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「んーと、アルシェラが契約するってことでいいんだよね?」
「えぇ。それで構わな……」
「待ってくれ!」
まとまりかけた話に、必死な声が割り込んだ。
セレンティナとアルシェラが見下ろすと、相変わらず地面に縫い留められた状態のガレスが険しい顔でこちらを見つめていた。土に伏せたままでは威厳も何もあったものではない。
それでもその瞳には、騎士団長としての矜持がぎらぎらと燃えていた。
自分の不始末を王妹に尻拭いさせるわけにはいかない。そんな焦りが、苦しげに歪んだ顔に滲んでいる。アルシェラに庇われたことそのものが、彼の誇りをひどく傷つけているようだった。
「これは俺の責任だ。俺が契約する」
「おぉー、頼もしい発言!」
セレンティナが感心したような顔で、ぱちぱちと拍手をする。
その軽やかな音が、張りつめた訓練場にはひどく場違いに響いた。地面に押さえつけられた騎士団長と、その上に浮いたままの大剣。命のやり取りになりかけた場面だというのに、調律者だけがどこまでも明るい。
「その体勢じゃなければ完璧なんだけどねぇ……」
「うるせえ! お前のせいだろうがっ!!」
「それじゃ、なにを対価にしよっか?」
訓練場に響き渡る怒号を完全に無視し、セレンティナは無邪気な笑みと共に銀紫の天秤を手の上に出現させた。
淡い光を纏う天秤が宙に浮かぶ。澄んだ金属音が小さく鳴り、周囲の騎士たちが反射的に息を詰めた。初めて見る魔塔の契約魔道具に誰もが目を奪われている。
セレンティナはうーんと小首を傾げて思案した。
ガレスは隙ができたと思ったのか、再び起き上がろうと試みる。分厚い腕に力を込め、肩を軋ませ、土を抉るほど指を立てた。
だが、見えない力は容赦なく巨体を押さえつけ、抵抗はあえなく失敗に終わった。
「うーんと、ガレスの家に滞在するとなると……三年かぁ」
「えっ……」
かしゃりと軽やかな音を立てて、傾いていた天秤が釣り合う。
そんなものが対価になるのかと、誰もが驚いた。ブロディ伯爵家に調律者が三年滞在する。それは名誉なのか負担なのか、即座には判断できない。少なくとも伯爵家の者たちが腰を抜かす未来だけは容易に想像できた。
だが言い出しっぺであるはずのセレンティナはなぜか渋い顔をしている。
「でもなぁ、あんまり楽しくなさそう……」
「なんでだよ!」
「あっ、いいこと思いついた!」
引き続きガレスをいないものとして扱いながら、セレンティナは勝手に話を進めていく。
完全に調律者のペースになっているのをアルシェラが心配そうな顔で見守っていた。ガレスが右腕を失わずに済むなら対価を払うこと自体は構わない。だが相手は魔塔の調律者だ。どんなものを要求されるのか見当もつかない。
一体、グランヴィレア王国の騎士団長の右腕を救うために、どれほどの代償を払わなければならないのか。
誰もが固唾を呑んで見守っていた。
「ヴィルナタール鉱山への同行でどう? 陛下も来ることになっちゃったから一緒に来てもらおうかな」
「なん、だと……?」
ヴィルナタール鉱山という名だけで、空気が一瞬にして冷えた。
今もなお凶暴で危険な合成獣が棲みついていると言われる場所へ、どうしてこの調律者は行こうとしているのか。
しかも国王まで同行するというではないか。あまりにも異常な事態に、周囲には静かなざわめきが広がり、訓練場の騎士たちが顔を見合わせる。
「記録も撮りたいんだよね。だからその魔道具が壊れないように守ってもらってー、ついでに陛下の護衛もよろしく」
セレンティナの中では、グランヴィレア国王よりも記録用の魔道具の方が大事らしい。
不敬と責められてもおかしくない発言だが、そこはやはり調律者である。世の常識の外にいる存在なのだろう。悪びれる様子はまったくなく、むしろ名案を思いついたとばかりに目を輝かせている。
さっきまで隙あらば逃れようとしていたガレスが、急に大人しくなっていた。
土に伏せたままの顔から怒りが引いていく。代わりに、騎士としての本能が戻ってきたようだった。
危険な鉱山に国王の同行する。ならば騎士団長である自分が行くのは当然だと、その目が語っている。
「…………やる」
「ガレス! そんな簡単に決めていいことではないわ」
「いや、むしろ願ったり叶ったりだ」
アルシェラが止めようとしたが、ガレスの腹はもう決まっていたらしい。撤回されることはなく、むしろ早く契約しろと言わんばかりの勢いだった。
それは軽率ではない。少なくとも彼の中では、自分の右腕を守るためだけの契約ではなかった。国王を守り、そして、かつて多くの騎士を失ったヴィルナタール鉱山へ向かう。
その固い決意を前に、アルシェラは言葉を失った。
ややあってから諦めたかのように小さく息を吐き、苦笑いを浮かべる。
「それじゃ、早速契約をしようか」
セレンティナが歌うように宣言すると、天秤が一枚の紙に姿を変えた。
光の粒がほどけ、白い紙片へと収束していく。その様子は美しいのに、そこに記される内容はガレスの運命を決めるものだ。訓練場の誰もが息を潜める中、契約書は相変わらず伏せているガレスの左手の前へ差し出された。
「署名の所に魔力を流してね」
「わかった」
辛うじて動かせる指先をガレスが契約書に触れさせる。
その瞬間、紙面に淡い光が走った。見えない筆で記されるようにガレスの名が浮かび上がり、契約書はセレンティナのもとへふわりと舞い戻る。
「契約ありがとうございまーす。それじゃ、行こっか」
セレンティナは陽気に告げると、手にした契約書を音もなく消した。そして隣に立つアルシェラへ声を掛けてから、くるりと背を向けてすたすたと歩き出す。
あまりにも自然な動きは、先ほどまでガレスの右腕を斬り落とそうとしていたことなど、本当に忘れてしまったかのような軽さだった。
「セレン、あの……ガレスを解放してあげてちょうだい」
「あぁ、忘れてた」
セレンティナはちょっとした忘れ物を思い出したかのように言うと、ぱちんと右手の指を鳴らした。
その瞬間、ガレスの身体を押さえつけていた見えない力がふっと消える。同時に、宙に浮いていた大剣が急に重さを思い出したかのように落下していった。
「ちょ……っ! うぉい!!」
ガレスの叫びと、ざしゅっ! という鈍い音が重なった。
大剣は太い右腕のすぐそばに深々と突き刺さっている。土を割り、刃の半ばまで沈み込んだそれは、ほんのわずかでも位置がずれていれば腕が落ちていただろう。
ガレスは反射的に右の手首を左手で掴んでいる。その顔に血の気はない。自分の腕と、すぐ脇に深々と突き刺さった大剣とを交互に見つめる。
刃は皮膚を掠めるほど近かった。あとほんの一瞬でも反応が遅れていれば、右腕は間違いなく地面に縫い止められていた。そう理解した途端、喉の奥が引き攣り、小さく息を呑む音が漏れた。
もし、ほんの一瞬でも動くのが遅れていたら――。
その先を想像した面々は、一斉に青褪めた。誰かが息を呑み、誰かが無意識に自分の腕を押さえる。訓練場に満ちていた熱気は一瞬で冷えきり、背筋を撫でる風だけがやけに冷たく感じられた。
そんな中、セレンティナだけが何事もなかったように振り返る。
「おっ、ちゃんと避けられたんだ? これなら心配なさそうだね」
明るい声が訓練場に落ちる。
その無邪気さに、誰もすぐには返事ができなかった。
なんと、明日も更新します!




