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異端の調律者は天秤を持たない  作者: うつおぎ
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 アルシェラの額に汗が浮かび、こめかみを一筋、滑り落ちていく。冷たい風が頬を掠めているはずなのに、全身の内側だけが熱い。

 かざした右手の先にある矢と、自分の身体が細い糸で繋がっているような錯覚に陥り、魔力を飛ばしている指先はじんじんと痺れてきた。

 視界の中で、矢は木々の間を抜け、わずかに揺れながらも森林熊へと近づいていく。瞬きするのももどかしく、右手を向けた矢に意識を集中させる。

 耳元では自分の呼吸だけが大きく響き、周囲がやけに遠く感じられた。


「そろそろ速度に集中していいかもねー」


 木々を抜けた途端、軽やかな口調の指示が飛んでくる。その声だけは不思議と輪郭を失わず、緊張で固まった意識の中へするりと入り込んできた。

 指示されるがまま、アルシェラは魔力の操作バランスをすぐさま切り替えた。


「アルシェラ、ここから一気にいくよ」

「……っ、ええ」


 返事をした声からは自分でもわかるほど余裕を失っている。だが、もう迷っている暇はない。アルシェラは意識を乗せた矢を加速させることに集中する。

 風のように、いや、風よりも速く飛ぶようにめいっぱい魔力を籠めた。矢に絡みつく空気を押し退け、一直線に標的へと向かわせる。右腕の内側で魔力回路が熱を帯び、皮膚の下を細い火花が走るような痛みが走った。

 ターゲットとなった森林熊は聞きなれない風切り音に気付いたのか、のそりと頭を上げて周囲を見回している。警戒はしているものの、幸いにも頭の位置はさほど変わっていなかった。額に露出した緑の核が、木漏れ日を受けて鈍く光っている。


「はあああ――っ!!」


 森林熊が己を狙う矢に気付いた瞬間、アルシェラが叫ぶ。声と共に最後の魔力を押し込み、矢の速度をさらに引き上げた。

 次の瞬間――額の鈍い輝きに矢じりが吸い込まれるように突き刺さった。


「やっ……」

「あー、惜しい!」


 鋭い爪が矢を払い除け、喜びの声が一瞬にしてかき消える。弾かれた矢が森の奥へ消え、乾いた音を立ててどこかの幹に突き刺さった。


「そんな、成功したはずなのに……?」


 レオノーラの呟きは呆然と目を見開いたアルシェラには届いていない。

 確かに核を捉え、矢じりがしっかりと刺さった。それなのに、森林熊はまだ倒れていない。むしろ額から魔力を帯びた鈍い光を散らし、怒り狂ったように巨体を揺らしている。

 魔獣の核は命そのものに等しい。砕けば絶命するが、傷つけただけで仕留め損なえば、強い痛みと魔力の乱れによって凶暴化する。普段なら鈍重な森林熊であっても、核を損じた瞬間、理性のようなものをかなぐり捨て、目に映るものすべてへ襲いかかる危険があった。

 低い唸り声が森を震わせる。枝に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたき、ざわりと木々が騒いだ。

 森は立ち入り禁止にしてあるが、どうしたって抜けは起こってしまう。もしその馬車が遭遇してしまったら……? アルシェラはひゅっと喉を鳴らした。

 下に降りて討伐の指揮を執らなくては。振り返ってレオノーラの指示を出そうとする寸前、セレンティナが隣に並んだ。


「勢いが足りなかったね。よーく見てて」


 ほっそりとした手の上にはハシバミの矢が一本乗せられている。緊迫した状況の中でも、セレンティナの声や表情にはまったく焦りが見られない。まだ訓練は続いていると言わんばかり

 、淡く微笑んでいる。

 ふわりと魔力の気配が周囲を包むと同時に、矢が勢いよく飛び出していった。

 矢は核に傷を負った森林熊へと一直線に向かっていく。まるで無風の空間を飛んでいるかのように軌道はまったく揺らがない。アルシェラが必死に押し戻し、支え、保とうとしていたものを、セレンティナはただ呼吸をするように保っている。

 だが、それだけではなかった。

 セレンティナの操る矢は、唸り声を上げながら暴れる魔物のすぐ手前でふいに進路を変えた。あり得ない角度だった。普通の矢なら勢いを失い、地面へ落ちるか、折れるかのどちらかだろう。けれどその矢は速度を殺すことなく、風そのものに道を開けさせるようにして、森林熊の横をすり抜ける。

 そして、暴れる魔物の後ろへ大きく回りこんだ。

 アルシェラは息を呑んだ。追うように視線を動かすことすら遅れる。矢は森の中で弧を描き、後方から森林熊の頭部へ狙いを定めていた。

 そして――後頭部から核を射抜いた。

 森林熊の叫びが響き渡る。空気を引き裂くような咆哮が丘まで届き、足元の草が震えた。

 ややあってから、ずしん、と地響きが聞こえてくる。巨体が倒れた衝撃で、木々の合間から土埃が薄く立ち昇った。


「嘘、でしょ……?」

「扱いに慣れるとこんなふうにもできるんだよ。なかなか便利でしょ?」


 セレンティナが両手を腰に当てて自慢げに語る。

 だが、アルシェラは「そうね」と返すのが精いっぱいだった。

 セレンティナが操った矢の軌道は明らかにおかしい。弓術の常識から外れている。速度を保ったまま大きく回り込み、後頭部から核を射抜くなど、普通の弓では決して実現できない。

 だが、そのおかしい軌道を描いた矢が、凶暴化した森林熊をたった一撃で仕留めたのは、紛うことなき事実。

 普通の弓では決して実現できない戦法が、魔術を加えることで実現可能になる。その事実を目の当たりにしたアルシェラとレオノーラはただひたすら立ち尽くしていた。

 最初に抱いた感情は驚愕と、そして――恐怖。

 けれど同時に胸の奥で別の感情が湧き上がってきた。

 魔術は恐怖だけをもたらすものでも、積み上げてきた技術を壊すものでもない。

 正しく扱えば、届かなかった場所へ届かせてくれる力なのだ。


「私も、できるようになるかしら……?」


 ぽつりと零れた声は、自分で思っていたよりも頼りなかった。

 歳は近いものの、魔術の経験と知識にはあまりにも差がありすぎる。努力を苦とは思わないアルシェラだが、目の前で見せられた技量は努力で届くものなのかすら一瞬わからなくなるほどだった。

 魔術を加えた弓術。その可能性を知った胸は高鳴っているのに、同時にひどく心許ない。

 そんな心中を察しているのかいないのか、セレンティナは銀紫の瞳をきらきらと輝かせて大きく頷いた。


「もっちろん! だって私が教えるんだもん。上手くなるに決まってるでしょー?」

「うわ……意味不明な自信」


 レオノーラの遠慮のないツッコミには一切反応せず、セレンティナはふわふわと長い髪を宙に舞わせながらアルシェラに近付いてきた。薄く差し込む木漏れ日を受けて、紫がかった銀髪が淡く光る。その様子はあまりに軽やかで、つい先ほど狂暴な魔獣を一撃で仕留めた人物とは思えない。


「アルシェラの場合、矢に送る魔力はもっと少なくて大丈夫。勢いが落ちてきたら加速、軌道がずれたら都度調整するくらいの感覚でいいよ」

「わかったわ」

「あとは数をこなして慣れれば、自然と力みも抜けていくから。慣れたら連発もできるようになるんじゃないかなぁ?」


 セレンティナはそう言うと、悪戯っぽく微笑んだ。どうやらアルシェラの魔力残量が心許ないことはお見通しらしい。あれほど必死に制御していたのだから、隠せるはずもないのだろう。

 ばつの悪さを感じて、アルシェラはすっと目を逸らした。視線の先では、森林熊が倒れたあたりにまだ薄く土埃が舞っている。巨体が地面へ沈んだ衝撃の余韻が、森の静けさの中に残っていた。


「あっ、解体するの面倒だし、さっきのはグランヴィレアで引き取ってもらえる?」

「もちろん。ありがたく活用させてもらうわね」


 万が一に備え、森の周囲には第二親衛隊が待機している。回収は彼らに任せればいいだろう。アルシェラがレオノーラを見遣ると、それを受けた王妹の親衛隊長は騎士の礼を取ってから素早く去っていく。その背中に、先ほどまで張りつめていた警戒の名残が見えた。

 森林熊の毛皮は丈夫な上に保温力に優れているので、テントの敷物として重宝する。肉は栄養価が高く、爪や牙は加工すれば立派な武器となる。魔獣は危険な存在だが、仕留めた後に無駄になる部位は少ない。

 しかも今回は核を矢で砕いているので破損は最小限だった。素材としてはこの上なく良い状態だ。常に軍備費用の捻出に頭を悩ませている宰相補の喜ぶ顔を思い浮かべ、アルシェラもまた、ふっと小さく笑みを浮かべた。


「あ、そういえばアルシェラは気付いてなかったみたいだけど……」

「え?」

「さっきの叫び、拡声スカルムになっちゃってたよ」


 拡声は遠くまで声を届ける風魔術の一種である。緊急の伝言や、戦場での命令伝達にも活用できるため、アルシェラも使いこなそうと訓練していた。

 つい昨日も、離宮の端から反対側にいるレオノーラへ声を届けるべく奮闘したばかりだ。おそらく大きな声を出した拍子に、無意識に魔術が乗ってしまったのだろう。

 それは、つまり。

 先ほどの叫びが、待機していた親衛隊員たちの耳へ満遍なく届いていたということだ。

 思わず漏れそうになった悲鳴を、アルシェラは慌てて両手で押さえ込んだ。顔が一瞬で熱くなる。先ほどまで凛々しく弓を構えていた王妹はどこへやら、その場にへなへなとへたり込んでしまう。

 真っ赤な顔で口を押さえるアルシェラの姿に、セレンティナはころころと可愛らしい笑い声を立てた。


「気合いが入っててとっても格好よかったよ?」

「……慰めになっていないわ」

「えー? 本当のことなのに」


 セレンティナは心底不思議そうに首を傾げている。けれどその眼差しには、からかいだけではない温かさがあった。

 失敗も、気恥ずかしさも、次に繋がるものとして受け止めてくれている。

 アルシェラは両手で顔を覆ったまま小さく息を吐いた。恥ずかしさは消えない。けれど、不思議と胸の内は軽やかに感じられた。


次の更新は来週です!(宣言)

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