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レナトスは咄嗟に腰に携えた剣の柄に手を遣り、素早く腰を落として飛び出そうとした。
だが、あまりにも距離が離れすぎている。どう見ても間に合わない。剣を抜いたところで刃が届くより先に風の刃がセレンティナを斬り裂くだろう。
思わず奥歯をぐっと噛みしめ、忸怩たる思いで成り行きを見守るしかなかった。
一方のセレンティナは避ける素振りも、防御の姿勢すらも取ろうとしていない。身体が上下に分かれてしまいそうな風の刃が間近に迫ってもなお、美しい笑みを浮かべて佇んでいた。
「あぶな…………っ!」
誰かが鋭く叫ぶ。
次の瞬間――ぱんっ!! となにかが破裂する音と共に風の刃が消失した。
書類の端がふわりと浮き、遅れて小さな風が室内を撫でる。だが、セレンティナのローブには傷ひとつない。銀紫の髪も乱れておらず、彼女だけが何事もなかったように微笑んでいた。
「今のは…………?」
アンソニーが眼鏡の位置を直しながら呆然とした様子で呟く。
皆が言葉を失っている中、セレンティナは純白のローブを優雅に揺らしながら、アルシェラの方へゆっくりと近付いてきた。その足取りは軽い。まるで先ほどの一撃が命を奪いかねないものではなく、訓練場で放たれたただの試し撃ちだったかのようだ。
「うんうん。すっごくいい感じだったよ。出力が安定するみたいだから、咄嗟の時は構わず詠唱しちゃって」
その気楽な口調は、ほんの数秒前まで命の危険に晒されていたとはとても思えない。
アルシェラは突き出した手を下ろせずにいた。自分の放った風の刃が王城内で形を成したことも、それがセレンティナへ届きかけたことも、彼女があまりに平然としていることも、すべてが理解の外にある。
誰もが驚きを身の内に残している中、さすがは王というべきか、レナトスが口火を切った。
「一体なにが起こっているのか、状況を詳しく説明しろ」
「うーん、見たまんまなんですけどね」
レナトスの声は低く、唸るようだった。だがセレンティナに怯んだ様子はない。軽やかな口調で答えたものの、それだけでは納得しないと気付いたのだろう。彼女は弾むような足取りで、執務室の隅に置かれた扉付きの収納棚の前へと移動した。
「ここに入っている魔術遮断の装置、随分と古いものですよね?」
「…………あぁ。父上が設置させたものだ」
「一度も買い替えたりはしていない?」
「そうだな。その必要はないと思っていた」
レナトスの返答に迷いはなかった。
装置の動作に必要な魔力は、定期的に魔術師団が補給している。動作確認も欠かしていない。壊れていないのだから、わざわざ新しいものへ交換しなくてもいい。それはどんな道具でも同じだろう。
その場にいた者たちも当然のこととして受け止めていた。
けれど、調律者だけは合点がいったとばかりに思わせぶりな笑みを浮かべる。
「魔道具は時間が経つと効果が弱まるって、誰からも言われませんでした?」
「いや……」
レナトスはそこで言葉を切り、周囲を見回した。その場にいたアルシェラとディラック兄妹は、全員困惑の表情を浮かべている。
「申し訳ありません。私はてっきり、魔力さえ切らさなければ問題ないと考えておりました」
「はい。私もレオノーラも同意見です」
アンソニーに続き、アルシェラも頷いた。レオノーラも無言のまま同意を示す。
セレンティナは収納棚の前で軽く首を傾げた。
「普通に使う道具と同じですよ。時間が経てば中の機構が摩耗して、効果が少しずつ下がっていくんです。これだと効果は四割減ってところですね」
「だとしたら、城内で強力な火槍なんかを使われたら……」
「普通に火の海になるねぇ」
アルシェラの問いにセレンティナがあっさり答えた瞬間、国王の執務室の温度が一気に下がった。
誰もがグランヴィレア城の守りは完璧だと信じて疑っていなかった。要塞と称されるほど堅牢な城。物理的にも魔術的にも崩すのは至難の業だと周辺諸国から思われているからこそ、国力が下降の一途を辿ってもなお、他国が攻め入ってくることはなかった。
しかし、その前提が崩れかけている。
しかも脆さを露呈したのは、よりにもよって国王の執務室だった。
「この件は早急に対策を講じます」
アンソニーはそこで言葉を区切り、小さく息を呑んでから素早く周囲を見回した。
扉の外には城の守護を任されている騎士が控えている。文官が廊下を通りかかっている可能性もある。いまの会話は、城の守りに関わる重大な機密だ。外へ漏れれば混乱を招くどころでは済まない。
宰相補の焦りが伝わったのか、セレンティナが「あっ」と小さく声を上げた。
「話し声は聞こえないようにしてあるから大丈夫だよ」
ぱちん、と細く白い指が音を立てる。
その瞬間、執務室の空気がわずかに動いた。閉じ込められていた音が一斉に戻ってきたように、遠くから飛竜の鳴き声が聞こえる。廊下を歩く靴音や、窓の外を渡る風の気配も遅れて耳に届いた。
普段であればこれほどの変化を見逃すはずがない。だが、衝撃的な事実を突きつけられたせいで、誰も気付いていなかったのだ。
「陛下、魔術師長を呼んで話をいたしましょう」
魔道具への魔力補給は、サマリンダの率いる魔術師団が担っていた。アンソニーからの提案に一度は頷いたレナトスだが、何か考えがあるのか「いや」と返して扉へと向かう。
「こちらから出向くとしよう。お前達も一緒に来てくれ」
「はい。お供いたします」
「はーい」
魔術師団の詰め所に行けるとわかったせいか、セレンティナが勢いよく右手を上げて応じた。
だが、レナトスはそれを一瞥し、軽く頷いただけで廊下へと出ていってしまった。足取りは速い。事態の重さを誰よりも理解しているのだろう。
「調律者殿、先ほどはご配慮いただき感謝いたします」
「ん? あれも実験しただけだから気にしないで」
廊下を進みながら、アンソニーがセレンティナの隣に並ぶなり礼を言う。まさかの返答に目を丸くすると、セレンティナは可笑しそうにころころと笑った。
「初めて遮断を目にしましたが、本当に何も通さないのですね」
「そうだよ。すごいでしょ」
全ての属性の中で、とりわけ時空属性を持つ者は少ない。しかも国王の執務室を丸ごと密閉空間にできるほどの力を持つ者となれば、それこそ調律者でなければ不可能だろう。
セレンティナは詠唱することなく、ごく自然に遮断を発動させていた。こんなにも儚げで、どこか浮世離れした魔術師が相当な実力の持ち主だとはにわかに信じ難かったが、先ほどの一件で腑に落ちた。
「アルシェラ様の風の刃を打ち消すのにも、遮断を使われたのですか?」
「ううん。あれくらいなら、同じものをぶつけて相殺した方が効率がいいんだよ」
「同じもの、ですか……そう簡単に調整できないと思うのですが」
「私はね、普通の人より目が良いの」
セレンティナは右の人差し指で、大きな銀紫の瞳を指した。
そのまま、アンソニーの左足へと視線を移し、にこりと微笑む。
並んで歩いていた宰相補の歩みが乱れた。ほんの一瞬だけ、左足を庇うように重心が傾ぐ。だがそこは経験がものを言うのだろう。すぐに歩調を戻し、苦笑いを浮かべた。
「なるほど。貴女は恐ろしい人だ」
「えぇー!? こんなに可愛いのに、酷いなぁ」
まるで子供のように唇を尖らせるセレンティナの隣で、アンソニーがくすくすと愉しげな笑い声を零した。
恐ろしい。けれど、頼もしい。
その二つが矛盾なく並び立つ存在を前に、アンソニーは改めて魔塔の調律者というものを思い知らされていた。
間に合ったぁぁぁぁ。
次回は来週更新です!




