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隠れΩの辺境スローライフ飯 元宮廷料理人が拾った傷だらけの青年はαの皇帝陛下でした 美味しい手料理で胃袋を掴んだら溺愛されています  作者: 月夜 闇花


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第15話「夏の離宮と新しい朝餉」

 静かな辺境の村に、真新しい風が吹き込んでいた。

 朝靄がまだ森の木々に絡みつく早い時間帯から、小さな食堂の表には銀色の鎧を着た騎士が一人だけ立っていた。

 彼らは皇帝の命に忠実に従い、部隊の大部分を隣の宿場町へと後退させている。

 ただ一人、帝都からの急ぎの書簡を届けるための連絡係だけが、音を立てないように馬を遠くに繋いで歩いてきたのだ。

 レオは厨房の小窓からその様子をそっとうかがい、深く息を吸い込んだ。

 本当にこの小さな家が、帝国を統べる皇帝の離宮として扱われている。

 昨日アレクが口にした言葉が、決して一時的な気まぐれではなかったことを目の前の光景が証明していた。

 レオは視線を室内に戻し、竈の火を調整する。

 パチパチと薪が爆ぜる小さな音が、少しだけ緊張していたレオの心を解きほぐしてくれた。

 鉄のフライパンに薄く油をひき、洞窟で手に入れた小豚のような生き物の肉を厚めに切って並べる。

 熱された鉄肌に肉が触れた瞬間、香ばしい脂の匂いが立ち上った。

 表面がカリッと黄金色に焼け、内側に赤い肉汁を閉じ込めていく。

 隣の小鍋では、葉野菜とキノコをたっぷりと入れたスープが静かに湯気を立てていた。

 いつもの朝の光景であり、いつもの朝の匂いだった。

 背後の木組みの階段がきしみ、静かな足音が下りてくる。

 振り返ると、薄手のシャツに柔らかな布地の長ズボンという、村の青年と変わらないくつろいだ格好のアレクが立っていた。

 金糸の髪は寝癖でわずかに跳ねているが、その表情はとても穏やかだ。

 彼が部屋に足を踏み入れた途端、雨上がりの森のような清々しい香りが、料理の匂いと混ざり合って空気を満たしていく。

 その香りに触れただけで、レオの体の中で小さくうずくまっていたΩの本能が、安心しきったように深く息をつくのを感じた。


「おはよう、アレク」


 レオが声をかけると、アレクは目を細めて短く応えた。


「おはよう。今日もいい匂いだな」


 彼は迷うことなく食卓の自分の席へと向かい、椅子を引き出して腰を下ろす。

 そこへ、表の扉が控えめに叩かれた。

 アレクの眉がわずかに寄るが、彼は立ち上がることなく低い声で入室を許可する。

 扉が開き、先ほどの騎士が一歩だけ土間に足を踏み入れ、深く片膝をついた。

 彼の腕には、分厚い羊皮紙の束が抱えられている。


「陛下。帝都より、至急の裁定を仰ぐ書簡が届いております」


 騎士の声は硬く、周囲の素朴すぎる環境と目の前のくつろいだ皇帝の姿に、ひどく戸惑っているのが伝わってきた。

 無理もないと、レオは木べらを動かしながら密かに同情する。

 アレクは立ち上がり、ゆっくりとした足取りで騎士の元へ近づいた。

 その瞬間、彼から立ち上る気配が、一瞬だけ鋭く冷たいものへと変化する。

 皇帝としての重圧をまとったその背中に、騎士はさらに深く頭を下げた。


「ご苦労。書簡はそこに置いておけ」


 アレクが短く命じると、騎士は羊皮紙の束を丁寧に木箱の上に置き、素早く外へと退出していった。

 扉が閉ざされると同時に、アレクの鋭い気配はふっと霧散し、再び穏やかな森の香りへと戻る。

 彼は羊皮紙の束を手に取り、食卓の端へと無造作に置いた。

 帝国の未来を左右するかもしれない重要な書類が、木製の素朴なテーブルの上に置かれている光景は、ひどくちぐはぐで可笑しかった。

 レオは焼き上がった肉とスープを木皿に盛り付け、湯気を立てる食事をアレクの前に運ぶ。


「冷めないうちに食べて。仕事はそのあとでいいだろう」


 向かいの席に腰を下ろしながら言うと、アレクは羊皮紙から視線を外し、目の前の皿へと向き直った。


「そうだな。何よりも優先すべきは、お前の作る朝食だ」


 彼はフォークを手に取り、厚切りの肉を切り分けて口に運ぶ。

 噛みしめるたびに、彼の強張っていた肩の線が緩んでいくのがわかった。

 彼が食事を飲み込む喉仏の動きを、レオは静かに見つめる。

 互いが同じものを食べ、同じ空間で呼吸をする。

 ただそれだけのことで、二人の間にある見えないフェロモンの糸が複雑に絡み合い、強固な結びつきを作っていく。

 レオの体から漏れ出す甘い果実の香りは、アレクの深い森の香りに包み込まれ、決して外に漏れ出すことはない。

 これほどまでに安全で、満たされた場所がこの世界にあったのかと、レオは胸の奥が熱くなるのを感じていた。


「この村の土は良い。昨日の雨で水分を十分に含んでいるから、午後は少し裏の畑を拡張しようと思う」


 スープを飲み干したアレクが、唐突にそんなことを言い出した。

 レオは目を丸くして、食卓の端に積まれた羊皮紙の束と彼の顔を交互に見る。


「畑の拡張って。君は皇帝の仕事があるんじゃないの」


「書類の裁可など、昼前の数時間もあれば終わる。太陽が出ているうちは、体を動かして土に触れていた方が性に合っているんだ」


 平然と言い放つ彼に、レオはついに堪えきれずに吹き出してしまった。

 彼の中では、帝国の政務よりも辺境の畑仕事の方が重要な位置を占めようとしている。

 呆れると同時に、そんな彼をひどく愛おしいと感じている自分がいた。

 レオの笑い声につられるように、アレクの口元にも柔らかな笑みが浮かぶ。

 朝の光が差し込む小さな食堂は、もう孤独な逃亡者の隠れ家ではない。

 二人が共に生き、共に歩んでいくための、温かな城へと確実に変わり始めていた。

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