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ここから魔塔へ【移転】を使うつもりなのだろう。魔力の渦がセレンティナを取り巻き、ふわりと身体が浮かび上がった。
風もないのに銀紫の髪が広がり、光を含んだ糸のように揺れる。純白のローブの裾がゆるやかに翻る姿だけを見れば、ひどく優雅な光景だった。
だが、アルシェラの背にはぞくりと冷たいものが駆け抜けていく。
漂う魔力の濃度があまりにも違う。穏やかに見えるのに、触れれば皮膚を裂かれそうなほどの鋭さを帯びている。
普段は人懐こく笑っているセレンティナが、魔塔の調律者であることを否応なく思い知らされた気がした。
いよいよ本当にお別れ。
そう思った時、背後から荒々しい足音が近付いてきた。
「待ってください!!」
息を切らせたレオノーラが切羽詰まった顔で駆け寄ってくる。
新人隊員の試験があるため見送りには行けないと、朝のうちにセレンティナへ挨拶を済ませていたはずだった。
もしかして別れを惜しんで来たのかとも思ったが、それにしては顔色が悪すぎる。
周囲にいた侍女や騎士達も何事かと足を止めている。和やかだった見送りの空気がレオノーラの必死な表情によって一瞬で張り詰めていった。
「大変、で、す……あのっ、ヴィルナタール…………でっ」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、それでもレオノーラは合間でなんとか言葉を繋ぐ。
かろうじて聞き取れた地名にアルシェラはすっと表情を固くした。
「レオノーラ、ヴィルナタールがどうしたの?」
調査隊の第一陣が派遣されたのは二日前で、予定通りであれば今日から鉱山内部に入っているはずだった。
まさか――崩落事故だろうか。
嫌な考えが頭をよぎり、アルシェラはつい強い口調で急かしてしまう。
レオノーラは胸元を押さえ、大きく息を吸い込んだ。それでも整わない呼吸のまま必死に言葉を押し出す。
「ヴィルナタールの近くに、大型の火竜が現れ、まし、た!」
「なん、ですって……?」
火竜は灼熱の炎を吐く巨大な蜥蜴のような姿をしている。幼体のうちは火蜥蜴型の魔獣として駆除可能だが、大型化した個体は厄介なのだ。
赤熱した岩のように硬い鱗は並の刃を弾き、口から吐き出される炎は鎧ごと人間を焼き尽くしてしまう。
討伐が遅れれば山林や坑道だけでなく、近隣の集落や街道にも被害が及ぶので、発見され次第、最優先で討伐隊を編成すべき危険な魔獣の一つである。
ヴィルナタール鉱山の奥には、オルヴァンド火脈鉱山群がある。
地下深くに火属性の魔力を帯びた熱脈が走り、火蜥蜴型の魔獣が多く棲みつく危険地帯だ。おそらくそこから移動してきたのだろう。
発生エリアはこまめに巡回し、小型のうちに駆除していたはずだった。だが打ち漏らしがあったらしい。
アルシェラはふっと小さく息を吐き、焦りと動揺で空回りしそうになる思考をなんとか押さえ込んだ。
「ガレスはどこ?」
「すでに、向かわれ……まし、た」
察するに、報告を受けた騎士団長は自ら現地へ赴くと決め、その件も含めてレオノーラに報告するよう命じたのだろう。
例によって国王は、聖女に呼び出されてアウレシェルムに行っている。
とはいえ、王城でじっとしているわけにはいかない。
ガレスに任せて結果を待つべきか。
それとも自分も加勢に向かうべきか。
あらゆる選択肢から最適解を導き出そうと、アルシェラは必死で考えた。
その耳に、朗らかな声が滑り込んでくる。
「大型の火竜かぁ。大変だろうけど頑張ってねー」
「はあっ!? ちょっと待ってください!!」
セレンティナは再び魔塔へ戻るべく、【移転】の準備を始めていた。
まるで他人事のような口ぶりに、ようやく呼吸を整えたレオノーラが食ってかかる。
「ん? なに?」
「なに、ではありません! 緊急事態なんですよ!? このまま帰るつもりですかっ!?」
「うん。そのつもりだけど」
悪びれる様子は一切なかった。
レオノーラの顔がさらに険しくなる。調査隊に参加している騎士の中にはセレンティナの訓練を受けた者が多い。しかも団長であるガレスまで加勢に向かっているのだ。
あれほど騎士団と関わっておきながら、危機を知ってもなお見て見ぬふりをするのか。
凄まじい怒りがレオノーラの瞳に浮かんでいた。
「手を貸してくださいよ! 貴女なら火竜だってどうにかできるのでしょう!?」
「うーん、できるかどうかと、やるかどうかは別なんだけどね」
「今そんな理屈を言っている場合ではありません! 団長も騎士たちも現地に向かっているんです!」
「だってそれはガレス達の仕事でしょ?」
セレンティナはこてんと小首を傾げる。
その仕草は愛らしい。けれど返ってくる言葉は、ひどく冷たかった。
「契約していないのに、どうして私が手伝わなきゃいけないの?」
「なっ……団長や騎士たちが死んでもいいんですか!?」
「うん」
あまりにもあっさりと即答され、レオノーラとアルシェラは絶句し、周囲にいた者たちも息を呑む。
セレンティナの声はあまりにも軽かった。だからこそ、その言葉の冷たさが真っ直ぐに胸へ突き刺さる。
「あのね、私は調律者で、契約があったからここにいるだけ。別にグランヴィレアの騎士でも、レオノーラの仲間でもないんだよ?」
「だけど……!」
「そもそも、関係を盾にして協力を強いるのはどうかと思うけどね」
それはあまりにも冷徹で、同時にとてつもない正論だった。
たしかにセレンティナは騎士団に所属していない。それ以前に、グランヴィレアの国民ですらない。
天秤の契約によって王城に滞在していた調律者であり、その契約はすでに完了している。
つまり、加勢する義理はない。
どれほど騎士たちと親しく言葉を交わしていたとしても、ガレスに稽古をつけ、アルシェラを導いてくれたとしても、それはすべて契約の範囲内で行われたことなのだ。
だけど、それでも――。
継ぐ言葉を失い、レオノーラはぎゅっと唇を噛み締めた。悔しさで肩が震える。
助けてくれると思っていた。
あれだけ明るく笑い、騎士たちの努力を褒め、王城の人々に愛想よく手を振っていたのだから。危機が訪れれば当然のように力を貸してくれるはずだと、どこかで思い込んでいた。
けれど目の前にいる美しい少女は、どこまでも調律者だった。
アルシェラは胸の奥がきゅっと痛むのを感じながら、セレンティナを見つめた。
彼女は薄情なのではない。
ただ、天秤の外にある情で動くようには作られていないのだ。
そう理解してしまったからこそ、何も言えなかった。




