第1話「辺境の朝露と秘密の食料庫」
登場人物紹介
◇レオ
二十五歳。
帝国の辺境で小さな食堂兼農園を営む青年。
元は帝都の宮廷料理人。
自分がΩであることを隠し、βとして平穏なスローライフを送っている。
料理の腕は確かで、裏庭のダンジョンで採れる不思議な食材を活用するのが日課。
◇アレク
二十歳。
若くして帝国を治める皇帝であり、類まれなる力を持つα。
お忍びで辺境を訪れた際、魔物との戦闘で倒れていたところをレオに拾われる。
身分を隠してレオの家に居候し、農作業やダンジョン探索を手伝うようになる。
朝の冷たい空気が鼻腔をくすぐり、浅い眠りの底からレオを引き上げた。
薄い毛布を引き寄せると、麻布の粗い感触が肌を擦る。
少しだけ身じろぎをして、レオはゆっくりとまぶたを開いた。
窓の隙間から差し込む光はまだ薄暗く、森の木々が朝靄の中に沈んでいるのが見える。
ここは帝国の北端に位置する、名前も知られていないような辺境の村だ。
華やかな宮廷の厨房から逃げ出し、自分の過去や体質を隠してこの地に行き着いてから、すでに三年という月日が流れていた。
今は村の片隅で、ひっそりと小さな食堂兼農園を営んで生計を立てている。
客は数日に一度、近所の農民がふらりと立ち寄る程度だ。
それでも、誰の目も気にせずに自分のペースで料理を作れるこの生活を、レオは深く愛していた。
木のベッドから身を起こし、使い古したゆったりとしたシャツに腕を通す。
首元までしっかりとボタンを留めるのは、うなじから漏れる微かな香りを塞ぐための長年の習慣だった。
冷たい水で顔を洗い、タオルで水滴を拭き取ると、眠気はすっかりと遠のいた。
厨房を通り抜け、裏口の重い木の扉を押し開ける。
蝶番が微かに軋む音を立てた。
外に出ると、土と草の青臭い匂いが肺の奥まで入り込んでくる。
足元の草に結んだ露が、革靴の先を冷たく濡らした。
レオが向かうのは、家のすぐ裏手に口を開ける小さな洞窟だ。
苔むした岩肌にぽっかりと空いたその穴は、村の人間すら寄り付かない奇妙な場所として知られていた。
だが、レオにとってはこの場所こそが、平穏なスローライフを支える命綱であり、豊かな食料庫でもあった。
洞窟の中に一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
足元はわずかにぬかるんでおり、歩くたびに微かな水音が響いた。
暗闇に目が慣れてくると、岩肌で淡く発光するキノコが視界を照らし出す。
奥へ進むにつれて、土の匂いに混じって、どこか甘く香ばしい匂いが漂い始めた。
洞窟の中腹まで来ると、岩の隙間から奇妙な低木が幾本も枝を伸ばしている。
その枝先には、果実のように丸くふくらんだパンが実っていた。
表面は美しいきつね色に焼き上がり、触れればほんのりと温かい。
レオは背負い籠を下ろし、熟したパンを一つずつ丁寧にもぎ取っていく。
手のひらに伝わる柔らかい感触と、鼻をくすぐる小麦の香りに、自然と表情が緩んだ。
「今日もいい焼き加減だ」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、籠の中へ並べていく。
パンの木の下には、新鮮な葉野菜が泉の周りに群生している。
冷たい水で洗われたような瑞々しい緑色の葉を、根本からナイフで切り取った。
野菜の切り口からは、甘い香りのする透明な水滴がこぼれ落ちる。
籠の半分が埋まったところで、レオはさらに奥へと足を進めた。
通路が少し広くなり、小さな広場のような場所に出る。
岩の陰で何かがうごめく気配がした。
丸い体に短い足を生やした、小豚のような生き物が姿を現す。
こちらに気づくと、威嚇するように短い牙をむき出しにしてきた。
だが、その動きはひどく鈍く、殺気のようなものは一切感じられない。
レオは腰に下げていた短い木の棒をゆっくりと引き抜いた。
生き物が短い足で突進してくるのを半歩横にずれてかわし、その丸い額を木の棒で軽く叩く。
小さく軽い手応えとともに、生き物は淡い光の粒となって空中に弾けた。
後には、赤身と白い脂身が美しい層をなす、新鮮なひき肉の塊がごろりと残されている。
血の一滴すら流れない、都合の良いことこの上ない不思議な生態系だった。
レオは麻布を取り出し、ひき肉を丁寧に包み込んで籠の隙間に詰めた。
宮廷の厳しいしがらみも、Ωとして生まれたがゆえの息苦しさも、この裏庭の恩恵があれば忘れられた。
今日の食堂の仕込みには十分すぎる量だ。
満足して引き返そうと向き直った、そのときだった。
岩の向こう側に、見慣れない暗い影が落ちているのが視界の隅に入った。
レオは足を止め、目を凝らす。
ぼんやりとした発光キノコの光の中に浮かび上がったのは、人の姿だった。
土くれにまみれた金糸の髪が、洞窟の微かな風に揺れている。
大柄な男が、冷たい岩床に伏せるようにして倒れていた。
レオは息を呑み、籠をその場に放り出して駆け寄った。
上等な生地で作られた漆黒の外套はあちこちが引き裂かれ、乾いた土に黒々とした血の染みを作っている。
「おい、大丈夫か」
声をかけながら、男の背中にそっと手を当てた。
厚い布越しに伝わってくる体温は、ひどく弱々しい。
呼吸は浅く、背中の上下がほとんど見て取れないほどだった。
レオは男の肩を掴み、ゆっくりと仰向けにひっくり返した。
土と血で汚れた、端正な顔立ちがあらわになる。
まだ二十歳そこそこと思われる、若く精悍な顔つきだ。
きつく結ばれた唇と、苦痛に歪むまぶたの奥に、どれほどの痛みが潜んでいるのか。
こんな人里離れた辺境の洞窟に、なぜこれほど身なりの良い青年が倒れているのか。
疑問は尽きなかったが、今はそれどころではない。
冷たい岩床の上でこれ以上体温を奪われれば、命に関わる。
レオは青年の腕を自分の肩に回し、腰に手を回して立ち上がろうとした。
ずっしりとした重みが、小柄なレオの体にのしかかる。
鍛え上げられた筋肉の重さに一瞬足がよろけたが、レオは歯を食いしばって踏みとどまった。
青年の靴の先が土を引きずる音だけが、静かな洞窟内に響く。
額に汗をにじませながら、レオは抱えるようにして出口へと向かって歩き出した。




