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異端の調律者は天秤を持たない  作者: うつおぎ
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1-10

ご無沙汰すぎますね。

やーーーーーーっと更新する余裕ができました。


 その日、グランヴィレア王国の王妹と調律者の姿は離宮のほど近くに広がる森にあった。

 木々の梢が重なり、陽光がまだらに地面へ落ちている。湿った土と苔の匂いが微かに漂い、遠くで鳥が一声だけ鳴いた。


「うん、このあたりでいいかな」


 森の端にある小高い丘へ登りきると、セレンティナは周囲をひととおり見回し、満足げに微笑んだ。軽い散歩の延長のような口ぶりだが、アルシェラの肩は固く、背筋には緊張が張りつめたまま。

 その斜め後ろには「心配」の文字を顔にべったりと貼り付けたレオノーラが控えていた。

 今日のアルシェラはいつもの稽古着ではなく、専用の騎士服を纏っている。魔力暴走を起こして以来、はじめて袖を通した装いだ。

 黒を基調にした生地は動きやすさを優先しているのに、王家の徽章が胸元に刻まれているだけで、民が憧れを寄せる「王妹の騎士姿」そのものになる。

 制御不能な力に翻弄され、身体を丸めて怯えていた日々を知る者ほど、その変化に胸を打たれたのだろう。親衛隊の面々も久しぶりに背筋を伸ばした王妹の姿を見た瞬間、目元を赤く染めていた。


「あっ、あそこにちょうど森林熊フォレスト・ベアがいるね」


 セレンティナが指差した先、木々の隙間に黒々とした影が揺れていた。巨木の根元を漁るように頭を低くし、ときおり鼻先で落ち葉を跳ね退けている。


「ちょっと遠くないかしら?」

「平気平気。アルシェラなら届くって」


 アルシェラが思わずそう口にすると、セレンティナはあっけらかんと返す。

 信じていないのか、アルシェラは左手に握りしめた弓へ視線を落とした。これはセレンティナが貸すと言っていた、いわゆる「魔術武器」の一種だ。つがえた矢へ魔力を通し、その属性を持たせることができる。

 風の魔力を通した矢はより遠くへ、より速く飛ばすことができる。慣れれば軌道を変えることすら可能になるらしい。

 弓の扱いは幼い頃から身体に染みついているアルシェラだが、そこへ魔術を重ねるとなるとまったく別の技術だった。

 最初の課題だった浮遊をどうにか使いこなせるようになり、アルシェラはより実践的な魔術行使の訓練に取り掛かっている。

 そして今日――初めての魔獣討伐に臨むことになったのだ。


「森林熊の急所は知ってるよね?」

「えぇ、もちろん」


 森林熊はその名の通り、森に棲まう魔獣だ。馬車を軽々と持ち上げるほどの巨体と怪力を持ち、毎年多くの商隊や旅人が被害に遭うので討伐の優先度は最も高い。

 森林熊の額には緑色の核が露出している。そこを砕けば絶命させられる。とはいえ、巨体ゆえに剣では届かず、討ち取るとなれば首を落とす手段しか残されていないのでなかなか厄介な存在だ。


「まだこちらに気付いてないから、さくっと急所を射抜いちゃいましょー!」


 セレンティナは祭りで的当てを応援しているかのように、ごく軽い調子で告げる。たしかに理屈は単純だ。問題はその核へ矢を正確に通す位置調整と、核を砕けるほどの威力で射抜く速度を同時に操作しなくてはならない点だ。

 けれど、ここまで来たら実践あるのみ。

 アルシェラは大きく息を吸い、ゆっくり吐き出して肩の力を落とす。腰に提げた矢筒からハシバミ製の矢を一本引き抜くと、指先の感覚を確かめるように軽く撫でた。

 木肌の滑らかでひんやりとした感触が、浮足立っていた心を落ち着かせてくれる。

 アルシェラは慎重な手付きで弓に矢をかけ、息を細く吐き出しながらつるを引いていく。

 手袋越しでも弓の木肌はひやりとしていて、指先の皮膚が薄いところだけ冷えが沁みた。目の前の森は穏やかに見えるのに、耳の奥では自分の鼓動だけがやけに大きく鳴っている。

 指先の感覚ひとつで矢の軌道も、そして速度も変わってしまう。弓のしなりが限界へ近づくたび、胸の奥がきり、と痛むような緊張に締め付けられた。

 森の空気が冷たく感じるのは気温のせいではなく、緊張で血の巡りが偏っているせいだろう。吐いた息が白くならないことが逆に現実味を奪い、夢の中で戦っているような錯覚さえ覚える。

 脳裏には訓練中に受けたアドバイスが次々と浮かんでくる。あの日も同じ森の匂いがしていた気がする。

 汗の塩気と木の香り、弦が鳴る乾いた音――そのひとつひとつが、今は刃のように鮮明だ。軽い調子で言われたはずの言葉が、耳の奥で重く響く。失敗した時のことまで一緒に蘇ってしまい、口の中が渇いてきた。


『魔力の出力はできるだけ均一にするんだよ』

『矢を放つまでは絶対に途切れさせちゃダメだからね!』


 きりきりと限界まで引き絞り、矢じりの先に森林熊の額を捉える。視界の端で枝葉が揺れ、遠くの影が黒くうごめいた。

 核は緑色に鈍く光り、巨体の揺れに合わせて上下に揺れていた。太い首の筋肉が動くたびに核の位置がわずかにずれ、その度に狙いがぶれそうになる。

 これまでなら風向と強さ、そして標的の癖を計算して、手元で微調整して終わりだ。

 矢が放たれる瞬間までの手順は身体に染みついている。

 けれど今は、魔術という新しい要素が加わっている。弓のしなりと身体の軸と回路を流れる魔力の感触が、まだひとつにまとまらない。

 魔力を通すたび、腕の奥に見えない重さが乗り、弦を引く力とは別の負荷が骨へ伝わってくる。怖いのは、矢が外れることだけではない。もしここで制御を誤れば、森の空気そのものが刃に変わり、味方すら巻き込むかもしれない。


「アルシェラ」


 狙いが定まりきらず、指先に躊躇が滲んだ瞬間、セレンティナの静かな声が耳朶を揺らした。背後からではなく、すぐ隣で囁かれたような近さがある。まるで音だけが空間を折り畳んで届いたかのようだった。

 決して大きくはないのに不思議とはっきり聞こえる。叱咤でも慰めでもない。ただ軽やかな呼びかけだった。だがその軽さは、アルシェラの肩に乗っていた重さを一瞬だけ外す力を持っていた。


「魔術に頼りすぎないで」


 その言葉が、腹の底にすとんと落ちていく。胸の奥を騒がせていた焦りが、冷たい水に沈められたように静まった。


 ――私の、武器は……。


 アルシェラの戦いにはまず弓がある。矢を番え、引き、放つ。その手順を積み重ねてきた年月が、いまこの瞬間も確かに支えている。あくまで魔術は補助的な存在であり、頼るべきは術ではなく、積み上げてきた経験だ。

 自分の呼吸、弓の張り、視界の端で揺れる葉の向き。頬を撫でる微かな風の冷たさまで読み取り、身体を弓と同じ一本の線に整えていく。全身の感覚を研ぎ澄ますと、意識が徐々に一点へと収束していく。周囲の音が遠ざかり、森の匂いさえ薄れていく。

 狙いがぴたりと決まった。核の揺れが止まったように見えたのは、標的が止まったのではなく、こちらの視線が揺れなくなったからだ。

 アルシェラは迷いを断ち切り、矢を放った。弦が弾ける音が乾いて、森の静けさを一筋裂いた。


「おっ、さっすがー!」


 背後でセレンティナが弾んだ声を上げた。あまりにも明るいのに、その声がなぜか邪魔にならない。アルシェラの集中を散らさない距離感で、賞賛だけを投げてくる。

 セレンティナがぱちぱちと手を叩き、満面の笑みを浮かべたまますかさず指摘する。


「だけど、加速を忘れないでね」

「……ええ」


 矢が放たれた瞬間、力んでいた肩がふっと軽くなる。たった一瞬、呼吸が戻る。だが、安堵はすぐに引っ剥がされた。

 アルシェラの放った矢は風に煽られ、想定よりわずかに左へ流れている。気付いた瞬間、胸の奥がひやりとした。仕留められなかったら終わり、という簡単なものではない。

 外れた矢が引き起こす事態を想像した途端、全身が一気に強張る。アルシェラは息つく暇もなくすかさず右手をかざした。

 風が強く吹き付け、流れた軌道を反対側へ押し戻す。だが出力が強すぎればスピードが落ちてしまう。だけど弱ければ戻りきらない。狙いは核一点、しかし風は面で矢を受ける。制御の繊細さが求められるほど、指先が震えそうになる。

 速度を維持しつつ角度も調整する――頭で理解しているのに、身体が追いつかない。回路を流れる魔力が熱く脈打ち、腕の内側がじんと痺れた。


「加減……がっ、難しい、わ」

「あ、向きの調整はね、自分が矢になった気持ちでやるといいかも?」


 返事をする余裕はなかった。喉がひりつき、息を吸うたび胸の奥が痛む。それでも矢の先端から景色を見るように意識を滑らせると、風の重さが少しだけ掴める気がする。空気の抵抗が糸のように矢へ絡み、それを軽く引くことで動かせる――そんな錯覚が生まれた。

 自分の力が空気に溶け、線を引き直す感覚。矢の軌跡が一本の細い道として見え、その道を風で撫でるように整えていく。


「そうそう。矢を風に乗せる感じ」


 セレンティナの声は相変わらず軽い。だが、その軽さが不思議と救いになる。重く考えすぎれば、手の動きが遅れる。軽く、しかし確実に――彼女の言葉はいつも真逆を同時に要求してくる。

 アルシェラの放った矢はまだこちらに気付かぬ森林熊めがけて一直線に飛んでいく。核の緑が近づくにつれ、時間だけが伸びていくように感じた。

 あとは直前に気付いて叩き落とされたりせず、核へ届くことを祈るしかない。祈りながらも、アルシェラは右手を離さない。祈るだけで終わりにしない――それが、いまの自分の戦い方だと知っているからだ。

続きは来週です。たぶん。

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