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一方的かつ強引に始められた手合わせは、あっけなく終焉を迎えた。
とはいえ、騎士団長が地面に伏せたまま藻掻いている理由を理解しているのは、遮断の魔術を知るアルシェラとレオノーラだけだった。
その他の者は何が起こったのかわからず、ただその光景を呆然と眺めている。
グランヴィレア王国の騎士団長、ガレス・ブロディ。
大陸でも名を知られた剣士であり、王国最強の一角に数えられる男。その巨体が地面に縫い止められたように動けず、土に爪を立てている。訓練場にいた騎士たちにとって、それは悪い夢のような光景だった。
「なんだ……よっ、これ…………っ!!」
「それがわからないから、私に負けたんだよ」
そう叫ぶガレスの顔は真っ赤になっていた。地面を押し返そうとする腕には筋肉が盛り上がり、太い血管が幾筋も浮いている。額から汗が流れ落ち、土に伏せた頬へと伝った。
だが、それでも身体は起き上がらない。
セレンティナは渾身の力を込めて立ち上がろうとしているガレスを見下ろしながら、少し呆れたような口調で告げた。
「ガレスは魔術師と戦った経験が少ないでしょ? それに私がどんな魔術を使うか知らないのに仕掛けるなんて、無謀もいいとこだよ」
「うる…………せぇ! そんなもん……っ、全部、叩き切れ…………ばっ……!」
「出来なかったから今こうなってるんだけど……まぁいいや。言うだけ無駄みたいだし」
屈めていた身を起こし、セレンティナが独り言ちるように呟く。
その声は羽のように軽ろやか。けれど訓練場にいた者たちの背筋には、冷たいものがじわりと這い上がっていた。
調律者は怒鳴りもしなければ感情を荒らげてもいない。ただ当然のことを当然のように進めている。
だからこそ恐ろしかった。
セレンティナはすっと右手を伸ばした。その細い指が指し示す先には、ガレスが取り落とした大剣が転がっている。
「あのね、調律者って結構いろいろな制約があるんだ。例えば『天秤の契約』をしていない限りは、人や動物を攻撃するのは厳禁、とかね」
大剣がふわりと浮き上がった。
分厚い刃を持つそれは、普段ならガレスほどの膂力がなければ自在に扱えない武器だ。だが今は見えない手に摘ままれた羽根のように、何の抵抗もなく宙へ持ち上げられていく。
「だけど、それだとやられっぱなしになるでしょ? だからね、自己防衛のための反撃だけは許可されてるんだ」
セレンティナは微笑みながら、軽やかな口調で語っている。
それなのに、見ている者の中に言い知れぬ恐怖がじわじわと湧き上がってきた。光を弾く大剣の刃が、ゆっくりと角度を変える。陽光が刃に沿って走り、鋭い輝きが周囲の目を刺した。
「お、おい……」
ガレスも不穏な気配を察知したのか、抵抗を止めて呼びかける。
だがセレンティナは反応しない。優雅な仕草で右手を上げると、それに呼応するように大剣がさらに高く浮き上がった。
刃は下を向いている。
その真下には――地面に伏せたガレスの右腕があった。
「いやいやいやいや……冗談だろ?」
「セレン! ちょっと待って!!」
アルシェラがレオノーラを伴い、慌てた様子で訓練場の中へ駆け寄ってくる。
足元の土が跳ね、騎士服の裾が乱れる。それでもアルシェラは構わず、セレンティナとガレスの間へ割って入るように声を上げた。
「ガレスの振る舞いについては私から謝罪する。だからもう……」
「え? アルシェラが私を襲えってガレスに命じたわけじゃないでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「だったら謝られても意味ないよ」
グランヴィレア王国の王妹の謝罪を、調律者は一刀両断する。
その口調は相変わらず明るかった。けれど言葉の意味はひどく冷たい。責任の所在を誤魔化すことは許さない――そう告げられているようだった。
浮いた大剣の切っ先の真下にあるものに気付いた者たちは、皆一様に息を呑んだ。
ガレスの右腕。
それは騎士団長としての象徴であり、剣士としての命そのものだ。もし失えば、彼は二度と以前と同じようには大剣を振るえないだろう。
王国最強の騎士団長は、今日を境に戦場へ立つ意味を失うかもしれないのだ。
「わ、悪かった!!」
己の右腕が狙われていることに気付いたのか、ガレスが焦ったように叫んだ。
さっきまで真っ赤だった顔は、今や血の気を失っている。荒い息が土を揺らし、開かれた目にははっきりと恐怖が浮かんでいた。
刃が落ちてくる未来を想像したのだろう。骨を断たれる痛み。腕を失う重さ。騎士として積み上げてきたすべてが断ち切られる絶望。
それは死よりもなお、ガレスにとって恐ろしいものだったのかもしれない。
「ふぅん……やっと非を認める気になったんだ?」
「ああ! 俺が悪かった!!」
セレンティナがにっこり微笑んだのを見て、皆がほっと小さく安堵の息を吐く。
ガレスもまた、強張っていた頬をほんの少しだけ緩めたのも束の間――。
「でも、それだけじゃ釣り合わないんだよなぁ」
「…………は?」
「だってそうでしょ? 私、危うく死ぬところだったんだよ」
たしかにあの時、ガレスは背を向けて無防備な状態のセレンティナを攻撃した。しかも手にしていたのは模造剣ではない。実際に魔獣を滅し、敵を斬り殺してきた武器だ。
いくら挑発されたとはいえ、あまりにも軽率すぎる振る舞いだった。
命を取られないだけ幸運なのだと、周囲の者たちは遅ればせながら気付く。
調律者は契約なしに人を攻撃できない。だが自己防衛のための反撃は許されている。ならば今この場でガレスの右腕を奪うことは、彼女にとって過剰ではあっても理屈の外ではないのかもしれない。
その事実が、訓練場にいた者たちを沈黙させた。
「た、頼む…………! 許してくれ!!」
「お願いっ、やめて…………っ!」
グランヴィレア王国の騎士団長が右腕を失う。それがどれほどの痛手になるのか、アルシェラにはまったく想像がつかなかった。
いや、想像できないほど大きな痛手なのだ。
だがここでセレンティナを力づくで止めようとすれば、事態を悪化させるだけだ。調律者を攻撃する理由を増やしてしまう。そうなればガレスの右腕だけでは済まないかもしれない。
必死に制止するアルシェラの脳裏に、ふと先ほどの会話が浮かび上がった。
――天秤の契約。
「セレンっ! けっ、契約をしましょう!!」
その叫ぶような提案に、銀紫の瞳がゆるりと細められた。
セレンティナの表情が変わる。ほんのわずかに口角が上がり、瞳の奥に悪戯っぽい光が宿る。まるでその一言を最初から待っていたかのようだった。
大剣はまだ宙に浮いたままだ。だが落ちてはこない。刃の先はガレスの右腕を狙ったまま、ぴたりと静止している。
「いいよ。対価はどうする? 結構高くついちゃうけど」
残酷な宣告に、アルシェラはこくりと小さく喉を鳴らした。




