第9話「地底湖の波紋と重なる影」
昨夜の月明かりの下で交わした言葉の余韻が、朝の冷たい空気の中にも微かに溶け残っていた。
レオは厨房の窓辺に立ち、顔を洗ったばかりの冷たい両手で自らの頬を軽く叩く。
指先から伝わる水滴が首筋を滑り落ち、ほんの少しだけ残っていた眠気を完全に洗い流した。
振り返ると、すでに身支度を整えたアレクが食卓の椅子に腰を下ろしている。
昨夜の剣を振るっていたときの張り詰めた気配は影を潜め、彼の表情には穏やかな色が戻っていた。
だが、その瞳の奥には、迫り来る帝都からの追手に対する警戒が静かに横たわっているのをレオは感じ取っていた。
「今日は、少し奥まで行ってみようと思うんだ」
レオが竈の火を落としながら声をかけると、アレクは顔を上げてこちらを見つめた。
「裏庭の洞窟の話か」
「うん。この前よりもっと深い場所に、特別な食材が採れる地底湖があるんだ。たまには、少し珍しいものを食べたいだろう」
それはレオなりの気遣いだった。
見えない追手の影に心をすり減らしている彼に、少しでも違う景色を見せて気を紛らわせたかったのだ。
アレクは短くうなずき、立ち上がって背負い籠を手に取った。
彼がその籠を持つのが、すっかり二人の間の自然な役割分担になっている。
裏口の扉を開け、朝の陽光が差し込む庭を抜けて洞窟へと足を踏み入れる。
入り口付近のひんやりとした空気は、奥へ進むにつれてさらに温度を下げ、肌を刺すような冷気へと変わっていった。
いつものパンの木や小豚のような生き物がいる広場を通り過ぎ、さらに下へと続く細い抜け道を進む。
通路の岩肌を照らす発光キノコの色が、淡い緑色から深く透き通るような青色へと変化し始めた。
その青い光が、前を歩くアレクの広い背中と金糸の髪を神秘的に照らし出している。
岩の隙間から染み出した水が、規則的な音を立てて足元の水たまりに落ちていた。
「足元が滑るから、気をつけて」
レオが背後から声をかけると、アレクは歩みを緩めて振り返り、無言で手を差し出してきた。
その大きな手のひらに、レオは少しだけためらった後、自分の手を重ねる。
ひんやりとした洞窟の空気の中で、彼の体温だけが確かな熱を持ってレオの指先を包み込んだ。
手をつないだままさらに奥へ進むと、不意に視界が開けた。
そこには、青く光る苔に囲まれた、鏡のように静かな地底湖が広がっていた。
水面は一切の波立ちがなく、天井の青い光を反射して水晶のように澄み切っている。
水底まで見通せる透明な湖の中を、銀色の鱗を持った平たい魚たちが、ゆらゆらと群れをなして泳いでいた。
「美しい場所だな。まさかあの裏庭の地下に、こんな景色が広がっているとは」
アレクは感嘆の息を漏らし、湖のほとりに歩み寄った。
レオも彼に続いて水辺にしゃがみ込み、水面にそっと指先を浸す。
氷のように冷たい水が、肌を鋭く刺激した。
「あの銀色の魚は、脂が乗っていてすごく美味しいんだ。今日はあれを捕まえようと思う」
レオは腰に下げていた短い木の棒を握り直し、水面を凝視した。
魚たちは動きが遅く、こちらを警戒する様子もない。
木の棒の先で水面近くを泳ぐ一匹の頭を軽く叩くと、魚は淡い光の粒となって弾け、後にはきれいに三枚におろされた純白の切り身だけが水面に浮かび上がった。
血も内臓も残らないご都合主義の生態系は、この深い階層でも健在だった。
アレクが身を乗り出し、水面に浮かんだ切り身を拾い上げて籠の中へ収める。
二人は息を合わせ、数匹の魚を同じように切り身へと変えていった。
今日の夕食には十分な量が確保できたと判断し、レオが立ち上がって服の裾を払おうとしたときだった。
地底湖の底深くから、巨大な影がゆっくりと浮上してくるのが見えた。
周囲の銀色の魚たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
水面が大きく盛り上がり、空気を震わせるような低い水音とともに、その姿を現した。
それは、甲羅の表面に鋭い岩のような突起を無数に生やした、巨大な亀に似た生き物だった。
大人二人分ほどの大きさがあるその甲羅の隙間から、太く短い手足と、くちばしのような硬い顎を持った頭部がのぞいている。
小さな赤い双眸が、湖畔に立つレオを明確な敵として捉えていた。
「下がれ、レオ」
鋭い声とともに、アレクがレオの前に立ち塞がった。
彼の体から、一瞬にして剣呑なαの気配が立ち上る。
焦げたような強い匂いが冷たい空気を切り裂き、レオは背筋をゾクッとさせた。
武器を持たないアレクは、周囲を見回し、岩肌に立てかけられていた太い鍾乳石の折れた欠片を拾い上げた。
巨大な亀が、その重々しい見た目に反するような俊敏さで水際から飛び出し、くちばしを大きく開いて突進してくる。
岩をも砕きそうなその顎を、アレクは半歩身をかわしてすれ違いざまに回避した。
同時に、両手で構えた鍾乳石の欠片を、亀の首の付け根に向かって正確に振り下ろす。
鈍い衝撃音が地底湖に響き渡り、鍾乳石が粉々に砕け散った。
亀の動きがピタリと止まり、その巨体が淡い光の奔流となって弾け飛んだ。
まばゆい光が収まると、そこには美しい霜降りのような模様が入った、巨大な甲殻肉の塊がごろりと転がっていた。
静寂が戻った湖畔で、アレクは肩で息をしながら、手についた石の粉を払い落とした。
振り返り、レオの方へと早足で近づいてくる。
「怪我はないか」
彼の声は焦燥に満ちており、両手でレオの肩を強く掴んだ。
琥珀色の瞳がレオの全身を隈なく確認し、無事を知ってようやく深い安堵の息を吐き出す。
その瞬間、彼から放たれていた攻撃的なαの香りが、堰を切ったようにレオの全身に降り注いだ。
恐怖と驚きで心拍数が跳ね上がっていたレオの体は、その強い気配に抗うことができなかった。
喉の奥が焼け付くように渇き、膝から力が抜け落ちる。
隠し通してきたΩのフェロモンが、甘い熱を帯びて首筋から微かに漏れ出した。
雨上がりの森のようなアレクの香りに、熟した果実のようなレオの香りが絡みつく。
アレクの動きが止まり、その目が驚きに見開かれた。
「お前は……」
彼が言葉を失うのも無理はない。
これまでβとして接してきた相手から、自分と呼応するような甘いΩの香りが漂ってきたのだ。
レオは顔を伏せ、彼の腕から逃れようと後ずさった。
「違う、これは……」
言い訳の言葉を探すが、思考が熱に浮かされてまとまらない。
だが、アレクは逃げようとするレオの腕を優しく引き寄せた。
「隠さなくていい。俺は、お前が誰であれ、どんな体質であれ、変わらずに大切に思う」
アレクの大きな手がレオの背中に回り、その体をそっと抱きしめる。
力強い鼓動が、薄い布越しにレオの胸へと伝わってきた。
互いのフェロモンが空中で混ざり合い、これまでにないほど深く、そして完璧に調和していくのを感じる。
暴走しそうになっていた熱が、彼の体温と匂いに包まれることで、静かで穏やかな安心感へと変わっていった。
レオは抵抗するのをやめ、ゆっくりと彼の広い背中に腕を回した。
青い光に照らされた地底湖のほとりで、二人の重なった影が水面に静かに揺れていた。




