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うぐっ……ちょっとだけ間に合わなかった。
「陛下は執務室でお待ちです」
「わかったわ」
アルシェラは軽く頷いてから歩き出した。磨き上げられた廊下に騎士靴の音が静かに響く。
久しぶりに戻った王城の空気は懐かしいはずなのに、胸にはまだ緊張が残っていた。
毒竜に襲われて怪我を負った王妹が復帰した。騎士服を纏って颯爽と進んでいく姿に、すれ違う者たちが安堵の表情を浮かべる。足を止めて胸に手を当てて頭を下げる者もいれば、声を掛けたそうにしながらも、王妹の進路を妨げまいと控える者もいた。
アルシェラはそれらの視線を受けながら背筋を伸ばした。怖がられているかもしれないという不安は消えていない。けれど、目に映る者たちの表情には少なくとも露骨な怯えはなかった。
そして、ディラック兄妹と共に、人離れした美貌の女性がその後に続いている。彼女の纏う純白のローブに気付いた者は、皆一様に目を見開く。王城の重々しい石壁と濃紺の絨毯の中で、セレンティナの姿はあまりにも異質だった。紫がかった銀髪は光を受けて淡く揺らめき、その横顔は精巧な人形のように整っている。
「アルシェラ殿下が戻られた……本当に、お元気そうだ」
「後ろの方はどなた? あの白いローブ……神殿の方かしら」
「いや、あれは調律者だ。私も初めて見るが……」
小さな囁きが、廊下の端から端へ波紋のように広がっていく。
グランヴィレア王国は武力を重んじる風潮があるだけでなく、王城では魔術の行使を禁じられている。そんな場所に、魔術の英知を束ねる魔塔の調律者が何用だろう。
好奇心と嫌悪を含んだ視線が四方八方から突き刺さり、ひそひそと噂されているというのに、セレンティナはまったく気にした様子がない。
それどころか、興味津々といった様子で周囲を眺めている。天井の意匠や壁に掛けられた古い戦旗、廊下の角に置かれた甲冑。その一つ一つが珍しいらしく、銀紫の瞳が楽しげにきらめいていた。
「陛下、アルシェラ様をお連れいたしました」
「入れ」
二階の奥に国王の執務室がある。重厚な扉が開かれると、室内に満ちていた紙とインクの匂いがふわりと流れ出した。大きな窓から差し込む光の先で、グランヴィレア王国の国王、レナトスが手にした書類を机に置いてから立ち上がる。
「失礼いたします」
アルシェラが硬い声で告げ、執務室へ一歩踏み入れた。兄の顔を見た瞬間、より緊張が高まっていく。
ぎこちない足取りで進んでいく様を眺め、セレンティナはくすりと忍び笑いを漏らした。国王の御前に似つかわしくない言動に、レオノーラがじろりとねめつける。だが当のセレンティナは、まるで気付いていないような顔で微笑んでいた。
「長らくご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした。本日より公務に復帰いたします」
「……いや、よく戻った。くれぐれも無理はするな」
「陛下のお心遣い、感謝いたします」
それは、家族としてはあまりにも余所余所しい会話だった。だが、国王と王国騎士団の名誉団長という関係では当然と言える。執務室にいるのは兄妹である前に、国を支える者同士なのだ。
そこからアンソニーを交え、彼らが代行していた公務をアルシェラへ戻す手続きが取られた。書類の束が机に並べられ、担当部署の名前や保留中の案件が淡々と確認されていく。アルシェラは一つずつ頷きながら、空白になっていた時間を埋めるように耳を傾けた。
ほどなくして引き継ぎが終わり、退出する気配が漂いはじめたその時――朗らかな声が響いた。
「ねぇ、アルシェラ。一つ頼んでもいい?」
「……なにかしら」
ずっと扉の前で大人しくしていたセレンティナが、にこにこと笑いながら告げる。レオノーラが目を剥き、「今ここでする話ですか!?」と視線だけで訴えてきているが、いつも通り無視された。
「そこから私に向かって、風の刃を放ってみて」
「え? でも、ここでは魔術を使えないわよ」
「使えないならそれでいいじゃない」
あまりにもあっさりした返答に、室内の空気が一瞬止まった。
王城の至る所には魔術発動を阻害する装置があり、その効果範囲に抜けがないよう配置されている。
ましてやここは国王の執務室だ。重要機密が集まる場所であり、王の身を守る最後の砦でもある。より強い効力を持つ魔道具が室内に置かれているはずだった。
それなのに、どうしてセレンティナはそんなことを頼んできたのか。誰もが困惑する中、アンソニーが静かに切り出した。
「調律者殿、それをすることでなにがわかるのでしょうか」
「んー、やってみてのお楽しみ、かな」
セレンティナは悪戯っぽく笑うだけで答えようとしない。
それは単に、魔術が阻害される様子を見たいだけなのだろうか。いや、これは決して珍しい装置ではない。調律者である彼女なら、これまで試す機会はいくらでもあったはずだ。
アルシェラは思わずレナトスを見た。国王の表情は険しい。だがその目には、怒りよりも探るような光がある。
「許可する」
「陛下、ですが…………いえ、承知いたしました」
レナトスも何かを察したらしい。反論を飲み込んだアルシェラは、セレンティナと対峙した。
執務室の空気が張りつめる。アンソニーは眼鏡の奥の目を細め、レオノーラはすぐにでも割って入れる位置へ半歩だけ移動した。レナトスは机の傍らに立ったまま、じっと妹の手元を見据えている。
アルシェラは左手を前に出し、すうっと息を吸いながら意識を集中させた。
「全力で撃っていいからね」
「ええ、わかったわ」
風の刃は、アルシェラが最も練習した魔術だ。セレンティナ曰く、武器が使えなくなった時に瞬時に放てるようにするべきだから、らしい。
弓を失っても、距離を取れなくても、自分を守る術を持つ。それは、魔力暴走に怯えていたアルシェラにとって、最初に握り直すべき力でもあった。
「いきます…………!」
アルシェラの周りに魔力が渦を巻く。
だがこれは、突き出された手から放たれた途端、掻き消されてしまうだろう。誰もがそう思っていた。王城の内部で魔術は発動しない。発動したとしても、形を成す前に阻害される。
それがこの城の常識であり、長く守られてきた規則だった。
それなのに――。
「【風の刃】!」
詠唱と共に、アルシェラの手から鋭い刃が放たれた。
空気が裂ける音が室内に走る。見えない刃は机上の書類の端をわずかに震わせ、扉の前で微笑むセレンティナに向かって一直線に飛んでいく。
誰もが驚愕で動けなくなっている中、美貌の調律者だけが愉しげに微笑んでいた。
来週こそはちゃんと間に合うように更新します!




