第7話「土埃の便りと甘い果実のパイ」
季節は少しずつ歩みを進め、日中の日差しは肌を焦がすような熱を帯び始めていた。
風のない昼下がり、辺境の村は静まり返っている。
レオは家の裏手に広がる畑にしゃがみ込み、伸びすぎた雑草を素手で引き抜いていた。
土の熱気が足元から立ち上り、首筋を伝う汗が襟元を湿らせる。
少し離れた場所では、アレクが丸太を割る作業に没頭していた。
厚い胸板を覆う麻のシャツは汗で張り付き、動くたびに背中の筋肉がしなやかに波打つ。
彼が斧を振り下ろすたび、空気を裂く鋭い音に続いて、硬い木が二つに割れる小気味よい音が響き渡っていた。
規則的なその音は、この穏やかな生活の心地よい背景音になっていた。
レオが引き抜いた草を籠にまとめていると、家の表のほうから車輪が土を擦る重い音が近づいてくるのが聞こえた。
誰かが訪ねてくるのは珍しい。
手を土から離し、前掛けで汚れを拭いながら立ち上がる。
表へ回ると、荷馬車を引いた馴染みの老農民が、額の汗を拭いながらこちらへ手を振っていた。
村の畑で採れた小麦粉と、レオの野菜を交換するために月に数回訪れる老人だった。
レオは小走りで駆け寄り、荷馬車から重い麻袋を下ろすのを手伝う。
「暑い中、わざわざありがとう。冷たい水でも飲むかい」
老人はしわくちゃの顔をほころばせ、差し出された水筒を受け取った。
喉を大きく鳴らして水を飲み干すと、ふうと長い息を吐き出す。
「助かるよ。しかし、今日は村の入り口から妙に騒がしくて落ち着かないね」
老人の言葉に、レオは小首を傾げた。
「騒がしい。何かあったの」
老人は周囲を気にするように声を潜め、身を乗り出してきた。
「隣の宿場町に、帝都から銀色の鎧を着た兵士がたくさん押し寄せてきたらしいんだ。何でも、行方不明になったえらく身分の高い貴族を探しているとかで、街道を通る馬車を片っ端から検めているそうだよ」
その言葉が落ちた瞬間だった。
家の裏手から響いていた斧の音が、唐突に止んだ。
レオの背筋に、冷たい水滴を落とされたような微かな悪寒が走る。
振り返らなくてもわかった。
アレクが、その話を聞いている。
空気が急激に張り詰め、火打石を強く打ち合わせたときに散る火花のような、鋭く焦げた匂いが漂い始めた。
不安と焦燥、そして他者を威圧するようなα特有の強いフェロモンだ。
老人はその気配に気づく様子はなかったが、Ωの体質を持つレオには、肌を刺すような強い刺激として感じられた。
心臓の鼓動が不規則に跳ね、喉の奥がカラリと渇く。
レオは動揺を顔に出さないように努めながら、老人に野菜の詰まった籠を手渡した。
「物騒な話だね。暗くならないうちに気を付けて帰って」
老人は野菜の出来に満足そうにうなずき、再び荷馬車を引いて土埃とともに去っていった。
車輪の音が遠ざかるのを見送ってから、レオはゆっくりと裏手へと歩を進めた。
薪割り台の前で、アレクは彫像のように立ち尽くしていた。
斧の刃は丸太に深く食い込んだままで、柄を握る彼の手は指の関節が白く浮き出るほどに力が入っている。
伏せられた瞳の奥には、黒く重い感情が渦巻いているのが見て取れた。
彼から立ち上る焦げた匂いが、レオの鼻腔を強く打つ。
帝都からの追手が、すぐそこまで迫っている。
その事実が、彼を現実に引き戻し、皇帝という逃れられない鎖で再び縛り付けようとしていた。
レオは何も聞かず、ただ静かに彼の隣へ歩み寄った。
そして、斧の柄を握る彼の大きな手に、自分の手をそっと重ねる。
アレクの肩が小さく跳ね、琥珀色の瞳がレオを見下ろした。
その目には、追い詰められた獣のような怯えと警戒が混じっていた。
「……中へ入ろう。日差しが強すぎる」
レオは静かにそう告げ、彼の手からゆっくりと斧を離させた。
アレクは抵抗することなく、レオに引かれるまま厨房へと足を踏み入れた。
部屋の中は外の熱気が嘘のようにひんやりとしていたが、アレクから放たれる鋭い気配はまだ部屋の空気を重く沈ませていた。
レオは彼を食卓の椅子に座らせると、自分は竈の前に立った。
言葉で彼を慰めることはできない。
皇帝としての重圧も、彼が抱える孤独の深さも、辺境に逃げ込んだレオには本当の意味で理解することはできないからだ。
だからこそ、自分にできる唯一の方法で彼の心を繋ぎ止めるしかなかった。
レオは裏庭の洞窟で採ってきた、濃い紫色の小さな果実の山を籠から取り出した。
指先でつまむと、張り詰めた皮の奥から甘酸っぱい香りが弾ける。
小麦粉に冷たいバターを切り込み、指先で素早くすり合わせていく。
粉が黄色く色づき、そぼろ状になったところで冷水を少しだけ加える。
手のひらの熱を伝えないように手早くまとめ、麺棒で薄く引き伸ばした。
生地を型に敷き詰めると、今度は小鍋に果実と砂糖を入れて火にかける。
火が入るにつれて果実は形を崩し、ルビーのように深い赤紫色の果汁が鍋の縁で小さな泡を立てて弾けた。
甘く濃厚な香りが立ち上り、アレクから漂っていた焦げた匂いを少しずつ中和していく。
煮詰めた果実を生地の上にたっぷりと流し込み、その上から細長く切った生地を格子状に編み込んでいく。
石窯の奥へ滑り込ませ、分厚い扉を閉めた。
しばらくすると、バターが焦げる香ばしい匂いと、果実の甘い香りが厨房いっぱいに満ち溢れた。
レオが焼き上がったパイを食卓に運ぶと、アレクは虚ろだった視線をその熱い皿へと向けた。
表面の格子状の生地は美しいきつね色に焼き上がり、隙間からは赤紫色の果汁がふつふつと煮え立っている。
「まだ熱いから、気をつけて」
レオはナイフでパイを切り分け、木皿に乗せてアレクの前に置いた。
アレクはフォークを手に取り、湯気を立てるパイの端を切り取って口へ運んだ。
サクッという生地が砕ける軽い音の後、果実の熱い甘酸っぱさが口の中に広がるのを感じているようだった。
彼の動きが止まり、ゆっくりと咀嚼を繰り返す。
一口、また一口と食べ進めるうちに、彼の強張っていた肩の線が少しずつ緩んでいくのがわかった。
部屋の空気を支配していた鋭い焦げた匂いが、嘘のように消え去る。
代わりに、雨上がりの森のような、静かで穏やかなαの香りが戻ってきた。
パイの甘い香りと、アレクの落ち着いた香りが混ざり合い、レオの胸の奥を温かく満たしていく。
アレクは皿を空にすると、フォークを置き、長く深い息を吐き出した。
「……美味いな。驚くほど甘くて、ひどく安心する味だ」
彼の声は低く、かすかに震えていた。
レオは自分の皿のパイを小さく切り分けながら、視線を落としたままうなずく。
「嫌なことがあったときは、甘いものを食べるのが一番だからね」
アレクは窓の外の遠い空を見つめ、静かにつぶやいた。
「この夢のような時間も、そろそろ終わりが近づいているのかもしれない」
その言葉の奥にある決意と諦めを感じ取り、レオの手元が一瞬だけ止まる。
心臓を冷たい手で掴まれたような痛みが走った。
だが、レオはそれを表情には出さず、ただ静かにパイを口に運んだ。
甘いはずの果実の味が、今は少しだけ塩っぱく感じられた。
二人の間にある沈黙は、迫り来る現実の影を落としながらも、互いの温もりを確かめ合うように静かに流れていた。




