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レナトスは腰に提げた剣を鞘から軽く抜き、刃に親指を滑らせた。
小さくも鋭い痛みが走る。だが眉一つ動かさない。玉のように浮いた深紅の雫を鍵の握りにある小さな窪みへと落とす。
次の瞬間、刻まれた魔術紋がぼんやりと光りはじめた。
古びた鍵の表面を淡い光が水のように伝っていく。長い年月を眠っていた術式が王族の血を得て目覚めたのだろう。鍵の内側で何かが小さく震えるような感覚があり、周囲の空気がかすかに重くなった。
「ほらっガレス、光ってるからこっちに来なよ! こういうの見たことないでしょ?」
「うるせぇな。見えてるっつーの」
銀紫の瞳を輝かせ、セレンティナは子供のようにはしゃいでいる。振り返り、少し離れた場所で待機しているガレスに手招きしたがすげなく断られてしまった。
ガレスは腕を組んだまま、こちらへ近付こうとはしない。父を失った場所の封が解かれる瞬間を見たい気持ちと、見たくない気持ちがせめぎ合っているのかもしれない。燃えるような赤髪が山風に揺れ、その横顔にはいつもの豪快さとは異なる硬さがあった。
「このまま開錠しても構わないか」
「はーい。お願いしまーす」
扉の先には数多の人間を屠った魔獣が待ち構えているというのに、セレンティナは観光に来ているかのような気楽さで返してくる。
淡く光る鍵が扉の鍵穴に挿し込まれた。
金属の擦れ合う音が響く。それは、長く閉ざされたものがようやく動き出す音でもあり、過去に押し込めたものが再び顔を出す音にも聞こえる。
ゆっくり鍵を回すと、扉全体に同じ光が広がっていった。
稲妻のような軌跡が魔術紋をなぞり、幾重にも重ねられた封印が順番にほどけていく。扉の奥で重い錠が落ちる音がした。
ひとつ、ふたつ、さらに奥で低い音が続く。
ややあってから、重々しい軋みと共に扉が開かれた。
「あっ、そうだ。先にこれを預けておくね」
扉の前でセレンティナが長い髪をふわりと揺らしながら振り返る。その手のひらには拳ほどの透明な玉が埋め込まれた木箱が乗っていた。
映像が記録できるこの魔道具は、魔術をほとんど使わずに暮らすグランヴィレア人でも知っている。式典や重要な会議の記録にも使われるが、実物を目にしたことのある者は多くない。
セレンティナはそれを、契約によって守ることになっているガレスへ差し出した。
ガレスは苦々しい顔をしながらも両手で丁寧に受け取った。乱暴な男ではあるが、預かったものを粗末に扱うほど無責任ではない。
するとセレンティナは、こてんと首を傾げる。
「そういえば、陛下に【治癒】を使ってあげないの?」
「…………は?」
突然の質問にガレスは呆気に取られている。何度か瞬きを繰り返すと、あからさまに嫌そうな顔をした。
「お前、どうして俺の魔術属性を知ってるんだ。まさかアルシェラから聞いたのか?」
「あの子はそこまで浅慮じゃないよ。ガレスと違って」
自分の魔力がどの属性を有しているのかは個人に属する情報である。本人から教えられるならまだしも、第三者が勝手に明かすのはよほど特殊な事情がない限り非常識とされていた。
それを否定されただけでなく、暗に「お前とは違う」と評されたガレスがむっとした顔で詰め寄ってくる。
「それならどうして知ってるんだよ!?」
「私はね、すごく目が良いの」
大きな銀紫の瞳をくるりと回し、セレンティナが悪戯っぽく微笑む。
無邪気な笑みだが、それ以上の追及を拒む圧がある。踏み込んできても答えるつもりはない。そう言われた気がして、ガレスはただじろりと睨むだけに留めた。
「もしかして、魔術は習ってない?」
「あぁ。必要ないからな」
「そっか。でも治癒くらいは使えたほうがいいと思うよ? 戦いながら小さな傷が治せたら便利だし」
セレンティナの言い分はもっともだ。
指先が痛めば剣を握る力が弱まり、足の傷を庇えば踏み込みが甘くなる。それが命取りになる可能性はないとは言えない。ガレスほどの武人であっても、いや、戦場に立つ時間が長いからこそ、小さな傷が致命的な隙へ繋がることはよく知っているはずだった。
「……考えておく」
「うん。ぜひそうして」
渋々といった様子で答えるガレスにセレンティナはにっこりと微笑みかける。そしてレナトスの前をするりと通ってから鉱山の入口へ歩いていった。
セレンティナとすれ違った瞬間、右手の親指の先がじわりと温かくなる。
レナトスにはその感覚に覚えがあった。さりげなく視線を落とすと、鍵へ血を落とすために傷を入れたはずの親指は跡形もなく治っていた。
痛みもない。血の跡すら薄れている。
――勝手なことをするな。
レナトスは声に出さず、どこか責めるような眼差しをセレンティナへ向けた。
国王に睨まれたとなれば大半の者は震え上がる。だがセレンティナはどこ吹く風。ちらりとこちらを見たかと思えば、秘密を一つ共有した子供のように目を細め、すぐに視線を坑道へ戻してしまう。
「それじゃ、入りましょっか」
「おう」
「……ああ」
三人は扉をくぐり、坑道に足を踏み入れた。
中は薄暗い。だが壁や天井のところどころに発光する鉱物が埋まっているおかげで、視界は辛うじて確保できていた。淡い青白い光が岩肌を照らし、足元には古い木材や崩れた石片が転がっている。
ずっと閉ざされていた空間特有の澱んだ空気が肌にまとわりつく。そこにはかすかに饐えたような匂いが混じっていた。
乾いた土と金属の匂い。その奥に長い年月をかけて腐った何かの気配がある。
セレンティナは軽やかな足取りで進んでいく。
まるで珍しい遺跡を見学しているように、時折壁へ顔を近付けたり、天井の鉱物を見上げたりしていた。純白のローブは薄暗い坑道の中でやけに目立ち、その背中だけがこの場所の重さから切り離されているように見える。
対照的に、レナトスとガレスは険しい表情で周囲を警戒していた。
レナトスは半歩遅れて歩きながら、片手を剣の柄へ添えている。視線は常に前方と左右を往復していた。坑道の壁には横穴の跡があり、崩れかけた支柱の陰も多い。何かが潜んでいてもおかしくない。足音が岩肌に反響するたび、その響きの中に別の音が混じっていないか耳を澄ませる。
ガレスは記録用の魔道具を左腕に抱え、右手で大剣の柄に触れていた。いつものように大股では歩かない。踏みしめる位置を確かめ、天井のひびや足元の石まで細かく見ている。粗雑に見えて、戦場での警戒は徹底している男だった。
だがその横顔には、単なる任務以上の緊張が滲んでいた。
ここは父が死んだ場所だ。
その記憶が一歩ごとにガレスの心を重くしているのだろう。奥へ進むにつれて口数は目に見えて減っていく。
坑道の奥から冷たい風が流れてくる。
それは外の風ではない。
山の腹の奥深くから吹き出す、湿った息のような風だった。
――この先にいる。
連続更新にチャレンジしてみましたが、結構楽しかった!
これからも更新できる時はさくさく更新していこうと思います。




