第17話「黄金の苔とふくらんだ頬袋」
夏の朝の空気は、日を追うごとに少しずつ厚みを増していた。
窓から差し込む光が、磨き上げられた木の床に白く四角い模様を描き出している。
レオは使い慣れた前掛けの紐を背中でしっかりと結び、厨房の棚から大きな背負い籠を下ろした。
今日は、アレクがこの辺境の家を正式に離宮と定めてから十日目の節目に当たる。
帝都からの急使が毎日運んでくる大量の書類仕事に追われながらも、彼は約束通り午後の農作業を欠かすことはなかった。
そんな彼の労をねぎらうため、レオは今日の夕食を少し特別なものにしようと決めていた。
足音を忍ばせて階段を下りてきたアレクが、レオの手元を見て目を細める。
「今日は随分と気合いが入っているな」
「うん。十日目の記念日だから、少し奥の階層まで行って、珍しい食材を探してこようと思って」
レオの言葉に、アレクは静かにうなずき、いつも通りレオから籠を受け取って自分の背中に背負った。
二人は裏口の扉を抜け、朝露に濡れた草を踏み分けて洞窟の入り口へと向かう。
ひんやりとした空気が肌を撫で、外の熱気を瞬時に奪い去っていった。
発光キノコの淡い緑色の光を頼りに、パンの木が群生する広場を通り抜け、銀色の魚が泳ぐ地底湖のほとりを歩く。
以前ここで起きた出来事を思い出し、レオの足がわずかに止まった。
あの時、Ωのフェロモンが暴走し、獣たちに囲まれて気を失いかけた。
そして、彼がすべてを投げ打って助けに戻ってきてくれた場所だ。
アレクも同じことを思い出したのか、歩みを止め、レオの手に自分の大きな手をそっと重ねてきた。
硬い剣だこのある指先から、力強い体温が伝わってくる。
「もう二度と、あんな思いはさせない。お前の隣には、俺がいる」
低い声で紡がれた言葉に、レオは顔を上げて微笑み、彼の手を握り返した。
地底湖の奥にある隠された岩の裂け目を通り抜けると、そこから先はレオも数回しか足を踏み入れたことのない未知の領域だった。
通路は緩やかな下り坂になり、岩肌を覆う苔の色が、青から黄金色へと変化し始める。
発光する黄金の苔が、洞窟全体を夕暮れ時のような温かい光で満たしていた。
空気はひんやりと冷たいが、どこか炒った木の実のような香ばしく甘い匂いが漂っている。
足元の岩は滑らかに削られ、歩くたびに微かな反響音が奥へと吸い込まれていった。
しばらく進むと、開けた空間に出た。
天井からは金色の雫がゆっくりと滴り落ち、地面に小さな水たまりを作っている。
その水たまりのほとりで、何かがせわしなく動く気配がした。
レオが目を凝らすと、両手で抱えられるほどの大きさの、丸みを帯びた生き物がそこにいた。
黄金色の柔らかな毛並みを持ち、短い手足で器用に岩をよじ登っている。
一番の特徴は、顔の半分ほどもある大きくふくらんだ頬袋だった。
何かを限界まで詰め込んでいるらしく、歩くたびにその頬袋が重そうに揺れる。
警戒心が強いのか、二人の足音に気づくと、生き物は短い耳をぴくりと立て、驚いたようにこちらを振り返った。
つぶらな黒い瞳が、レオとアレクを交互に見つめる。
「あれは、なんだ」
アレクが声を潜めて尋ねてくる。
「僕も見るのは初めてだよ。でも、すごくいい匂いがする」
生き物は逃げ出すかと思いきや、重すぎる頬袋のせいでうまく走れないのか、その場で短い足踏みを繰り返した。
レオは腰を落とし、敵意がないことを示すようにゆっくりと手を差し伸べる。
生き物は鼻先をひくひくと動かし、レオから漂う果実のような甘い香りに惹かれるように、少しずつ距離を詰めてきた。
手のひらのすぐ近くまで来ると、生き物はふくらんだ頬袋をレオの手に押し当て、ぷはっと息を吐き出した。
ぽろぽろと、黄金色の欠片が手のひらの上にこぼれ落ちる。
生き物は身軽になった体を震わせると、満足げに短い鳴き声を上げ、あっという間に岩の隙間へと姿を消していった。
後に残されたのは、透き通るような黄金色をした、見慣れない食材だった。
レオは手のひらに乗ったそれを顔に近づけ、匂いを嗅ぐ。
熟成されたチーズのような濃厚なコクと、蜂蜜のようなどこまでも深い甘い香りが入り混じっていた。
「すごい。あの生き物、こんな美味しいものを溜め込んでいたんだ」
アレクが身を乗り出し、その黄金の欠片を指先でそっとつまみ上げる。
「不思議な場所だな。まるで、お前を歓迎して贈り物を置いていったみたいだ」
アレクから漂う雨上がりの森のような香りが、黄金の苔の光の中で優しくレオを包み込む。
彼の琥珀色の瞳は、手の中の食材よりも、それを見つめるレオの横顔を愛おしそうに捉えていた。
レオは胸の奥が温かくなるのを感じながら、籠の中にその貴重な食材を丁寧に収めた。
今日の夕食の主役はこれで決まりだ。
帰り道、急な上り坂でレオの足がぬかるみに取られ、わずかに体勢を崩した。
すかさずアレクの強靭な腕がレオの腰を抱き寄せ、転倒を防ぐ。
密着した体から、互いの心音が重なり合って聞こえてきた。
「危ないところだったな」
至近距離で囁かれる声に、レオは頬が熱くなるのを隠せなかった。
Ωの体質は、彼のαの気配に触れるだけで心地よく反応し、満ち足りた吐息を漏らしてしまう。
二人は互いの体温を確かめ合うように、しばらくその場に立ち尽くしていた。
洞窟の冷たい空気が、今の二人には少しも寒く感じられなかった。
背負い籠を満たした食材と、重なり合う手のひらの確かな熱だけが、二人を外の光へと導いていく。




