第2話「肉汁と微かな熱の目覚め」
深い闇の底から、ゆっくりと意識が戻ってくる。
アレクは重い目を開けようとしたが、まぶたが鉛のように重く、すぐには視界が開けなかった。
全身の筋肉が軋むような痛みを訴え、指先を動かすことすら億劫だ。
かすれた息を吐き出すと、喉の奥がカラカラに渇いていることに気づく。
『ここは、どこだ』
声に出すこともできず、アレクはぼんやりとした思考の中で直前の記憶を手繰り寄せた。
お忍びで帝都を離れ、辺境の視察に向かっていたはずだ。
護衛を撒いて一人で森の奥へ足を踏み入れたところまでは覚えている。
そこで、見たこともない異形の魔物の群れに急襲された。
幾体かは剣で斬り伏せたが、背後からの不意打ちを喰らい、深い傷を負った。
薄れゆく意識の中で、逃げ込んだ暗い穴ぐらの記憶が最後だった。
死を覚悟したはずが、今はなぜか柔らかな布の上に寝かされている。
鼻先をかすめたのは、血や土の匂いではなく、どこか懐かしく食欲をそそる香ばしい匂いだった。
肉の焼ける音。
微かに聞こえるその音に惹かれるように、アレクは再び力を込めてまぶたを持ち上げた。
視界のピントが合うと、見知らぬ木組みの天井が目に入った。
簡素だが、隅々まで清潔に保たれている部屋だ。
視線を動かすと、少し離れた場所にある厨房で、一人の青年が背を向けて立っているのが見えた。
薄茶色の柔らかな髪が、動くたびにふわりと揺れている。
青年は火の入った鉄板の上に、分厚い肉の塊を乗せていた。
肉から落ちた脂が弾け、部屋中に濃密な匂いが充満していく。
アレクの胃の腑が、痛みを忘れたように小さく鳴った。
青年が振り返り、ベッドで目を覚ましているアレクに気づいた。
琥珀色の瞳がわずかに見開かれる。
「あ、気がついたみたいだね」
静かで、耳に心地よい声だった。
青年は火から鉄板を下ろすと、手早く布巾で指先を拭い、こちらへ歩み寄ってきた。
ベッドの脇に立ち、アレクの顔を覗き込む。
「痛むところはある。ひどい傷だったけど、血は止まっているはずだ」
アレクは乾いた唇を動かし、かすれた声を絞り出した。
「あんたが、助けてくれたのか」
「裏庭の洞窟で倒れているのを見つけてね。放っておくわけにもいかなかったから」
青年は控えめに微笑み、傍らに置いてあった水の入った木の杯を差し出した。
アレクは体を起こそうとしたが、腹部の傷が引きつって顔をしかめる。
青年はすぐに手を差し伸べ、アレクの背中を支えてゆっくりと上体を起こさせた。
首元に触れた青年の指先から、ほんのりと温かい体温が伝わってくる。
杯を受け取り、冷たい水を喉の奥へ流し込む。
乾ききっていた細胞に水分が行き渡り、ようやく深く息を吸い込むことができた。
その瞬間、青年の体から漂う微かな香りが、アレクの鼻腔をすり抜けた。
雨上がりの土のような、あるいは遠くで咲く甘い花のような、不思議で穏やかな香り。
アレクの中にあるαとしての本能が、その香りにわずかに反応して奥底で鳥肌が立つ感覚があった。
だが、それは決して攻撃的なものではなく、昂ぶった神経をなだめるような心地よい刺激だった。
青年はアレクが水を飲み干したのを確認すると、杯を受け取って空の皿が並ぶ台のほうへ戻っていった。
「少し、お腹に入れておいたほうがいい。ちょうど食事ができたところなんだ」
青年はそう言うと、木の皿を両手で持って再びベッドに近づいてきた。
皿の上には、丸くふくらんだパンの間に、先ほどまで焼かれていた分厚い肉が挟み込まれた料理が乗っていた。
滴る肉汁が下のパンに染み込み、焦げた脂の香りが鼻を突き抜ける。
新鮮な緑の葉野菜が、肉の熱でわずかにしんなりとしていた。
「手掴みで食べる料理なんだけど、食べられるかい」
「ああ。問題ない」
アレクは皿を受け取り、両手でその分厚い塊を持ち上げた。
ずっしりとした重みと、パンの表面の温かさが手のひらに伝わる。
大きく口を開け、思い切りかぶりついた。
表面の弾力あるパンの食感の直後、中からあふれ出した熱い肉汁が口の中を満たした。
赤身の濃厚な旨味と、脂の甘みが舌の上で混ざり合う。
塩と少しの香草だけで味付けされた肉は、素材そのものの力が引き出されていた。
咀嚼するたびに、瑞々しい野菜の食感が肉の重たさを洗い流し、次の一口を誘う。
アレクは無言のまま、憑かれたようにそれを食べ進めた。
宮廷で供される凝った味付けの贅沢な料理など、この一口の前では色褪せて感じるほどだった。
指に垂れた肉汁を舌で舐め取り、最後の一口を飲み下す。
大きな息を吐き出すと、体の内側からじんわりと熱が湧き上がってくるのを感じた。
先ほどまで感じていた痛みが、満腹感とともに薄らいでいく。
「美味しい」
短くこぼれたその声に、青年は胸をなでおろしたように小さく笑みを浮かべた。
「よかった。裏庭で採れた肉だから、鮮度だけは自信があるんだ」
アレクは空になった皿を見つめ、それから目の前の青年を真っ直ぐに見据えた。
命を救われただけでなく、この信じられないほど美味い食事。
そして、この青年のそばにいるだけで、体の中で燻っていた何かが静かに調和していくような不思議な安堵感があった。
帝都へ戻れば、再び血生臭い権力闘争と果てのない政務が待っている。
今はまだ、この温かな場所を手放したくなかった。
「俺はアレクという。しばらくの間、ここに置いてもらうわけにはいかないだろうか」
唐突な申し出に、青年は目を丸くしてまばたきを繰り返した。
「えっと、僕はレオ。置くって言っても、ここは辺境の何もない村だし、力仕事くらいしか」
「それでも構わない。傷が癒えるまで、どんな手伝いでもする」
アレクの強い視線に射抜かれ、レオは少し困ったように眉尻を下げた。
しかし、その目には明確な拒絶の色は浮かんでいなかった。
静かな部屋の中に、再び薪の爆ぜる小さな音が響き、二人の間に生まれた新しい時間がゆっくりと動き始めていた。




