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隠れΩの辺境スローライフ飯 元宮廷料理人が拾った傷だらけの青年はαの皇帝陛下でした 美味しい手料理で胃袋を掴んだら溺愛されています  作者: 月夜 闇花


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第12話「暗がりの崩壊と孤独な熱」

 アレクを乗せた馬車が村を去ってから、どれくらいの時間が経ったのか、レオには正確に把握できなかった。

 太陽は高く昇り、じりじりとした熱気を含んだ光が窓から差し込んでいる。

 食堂の中は、耳が痛くなるほどの静けさに包み込まれていた。

 レオは機械的な動作で、食卓の上に残された木皿や杯を片付け始めていた。

 彼が口をつけていた杯を手に取ると、もうそこに体温は残っていないのに、指先が微かに震える。

 洗い桶に水を張り、布巾で丁寧に汚れを拭き取っていく。

 水音だけが単調に響く中、レオは自分の体の異変に少しずつ気づき始めていた。

 指先から這い上がるような悪寒と、胃の腑の底から沸き立つような熱。

 相反する二つの感覚が、レオの体を同時に支配しようとしていた。

 額にはべっとりと冷や汗がにじみ、呼吸をするたびに喉の奥が焼け付くように乾く。

 それは、長年薬や独自の食事療法で押さえ込んできた、Ωとしての発情の兆候だった。

 アレクという強力なαのそばで過ごし、食事を共有することでフェロモンを完全に調和させていたこの数日間。

 その強固な結びつきが突如として断ち切られたことで、レオの体は急速にバランスを崩し、これまで以上の反動となって襲いかかってきたのだ。

 洗い桶の縁を掴む手に力が入り、白く関節が浮き出る。

 立っていることすら困難になり、レオはその場に崩れ落ちるように膝をついた。

 荒い息を吐き出すたびに、自分の体から甘く熟した果実のような、濃密なΩの香りが漏れ出していくのがわかる。

 普段ならこの匂いを察知して、アレクが温かな気配で包み込んでくれていた。

 だが、今はもう彼はいない。


「……っ、薬を」


 かすれた声でつぶやき、レオは這うようにして戸棚の方へと向かった。

 震える手で引き出しを開け、以前まで飲んでいた抑制剤の小さな瓶を取り出す。

 しかし、指に力が入らず、瓶は床に転がり落ちて粉々に砕け散ってしまった。

 乾いた音とともに、粉末状の薬が木板の隙間に散らばる。

 絶望感が胸を締め付け、レオは視界がぐらりと揺れるのを感じた。

 このままここで倒れれば、村の誰かが訪ねてきたときにこの匂いを嗅ぎつけられてしまう。

 Ωであることが知られれば、この村にも居られなくなるかもしれない。

 朦朧とする意識の中で、レオは裏庭の洞窟を思い出した。

 あそこなら誰の目にも触れない。

 それに、洞窟の奥に生えている冷たい薄荷の葉を噛めば、少しは気が紛れるかもしれない。

 レオはふらつく足で立ち上がり、壁伝いに裏口の扉へと向かった。

 扉を開けると、夏の熱気を含んだ風が頬を打ち、めまいがさらにひどくなる。

 足を引きずるようにして庭を横切り、洞窟の暗がりへと足を踏み入れた。

 入り口のひんやりとした空気が、火照った肌にわずかな安堵をもたらす。

 だが、それも束の間のことだった。

 岩肌を照らす発光キノコの淡い光が、熱に浮かされた視界の中で奇妙に歪んで見える。

 足元はぬかるみ、何度も転びそうになりながら、レオはただ奥へ奥へと進んでいった。

 パンの木が生い茂る広場を抜ける頃には、すでに呼吸は限界に達していた。

 胸が大きく上下し、甘く重いフェロモンが洞窟の冷たい空気に溶け出していく。

 普段は無臭のこの空間が、レオの放つ香りで満たされていくのがわかった。

 地底湖へと続く細い通路の途中で、ついにレオの足がもつれた。

 湿った岩肌に肩を打ち付け、そのまま冷たい土の上へと倒れ込む。

 起き上がろうと力を込めるが、腕はゼリーのように崩れ、指先一つ動かすことができなかった。

 岩肌の冷たさが心地いいはずなのに、体の内側から燃え盛る熱は一向に引く気配がない。

 荒い吐息を繰り返すたび、意識が少しずつ遠のいていく。

 そのとき、暗闇の奥から微かな異音が聞こえてきた。

 カサカサという硬いものが擦れる音。

 ズシン、ズシンという重い足音。

 普段は穏やかで逃げ足の早い洞窟の生き物たちが、レオの放つ強いΩのフェロモンに当てられ、異常な興奮状態に陥って集まってきたのだ。

 暗がりの中で、いくつもの赤い双眸がレオを取り囲むように浮かび上がる。

 短い牙をむき出しにした丸い生き物や、硬い甲羅を引きずりながら近づいてくる巨大な影。

 彼らの口からは粘ついたよだれが垂れ、明確な食欲と興奮がその赤い瞳に宿っていた。

 逃げなければ。

 そう思うのに、体はまったく動かない。

 声を出して助けを呼ぼうとしても、喉からはひゅーひゅーというかすれた音しか漏れなかった。

 赤い瞳がじりじりと距離を詰め、岩を擦る不気味な音が耳元に迫る。

 死の恐怖よりも、アレクを突き放してしまったことへの後悔が、熱に浮かされた頭を支配していた。

 彼の背中を見送ったあの朝の光が、なぜかとても遠い昔の出来事のように感じられる。

 もう一度だけ、あの雨上がりの森のような香りに包まれたかった。

 もう一度だけ、不器用な彼の手が包丁を握る姿を見たかった。

 レオの瞳から、熱い涙がひとすじこぼれ落ち、冷たい土へと吸い込まれていく。

 迫り来る獣の影がレオの体を覆い隠し、鋭い牙が光を反射して迫る。

 レオはゆっくりとまぶたを閉じ、深い闇の底へと意識を手放した。

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