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隠れΩの辺境スローライフ飯 元宮廷料理人が拾った傷だらけの青年はαの皇帝陛下でした 美味しい手料理で胃袋を掴んだら溺愛されています  作者: 月夜 闇花


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第10話「湯気越しの微笑みと銀色の亀裂」

 厨房の竈には赤々と火が入り、大きな鉄鍋からは食欲をそそる濃厚な湯気が立ち上っていた。

 地底湖で手に入れた巨大な甲殻肉は、硬い殻を割ると中から真珠のように輝く純白の身がぎっしりと詰まっていた。

 レオはその肉を豪快に鍋に放り込み、裏庭で採れた香草と、少しの白ワインを加えて蒸し焼きにしている。

 鍋の底から小さな泡が連続して弾けるたびに、海の恵みを凝縮したような甘く芳醇な香りが部屋中に広がっていく。

 隣の小さな鍋では、澄んだ地底湖の水で銀色の魚の切り身を煮立たせ、とろみのあるまろやかなスープを仕込んでいた。

 アレクは食卓の椅子に腰を下ろし、その一連の調理風景を静かに見つめている。

 洞窟での出来事の後、二人の間には言葉こそ少ないものの、以前とは比べ物にならないほど穏やかで甘い空気が流れていた。

 互いの素性や体質という壁を越え、ただ惹かれ合う本能と心だけがそこに存在している。

 アレクから漂う雨上がりの森のようなαの香りは、威圧感を完全に消し去り、レオを外の脅威から守り包み込むような優しさに満ちていた。

 レオの体もまた、彼と同じ空間にいるだけで微かな熱を帯び、甘い果実のような香りを自然と立ち上らせている。


「できたよ。熱いうちに食べよう」


 レオは重い鉄鍋を布巾で持ち上げ、食卓の中央に置かれた耐熱の木の板の上にドンと下ろした。

 木製の蓋を外すと、分厚い白い湯気が一気に視界を覆い尽くす。

 湯気の向こう側で、アレクがわずかに目を細め、喉を鳴らす音が聞こえた。

 深めの木皿にたっぷりの甲殻肉を取り分け、その上から鍋底に残った濃厚な煮汁をかける。

 魚のスープが入った器を添えて、彼の手元へ押しやった。


「すごい香りだ。見たこともない食材だが、お前が作ったものなら間違いない」


 アレクはフォークを手に取り、湯気を立てる肉の塊を切り分けて口に運んだ。

 目を閉じ、ゆっくりと咀嚼する。

 弾力のある肉の繊維がほどけ、中からあふれ出した濃厚な旨味が彼の表情を緩ませていく。

 その満足げな顔を見ているだけで、レオの胸の奥がじんわりと温かくなった。

 二人で食事を分け合うこの行為が、互いのフェロモンを全面的に調和させ、心を深く結びつける儀式として機能している。

 彼のために料理を作り、彼がそれを美味しそうに食べる。

 ただそれだけの日常が、これほどまでに愛おしく感じられる日が来るとは思わなかった。

 レオも自分の皿の肉を口に運び、その豊かな味わいを噛み締める。

 窓の外では、夕暮れの空が少しずつ深い藍色へと染まり始めていた。


「俺は、ずっとこの時間が続けばいいと本気で思っている」


 不意に、アレクがフォークを置いてそうつぶやいた。

 その声は低く、切実な響きを帯びていた。


「帝都に戻れば、俺は再び玉座という冷たい椅子に縛り付けられる。誰が敵で誰が味方かもわからないあの場所で、誰かの期待を背負って息を潜めて生きなければならない。だが、ここにはお前がいる。お前が作る温かい食事がある」


 彼は顔を上げ、琥珀色の瞳でレオを真っ直ぐに射抜いた。


「レオ。俺と……」


「アレク」


 レオは彼の言葉を遮るように、静かに名前を呼んだ。

 言わせてはいけない。

 彼が口にしようとしている言葉が、どれほど自分にとって甘く、同時に残酷なものであるかをわかっていた。

 皇帝である彼が、どこの馬の骨とも知れない辺境の元料理人、しかもΩを伴侶にすることなど許されるはずがない。

 宮廷の恐ろしさを誰よりも知っているからこそ、彼をそんな道連れにするわけにはいかなかった。


「お茶をいれるよ。少し、食休みをしよう」


 レオは無理に微笑みを作り、空になった皿を逃げるようにして片付け始めた。

 アレクはそれ以上言葉を続けることはなく、ただ悲しげに目を伏せた。

 その夜は、互いに背を向けたまま、静かな寝息だけが暗い部屋に響いていた。

 二人の間にある想いは確かに通じ合っているはずなのに、立場の違いという見えない壁が、どうしようもなく重くのしかかっていた。


◆ ◆ ◆


 そして、その平穏な時間は、翌朝の冷たい空気とともに唐突な終わりを迎えた。

 窓の外から、けたたましい馬のいななきと、複数の金属がこすれ合うような重い音が聞こえてきたのだ。

 レオは弾かれたように目を覚まし、窓の隙間から外を覗き込んだ。

 村の広場に通じる街道を、土埃を上げて進んでくる集団が見える。

 先頭を進むのは、帝国の紋章が描かれた華やかな黒塗りの馬車。

 その周囲を、銀色の重厚な鎧に身を包んだ近衛兵たちが隙間なく固めている。

 朝の光を反射してぎらぎらと光るその銀色は、レオの記憶の中にある宮廷の冷たさそのものだった。

 足音もなく背後に立ったアレクが、レオの肩越しに同じ光景を見下ろしていた。

 彼から漂っていた穏やかな香りが、瞬時にして火打石のような鋭く冷たい気配へと変わる。

 それは、辺境で過ごした青年アレクではなく、帝国を統べる若き皇帝としての威圧感に満ちた香りだった。

 近衛兵たちが村の家々を順番に確認し、やがてレオの小さな食堂の前へと真っ直ぐに向かってくる。

 馬車が家の前で停まり、重い足音が玄関の扉に近づいてくるのが聞こえた。


「迎えが来たようだ」


 アレクの声は、氷のように冷たく、感情の起伏を感じさせないものだった。

 彼はレオの方を振り返ることなく、ゆっくりと扉の方へと歩を進める。

 その広い背中が、突然ひどく遠いものに感じられた。

 レオは自分の手が微かに震えていることに気づき、両手を強く握りしめてその震えを抑え込んだ。

 辺境のスローライフを装った夢の時間は終わり、冷酷な現実が銀色の鎧をまとって、二人の小さな城の扉を叩こうとしていた。

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