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訓練場に、矢が的へ刺さる軽やかな音が響いた。
乾いた音は風に乗り、広い訓練場の端まで抜けていく。見守っていた騎士たちが思わず息を呑んだ。誰も声を上げない。けれど視線だけは、射線の先にある的へ釘付けになっていた。
「うんうん、いいんじゃなーい?」
セレンティナの弾んだ声に、弓を下ろしたアルシェラがほっと息を吐きながら肩の力を抜いた。
弦を引いていた指先にはかすかな痺れが残っている。魔力を通した時に起こる微かな熱が掌にじんわりと広がり、鼓動が少し遅れて追いついてきた。
的はこちらに背を見せた状態で軽く下に向けられている。それがくるりとこちらに振り返り、アルシェラの成果を見せてきた。
放たれたハシバミの矢は的の中心よりやや下に刺さっていた。完全な中心ではない。だが矢羽はほとんど乱れておらず、軌道が大きくぶれなかったことを示している。
後ろに控えていたレオノーラが、思わず「見事です……!」と感嘆の声を漏らした。
「弓の使い心地もよさそうだね」
「えぇ。練習すればすぐに慣れると思うわ」
アルシェラが新たな弓を手にしたのは三日ほど前のこと。
これはセレンティナから借りていたものとは異なり、アルシェラの腕の長さや引き絞る力、構えた時の重心に合わせて調整されている。木材にはしなやかで戻りのよいものが使われ、握り部分はわずかに細く削られていた。
細いアルシェラの手にも馴染みやすく、長く構えていても余計な力が入らない造りだ。
そして、魔術武器たる所以は握り部分にある。
黒革の下には薄く延ばしたヴェルツァイト青銅の帯が螺旋状に巻き込まれていた。革を留める小さな鋲も同じ合金で作られており、外見だけなら通常の弓の革巻きとほとんど変わらない。
だが掌から流し込んだ魔力は、革の下に仕込まれた金属帯を伝って弓全体へ巡り、つがえた矢へと滑らかに移っていく。
ヴェルツァイトは魔力伝導に優れた希少鉱物である。だが単体では脆く、薄く延ばしたり細工したりするには向かない。
そのため実際に魔道具へ用いる際は、銅と錫に少量のヴェルツァイトを混ぜて合金化する。そうして作られたヴェルツァイト青銅は純度こそ高くないものの、安価で加工しやすく、導線や留め鋲として使うには十分な性能を持っていた。
財政に余裕のないグランヴィレアにとっても、これなら現実的に扱える。高価な銀を混ぜた上等な合金ではなく、銅と錫を基礎にした実用品。だがその控えめな輝きは、アルシェラの手の中で確かな力を発揮していた。
元々優秀な弓の使い手であるアルシェラは、自分にぴったり合った武器を手にしたことで、あっという間に難しい制御も習得していった。
借り物の弓では魔力の通り方にわずかな引っ掛かりがあったが、この弓は違う。
掌から流れ出た魔力が弓の内側で迷わず矢へ届く。自分の呼吸と弓のしなりと風の動きが、ひとつの線で繋がっていくような感覚があった。
「魔力の通し方もスムーズになったし、あとは力んだ時に流しすぎることだけ気をつければ十分かなぁ」
「あの、それって……」
セレンティナから魔術の使い方を学び始めて、早くも一ヶ月が経過していた。
最初は弓を持つ手が震えた。風を呼ぼうとするだけで全身が強張り、少しでも魔力が揺れるとあの日の恐怖が蘇った。
それでも毎日少しずつ積み重ねてきた。【浮遊】を覚え、【拡声】を覚え、【風の刃】を覚え、そして今――魔術を乗せた矢を操れるようになった。
だから、そろそろ独り立ちできるのではないか。
そんな期待が胸の奥で小さく膨らんだ。
アルシェラが小さく息を呑む。期待に輝く瞳にセレンティナの優美な笑みが映った。
「私の指導はこれで終わり。よく頑張りましたー!!」
爪先立ちになったセレンティナが手を伸ばし、アルシェラの頭をぽんぽんと撫でる。
本来なら王妹に対して不敬極まりない仕草である。だが今のセレンティナはアルシェラの師だ。そう考えれば仕方ない。少なくともレオノーラは苦い顔をしながらも何も言わなかった。
「ありがとう、セレン……貴女のお陰よ」
言葉を詰まらせながら感謝を伝えるアルシェラの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
魔力暴走を起こした時、そこには絶望しかなかった。
己の身体から吹き荒れる風を自分では止められない。どんなに叫んでも、泣いても、祈っても、突風はすべてを壊し続けた。
家具が倒れ、壁が裂け、割れた破片が舞う。その中心にいたのは紛れもなく自分だった。
近付こうとした者が怪我をしたと聞いた時、心臓を握り潰されたような気がした。
自分は生きているだけで誰かを傷つける。息をするだけで周囲を怯えさせる。王妹として民を守るどころか、城の中にいるだけで災厄になってしまう。
石塔に閉じこもった日々は、光の届かない底へ沈んでいくようだった。
扉の向こうから届く声が怖かった。誰かが優しく呼びかけてくれるほど苦しかった。大丈夫だと言われても、何が大丈夫なのかわからなかった。
眠ることすら怖かった。悪夢をみてまた暴走したらどうしよう。目覚めた時に誰かが傷ついていたらどうしよう。そんな想像ばかりが頭を巡り、眠気が来るたびに同時に胸が恐怖で押し潰されそうになった。
アルシェラは王妹であり、王国騎士団の名誉団長でもある。それなのに自分は何も守れない。弓も握れないどころか人前にも出られない。
役割を果たせないのなら、これ以上迷惑をかける前に自ら命を……そう考えてしまうほど追い詰められていた。
希望など欠片ほども抱けず、未来を思い描くことすらできなかった。ただ自分の中にある力を恐れ、誰にも触れられず、石塔の中で息を潜めるだけの日々を送っていたのだ。
そんな状況を、魔塔から遣わされた調律者が打ち破ってくれた。
しかもセレンティナは、まるで大したことではないかのように笑っていた。怖がることも、憐れむことも、必要以上に慰めることもしなかった。
ただ当然のように「制御できるようになればいいでしょ?」と言い、手を差し伸べてくれた。
風は恐れるだけのものではない。弓と合わせれば武器になる。声を乗せれば遥か遠くまで届けられる。
この力は誰かを傷つけるためだけにあるのではないと――そう教えてくれた。
セレンティナはアルシェラにとって、恩人といっても過言ではない。けれど当の本人は不思議そうな顔でこてんと小首を傾げている。
「私のお陰なのは間違いないけど、契約しているから教えただけだよ?」
「ふふっ、そうね」
セレンティナは時折、ひどくドライな反応を見せる。
調律者は何よりも契約を重んじるらしい。時には礼節すらも無視するのでマナー違反のように見えることはあるが、それが彼らの価値観なのだろう。
最初の頃は戸惑うことが多かった。アルシェラもレオノーラも、セレンティナの言動に何度も目を丸くした。けれど今となっては、頭の固いレオノーラですら苦い顔をするものの口を出さなくなってきている。
その反応がアルシェラの目にはやけに新鮮に映っていた。
少し前までならこんな穏やかな時間を取り戻せるなんて思えなかった。訓練場に立ち、弓を握る。そんな当たり前のような光景が今は奇跡のように尊く思えた。
アルシェラは涙を拭う代わりに、もう一度だけ弓を握り直す。手の中でヴェルツァイト青銅がほんのりと温かい。
その熱は、自分がまだ前へ進めるのだと教えてくれているようだった。
なんと、明日も更新しますよー!




