第8話「月明かりの素振りといれたての茶」
夜闇が辺境の村をすっぽりと包み込んでいた。
虫たちの鳴き声だけが、静寂の海に波紋のように広がっては消えていく。
レオは薄い毛布の中で寝返りを打ち、ゆっくりとまぶたを開いた。
窓から差し込む青白い月光が、部屋の床に四角い影を落としている。
ふと部屋の隅へ視線を向けると、そこにあるはずのアレクのベッドが空になっていた。
毛布は丁寧に畳まれ、人が寝ていた温もりはすでに失われている。
胸の奥にざわめきを覚え、レオは身を起こした。
足音を立てないように床を踏み、薄手の羽織を肩にかけて厨房へと向かう。
裏口の扉が、わずかに隙間を開けたままになっていた。
そこから流れ込む夜風が、レオの頬を冷たく撫でる。
扉の隙間から外を覗き込むと、月明かりに照らされた裏庭の中央で、アレクが一人で立ち尽くしていた。
彼は上着を脱ぎ捨て、薄い麻のシャツ一枚になっている。
胸元のボタンは大きく開けられ、月光を反射して白く光る肌に汗がにじんでいた。
彼の手には、森で拾ってきたと思われる太く重い樫の木の枝が握られている。
アレクは足を大きく開き、腰を落とすと、その太い枝を本物の剣であるかのように静かに上段へ構えた。
次の瞬間、空気を切り裂く恐ろしいほどの風切り音とともに、枝が振り下ろされた。
ピタリと寸分違わず地面の数センチ上で止められた枝の先端が、微かに空気を震わせる。
一呼吸置き、今度は横薙ぎに振るう。
踏み込む足の動き、腰の回転、腕の振り。
そのすべてが流れるように連動し、一切の無駄がない洗練された剣技だった。
枝の重さを微塵も感じさせない速度と正確さで、彼は見えない敵を斬り伏せ続けていく。
振り向くたびに、金糸の髪が月の光を散らして美しく舞った。
昼間に聞いた帝都の追手の知らせが、彼の中に溜まっていた不安と焦燥を呼び覚ました。
彼は、こうして体を痛めつけることでしか発散できないのだろう。
その孤独な舞いに、レオはしばらく目を奪われていた。
彼が住む世界がいかに厳しく、血に塗れた場所であるかが、その剣の鋭さから痛いほどに伝わってくる。
レオは視線を伏せ、静かに厨房へと戻った。
竈に残っていた熾火に細い薪をくべ、小さな炎を立ち上げる。
鉄瓶に水を張り、火にかけた。
湯が沸くのを待つ間、裏庭の洞窟で採れる薄荷に似た葉を細かく刻む。
沸き立った湯を木製の急須に注ぐと、目が覚めるような清涼な香りがふわりと立ち上った。
木の杯に二つ、熱い茶を注ぐ。
お盆に乗せて再び裏口の扉を開けると、ちょうどアレクが大きな息を吐いて動きを止めたところだった。
荒い呼吸に合わせて、厚い胸板が激しく上下している。
全身から立ち上る熱気と汗の匂いに混じって、α特有の強い香りが夜気の中に溶け出していた。
それは昼間のような威圧的なものではなく、ただひたすらに自分の内側へ向かうような、静かで深い香りだった。
レオが足音を立てて近づくと、アレクはこちらを振り返った。
その目はまだ剣士としての鋭い光を帯びていたが、レオの姿を認めた途端、ふっと柔らかいものへと変わる。
「起こしてしまったか」
「ううん。少し目が覚めただけだよ」
レオは縁側の板の間に腰を下ろし、お盆を横に置いた。
「少し休んだら。温かいお茶をいれたから」
アレクは樫の枝を地面に置き、ゆっくりとレオの隣へ歩み寄ってきた。
彼が腰を下ろすと、その大きな体躯から発せられる熱がレオの肌にじかに伝わってくる。
レオは木の杯を両手で持ち、彼へと差し出した。
アレクがそれを受け取ろうと手を伸ばしたとき、二人の指先が微かに触れ合った。
アレクの指は剣だこで硬く、夜風に冷やされてひんやりとしていた。
ほんの一瞬の接触だったが、互いの体温が交じり合い、レオの心臓が小さく跳ねる。
アレクは杯を受け取ると、立ち上る清涼な香りに目を細め、ゆっくりと口をつけた。
熱い茶が喉を通るたびに、彼の強張っていた筋肉が少しずつ弛緩していくのがわかる。
「目が覚める香りだ。頭の中の靄が晴れていく気がする」
「洞窟の奥に生えている葉っぱなんだ。気分を落ち着かせたいときによく飲むんだよ」
レオは自分の杯を両手で包み込みながら、静かに答えた。
二人の間を、虫の音だけが埋めていく。
アレクは空を仰ぎ、ぽつりとこぼした。
「俺は、剣の振り方と政務の裁き方しか教わってこなかった。だが、ここでの生活ではそのどちらも何の役にも立たない」
自嘲気味に笑う彼の横顔は、ひどく寂しそうだった。
「料理のために包丁の持ち方を教わったのは、初めてだった。刃物を握って、誰かを傷つけるのではなく、誰かを生かすために使うことができるなんて、考えたこともなかったんだ」
その言葉の奥底にある彼の痛みに触れ、レオは杯を握る手に力を込めた。
「刃物は使い方次第だよ。僕は、君が包丁を握る不器用な手のほうが好きだな」
レオが前を向いたままそう言うと、アレクはわずかに目を見開き、それから声に出して小さく笑った。
「そうか。お前がそう言うなら、もう少し包丁の練習をしておくべきだな」
アレクの笑い声が、夜の空気に優しく溶けていく。
しかし、その笑みの後には、再び静かな寂寥が舞い戻ってきた。
彼は杯を縁側に置き、レオの方へと体を向けた。
「レオ。俺は……」
言いかけた彼の言葉を、レオは先回りするように遮った。
「言わなくていいよ」
レオは視線をアレクの膝元へと落としたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「君がいつか、ここを出て行かなくちゃいけないことくらい、わかってる。でも、今夜はまだここにいる。それで十分じゃないか」
胸の奥を冷たい指でなぞられたような痛みが走るのを、レオは必死に隠した。
自分がΩであることを明かし、彼を引き留める権利などないのだと自分に言い聞かせる。
アレクはレオの言葉に何も答えず、ただ静かに手を伸ばしてきた。
彼の大きな手が、レオの頬にそっと触れる。
剣だこのある無骨な指先が、レオの柔らかな肌を愛おしむようになぞった。
アレクから漂う雨上がりの森のような香りが、夜風に乗ってレオをすっぽりと包み込む。
レオの体の中で、Ωとしての本能がその香りに呼応し、甘い熱を帯びていく。
だが、その熱は決して暴走することはなく、互いの体温と茶の余韻の中で、穏やかに調和していた。
二人は言葉を交わすことなく、ただ触れ合う指先の熱だけを頼りに、冷たい月明かりの下で寄り添い続けていた。
外の世界がどれほど彼らを引き裂こうとも、この小さな縁側の空間だけは、誰にも侵されない二人の城だった。




