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「もういい? お腹空いたから、そろそろ帰りたいんだけど」
気が付けば昼食の時間を少し過ぎている。
セレンティナは食事やおやつを抜かない主義だった。この状況では心底どうでもいいはずのことをアルシェラは不意に思い出す。
だが目の前の調律者にとってはきっとどうでもよくないのだろう。大型の火竜が現れたという報せよりも、契約のない国の危機よりも、自分の昼食の方が優先される。
このままでは、調律者が帰ってしまう。
焦りがアルシェラの喉を締めつけ、考えるより先に口から言葉が押し出された。
「セレン、契約しましょう」
その瞬間、セレンティナを取り巻いていた魔力の渦がぴたりと止まった。
銀紫の髪だけが余韻のようにふわりと揺れる。愛らしい顔に浮かんだのは待っていましたと言わんばかりの笑みだった。
「アルシェラ様……っ!」
レオノーラの制止を無視し、アルシェラはセレンティナの前に立つ。
唇は緩やかな弧を描き、銀紫の瞳はこちらの混乱する心中を見透かしているかのようだった。
先ほどまで帰る気満々だった少女が「契約」という言葉を聞いた途端に調律者の顔になる。その切り替わりの早さにアルシェラはぞくりとした。
「いいよ。でも火竜の討伐は相当な対価が必要になるからね」
「参考までに、金額だとどれほどになるかしら」
「えーっとね……」
セレンティナが襟元のチャームへ指を添える。淡い銀紫の光がこぼれ、手のひらの上に小さな天秤が現れた。
宙に浮かぶ天秤の皿が揺れ、見えない重みを測るように上下する。
やがてセレンティナが告げたのは、グランヴィレア王国の国家予算の四分の一に匹敵する金額だった。
命は金に換えられない。
それはわかっている。だが、おいそれと出せる額ではなかった。王国の財政は決して潤沢ではない。ヴィルナタール鉱山を取り戻したとはいえ、採掘再開にはまだ時間も費用もかかる。
ここでそれほどの金を動かせば、国政そのものが揺らぐ。
「どうしたって命に係わる依頼は対価が高くなっちゃうんだよ。なにせ『世界』のバランスを大きく変えるからね」
「それなら、ガレスたちを守ってもらうのはどう?」
「うーん。対象の人数が多いからもっと高くなるよ」
アルシェラはきゅっと唇を噛みしめた。
だからといって対象を絞ることはできない。ガレスだけを守ってほしいなどと言えるはずがない。調査隊にいる騎士たちも、現地の兵たちも、誰かにとっての大切な人なのだ。
調律者の手を借りることを諦めるか。
それとも、途方もない対価を支払うしかないのか。
究極の選択を前にアルシェラが葛藤していると、目の前でふわりと銀紫の髪が揺れた。
「現実的な提案をしてあげよっか?」
「……お願い」
「仕方ないなぁ。特別だよ」
セレンティナはにこっと笑い、アルシェラへさらに一歩近付いた。
あまりにも距離が近い。思わず退いてしまいそうになる。けれど、なぜかそうしてはいけない気がしてアルシェラはその場に留まった。
「私は戦闘には参加しない。その代わり、現場で火竜を仕留める方法を指示してあげる」
つまり、戦闘の全指揮をセレンティナに譲れと言っているのだ。
だが戦力が増えるわけではない。セレンティナ自身は戦わず、あくまで指示に徹する。それで本当に大型の火竜を仕留められるのか。
アルシェラがそう疑うことも予想していたのだろう。セレンティナの美しい顔ににんまりとした笑みが浮かぶ。
「もちろん、アルシェラにも出てもらうよ。あと魔術師団もね」
「えっ……」
「当たり前でしょ? 使えるものは使わないと」
セレンティナは、どうして驚くのかわからないといった様子で返した。
魔術師団はまだわかる。火竜サラマンドラは火属性の魔力を帯びた竜種だ。通常の騎士だけで挑むより、魔術師の力を借りた方がいい。
だが、王妹である自分まで城を離れてよいのだろうか。
兄である国王はアウレシェルムにいる。直系王族が二人しかいない今、国王不在時に王妹まで王城を離れるのは本来なら避けるべきことだった。
けれど躊躇ったのは、ほんの一瞬だった。
火竜がヴィルナタール近くに現れた以上、対処が遅れてしまえば被害は確実に広がるだろう。調査隊も現地の兵も危険に晒されている。王妹として、王国騎士団の名誉団長として、何もしないまま城に残ることなどできない。
「わかったわ。私も出る」
そう言い切ると、レオノーラが小さく息を呑んだ。
だが止めはしない。おそらく彼女もわかっているのだ。今この場で動ける王族はアルシェラしかいない。
「それで、対価はどんなものを?」
そこが重要だった。
アルシェラとレオノーラが固唾を呑んで答えを待っていると、可憐な調律者はぱっと表情を明るくした。
「グランヴィレアに魔導騎士団を作って」
「…………え?」
「人員の選定と教育は私がやってあげる。どう?」
銀紫の天秤の両皿には柔らかな光が乗せられ、見事な均衡を保っていた。
魔導騎士は魔術武器へ魔力を通し、武術と魔術を一体化させて戦う騎士を指す。
魔術師のように術式そのものを主武装とするのではなく、剣や槍、弓といった武器を軸に魔力を運用する者たちだ。
アルシェラ自身がまさにその形に近い。
弓を構えた矢に風の魔術を纏わせることで、魔力を武器の延長として扱う。魔術を攻撃の補助に留めるのではなく、魔術を同じ一つの技として組み上げる新しい戦い方だった。
だがグランヴィレアでは武力が尊ばれ、逆に魔術は長く軽視されてきた。特に騎士の間ではその傾向が強い。
魔術師団でさえ冷遇されてきた国で、魔導騎士団などという新たな組織を作ることが本当に可能なのか。
――だが。
アルシェラは魔術武器の可能性を身をもって知っている。
魔術を恐れていた自分が、弓を手にもう一度戦えるようになった。魔力をただ危険なものとして封じるのではなく、鍛え、導き、武器と結びつけることができるのだと知った。
魔導騎士の数が増えれば、これまで決して軽くない代償を払わざるを得なかった任務で、犠牲を最小限に抑えられるようになるかもしれない。
魔導騎士団の設立には、必ず反発が起こるだろう。
騎士団からも、魔術師団からも、そして貴族からも異論は出るのは火を見るよりも明らか。
それに国王である兄の許可を得ずに、正式な設立まで決めていい話ではない。
だが、こうしている間にも現地では火竜が暴れ、多くの国民の命が危険に晒されているのだ。
今必要なのは、兄が戻るまで何も決めずに待つことではない。
王妹として、そして王国遊撃騎士団の名誉団長として、正式な裁可を受ける前段階まで道を作ることならできるはずだった。
「……わかったわ。王妹アルシェラ・グランヴィレアの名において、魔導騎士団設立の発議と暫定編成を約束します。正式な設立については陛下の許可を得てからになるけれど、それでも契約は成立するかしら」
セレンティナはその言葉に、にっこり微笑んだ。
「うん、十分だよ」
次の瞬間、天秤が一枚の契約書へと姿を変える。
白い紙の上に銀紫の文字が滑るように浮かび上がり、依頼と対価が刻まれていく。
今ここで契約しなければ、誰かが死ぬ。これは兄の帰りを待ってから動く話ではないのだ。
契約書の文字を見つめながら、アルシェラは胸の奥で覚悟を固めた。
「それじゃあ時間もないことだし、さっさと契約しよっか」
気が付けば10日連続で更新していた自分を褒めたいと思います!




