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「ねぇねぇ、アルシェラは聖女に会ったことある?」
つい先ほどまで、新たな魔術遮断器の仕組みについて話していたはずだった。
それなのに何の前触れもなくセレンティナから問われ、アルシェラは一瞬だけ答えに詰まってしまう。
スターラ大陸に住まう者の大半はヘデル教の信徒である。けれど調律者は宗教を持たない。むしろ魔塔は神殿と対立関係にあると言われており、聖女と接触する機会など皆無に近いはずだった。
どんな意図があるのかわからないので正直に答えていいのだろうか。
アルシェラはわずかに逡巡した後、静かに「ええ」と返した。
「瘴門ができた時、ユリアーナ様が浄化に来てくださったの。その時にご挨拶させてもらったわ」
瘴門は瘴気が一定以上に凝り固まった場所に発生する異常な門である。
「門」と呼ばれてはいるが、石造りの門でも扉でもない。見た目は黒紫の瘴気が空間を裂いてできた傷に近く、その奥から魔獣が這い出してくる。
一度開いた瘴門は、周囲の瘴気を吸い上げながら魔獣を生み出し続ける。溜まった瘴気が尽きるまで魔獣を滅し続けるか、聖女の持つ神聖魔術によって浄化するしかない。放置すれば地域一帯が魔獣の巣窟と化す、スターラ大陸における重大な災害の一つだった。
あの光景は今でも忘れられない。
聖女ユリアーナは大勢の聖騎士とレナトスに守られながら、瘴門へ近付いていった。周囲には魔獣の残骸が散らばり、黒紫の瘴気が地を這うように流れていた。近くにいるだけで胸が悪くなるような淀みの中を静かに歩いていった。
そして瘴門の前で跪き、祈りの姿勢を取る。
次の瞬間、白く眩い光が周囲を包み込んだ。
それまで騎士たちが命がけで押し留めていた瘴気が、まるで朝日に溶ける霧のように薄れていく。黒紫の裂け目はゆっくりと縮み、やがて何事もなかったかのように消滅した。
本来なら溜まった瘴気が尽きるまで、ひたすら魔獣を滅しながら耐えるしかない。それを一瞬で消し去った。
その圧倒的な神聖魔術の力に、アルシェラは畏怖の念に近い感情を抱いたほどだった。
「聖女ってどんな感じの人?」
「とてもお綺麗な方よ」
「私より?」
何の臆面もなく、まるでそう訊ねるのが当然と言わんばかりに問いを重ねられ、アルシェラもつられて真剣に考えてしまう。
「ユリアーナ様は長くてまっすぐな黒髪で、切れ長の漆黒の目をした美しい方なの。セレンは可愛いタイプだから、比べるのは難しいわね」
「ふーん。方向が違うってことかぁ」
セレンティナは自分の方が綺麗だと断言されなかったことが少々不満だったのか、つんと唇を尖らせている。
そんな仕草すら愛らしく、アルシェラは思わず見惚れてしまった。やはり目の前の調律者は、人離れした美貌の持ち主なのだと改めて認識させられる。
「でも、アルシェラは『聖女の伴侶』の妹なのに、それくらいしか交流がないのが意外かも」
「……そう、ね」
聖女ユリアーナの出自は、ほとんど公にされていない。
噂では、山奥の村で慎ましく暮らしていた平民の娘だったという。五年前に突如として神聖魔術を発動したことで神殿へ預けられ、女神ヘデルマトの祝福を受けた者として「聖女」の称号を得た――それが、民に広く知らされている話だった。
それまで三十年以上、神聖魔術の使い手は現れていなかった。
瘴門への対処に苦慮していたスターラ大陸は聖女の誕生に大いに沸いた。神殿は女神の慈悲を説き、各国は競うように祝辞を送り、民は救いが戻ったのだと歓喜した。
セレンティナはもっと聖女の人となりを知りたかったのだろう。
だがそういう目的であれば、アルシェラに尋ねるのは明らかに人選ミスだった。
「聖女の伴侶」は、本来なら五大国の王族が話し合いによって選出するのが慣例である。けれどレナトスは、大神殿からの指名によって就任した。
その決定を不満に思った他国の王族が理由を尋ねたところ、「聖女様がお望みになったのです」と告げられたらしい。それ以上、誰も追及することはできなかったと聞いている。
レナトスは国王としての政務に忙しい。
だが神殿と良好な関係を維持するためにも、大神殿からの要請を簡単に断ることはできなかった。そのため頻繁に、聖女の住まうアウレシェルムを訪問している。
グランヴィレア王国には現在、レナトスとアルシェラしか王族の直系がいない。
つまり国王が不在の間は、王妹であるアルシェラが王城に留まる必要があった。そんなわけで、アルシェラが聖女と交流を持つ機会はほとんどないまま今に至っている。
「さーて、と……そろそろ行こうかな」
すでに新しい魔術遮断器は問題なく稼働している。
これでグランヴィレア王国がセレンティナと結んでいた天秤の契約は、すべて完了したことになる。
セレンティナは「念のために」と言って、魔塔に戻る前にアルシェラと共に各フロアに置かれた親機の最終確認をしていたのだ。
エントランスから一歩外に出ると、一つに編み込まれていたセレンティナの髪がするするとほどけていく。銀紫の髪は光を受けながら広がり、いつものようにふわふわと宙を舞い始めた。
王城の中では見られなかった姿。銀紫の髪が自由に揺れるのを見て、アルシェラは本当に別れの時が来たのだと実感した。
「毎日ちゃんと訓練するんだよ?」
「えぇ、必ず」
「それじゃ、何かあったらいつでも依頼をお待ちしていまーす」
軽い口調で言いながらセレンティナが魔術師の礼を取る。そして悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔は、初めて会った時と少しも変わらない。
明るくて、無邪気で、どこか底が知れない。けれどアルシェラにとっては、暗い石塔の中へ差し込んだ光のような存在だった。
ようやく日常が戻ってくることへの安堵。
そして嵐のように過ぎ去った日々への名残惜しさ。
二つの感情がアルシェラの胸に静かに去来した。
「セレンティナ……本当に、ありがとう」
これにて一章は終了です。
が、このまま二章に突入いたしますので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




