚えとくもんだな……」
わずかに照れを含んだ呟きは、岩を押し潰すような火竜の足音に掻き消される。
セレンティナに指摘された時は本気で余計なお世話だと思った。戦場で小さな傷を治せたところで何が変わるのかと、どこかで侮ってもいた。
だが今、部下の視界を取り戻し、足取りを正したのは紛れもなくその小さな魔術だ。
ガレスは短く息を吐き、臨戦態勢を取る。
迷っている暇はない。
赤熱した鱗を持つ巨体がこちらへ頭を向け、喉奥で炎が膨れ上がった。
「炎が来る! 盾構えろ!」
怒号が飛び、騎士が一斉に盾を並べた。
次の瞬間、火竜の口から灼熱の炎が吐き出される。
まるで世界が真っ赤に染まったかのようだった。
盾の向こうで炎が唸る。灼熱の光が視界を塗り潰し、遅れて凄まじい熱が全身を包み込んだ。
表面の肌が焼かれているわけではない。火耐性に特化した装備は確かに炎そのものを防いでいる。だが熱までは完全に殺しきれなかった。
巨大な蒸し器にでも放り込まれたような暑さがガレスを襲う。肺へ吸い込む空気まで熱く、喉の奥が焼けつく。額から噴き出した汗は流れる前に乾き、鎧の内側で肌がじりじりと炙られているような錯覚に陥る。
それでもガレスは膝を折らなかった。
盾を押さえつける腕に力を込め、炎が途切れる瞬間を待つ。
火竜は連続して炎を吐けない。強大な熱量を喉奥に溜めてから吐き出すので、再び膨らませるまでに間が生じる。そこが攻撃の好機だった。
「攻撃開始!」
ガレスの怒号と共に騎士が大型の魔獣に対応するための陣形に散っていく。
正面に立つ者は最低限に留めて側面と背後へ回り込み、注意を分散させてから攻撃を仕掛けた。
火竜の分厚い鱗は斬りつけても刃が通らないので、狙うべきは鱗の隙間だ。
ガレスは地面を蹴り、大剣を構えたまま右へ走る。火竜の巨大な前脚が地面を踏み締め、熱を帯びた鱗の隙間が一瞬だけ見える。
――そこだ。
ガレスは大きく振りかぶると、大剣の切っ先を火竜の右前脚の付け根へ突き立てた。
「ギィシャアアアア――――ッ!!」
金属を引き裂くような、耳障りな叫びが岩場に響き渡る。
火竜が痛みで暴れ出した。長い尾が岩を砕き、前脚が地面を抉る。その拍子に数人の騎士が吹き飛ばされた。
盾で受けた者は転がり、受け損ねた者は岩陰へ叩きつけられる。
「負傷者を下げろ! 空いた穴を塞げ!」
叫びながら、ガレスは素早く剣を引き抜いた。
黒く粘ついた体液が刃に絡む。焼け焦げた鉄と獣臭が混じったような匂いが鼻を突いた。
怯んでいる暇はない。
ガレスは再び剣先を鱗の隙間に勢いをつけて沈める。そして下に向かってぐっと力を掛けた。
たいていの魔獣であれば、一刀両断できるほどの力を込めた。だが火竜の前脚は断ち切れない。鱗の隙間から真っ黒な体液がだらだらと流れ出るだけで、骨にも腱にも届いている手応えがなかった。
「ちっ! 無駄に硬ぇんだよ、この岩蜥蜴野郎がっ!」
思わず悪態が口を突く。
この戦法ではあまりにも効率が悪すぎる。こちらは一撃ごとに熱と衝撃を浴び、盾も鎧も少しずつ限界へ近付いていく。
対して火竜の傷は浅い。痛みを与え、動きを鈍らせることはできても、仕留めるには遠すぎる。
それでも止まるわけにはいかなかった。
どうすべきか考えながら、ガレスはちまちまとした攻撃を繰り返す。鱗の隙間を刺し、引き抜き、距離を取り、また踏み込む。
いつもなら豪快に叩き斬るはずの大剣が、今は針のように細かな仕事を強いられていた。
火竜の喉が赤く膨らんだのが視界の端に映る。
「そろそろ来るぞ! 下がれ!!」
火竜が首を反らして炎を吐く予備動作に入ったのを見て、騎士たちは再び距離を取った。
ガレスも地面に盾を突き立て、その後ろへ身を隠す。
――これはいずれ、じり貧になる。
装備は火竜用とはいえ、長時間の戦闘に耐えられるほど万全ではない。調査隊を逃がすことには成功しつつあるが、このままでは討伐どころか足止めすら危うくなるだろう。
増援の到着を願いつつ空を見上げた、その時だった。
熱で揺らめく空気の向こうに、ふわりと銀紫の花が姿を現した。
「…………は?」
思わず気の抜けた声が漏れる。
煤けた岩場で長いローブの裾が静かに揺れているのを、騎士達が状況を忘れて見つめていた。
次の瞬間、凛とした声が響き渡る。
「【氷壁!!】」
戦闘シーンを書くのが楽しいのでガレスが好きです。今は。




