65 絶望の淵と、閃き
「ギチギチギチッ!!」
最前列を走るミスリルスパイダーが、その鋼鉄の細肢を鋭く振り下ろした。
狙いは、無防備に立ち尽くしているエリナの喉元だ。
「危ない……っ!」
俺は声を絞り出した。
けれど、酸欠のせいで身体が鉛のように重い。
右目の『観測者』は、エリナの首筋へと収束していく黄金の糸を冷酷なまでに映し出している。
(ダメだ……脳がうまく働かない……)
「――させない、よ……っ!!」
その時、俺たちの頭上を小さな影が横切った。フェイだ。
フェイはその小さな翅を必死に羽ばたかせ、捨て身の覚悟でエリナの目の前へと割り込んだ。
「ピクシーフラッシュ!!」
フェイの身体から、強烈な目眩ましを誘う虹色の光が弾けた。
ピクシー族が持つ数少ない自衛用の固有魔法だ。
「ギチッ!?」
至近距離で目潰しを浴びたミスリルスパイダーが、後方へのけ反りって大きく怯む。
「フェイちゃん……!」
「あたしじゃ、これ以上は無理……っ!」
決死の足止めをしてくれたフェイだが、ミスリルスパイダーのレベルは32。
ただの目眩ましが長く通用する相手じゃない。
すぐさま体制を立て直した蜘蛛たちが、光のベールを強引に引き裂き、空中を歩行するようにして次々と迫ってくる。
万事休す、まさに絶体絶命の背水の陣だ。
空気がない。魔法が使えない。俺の意識も今にも飛びそうだ。
完全に詰んだ――その極限の絶望の最中、エリナは諦めず、その瞳で必死に解決の糸口を探していた。
その目は、俺の奥、壁にもたれかかって苦しむクロニカの姿を見つめる。
――空気がないから、風が起こせない?
――酸素がないから、火が燃えない?
「あ……」
その時、エリナの脳裏に、一つの矛盾が閃きとして突き刺さる。
――だったら、どうして今、私たちはまだ生きているの?
――どうして、苦しいけれど、まだ完全に意識を失わずに済んでいるの?
答えは一つしかなかった。
この部屋は完全な真空などではない。
魔導院は当然、全力で真空を作ろうとしたのだろうが、実は完全な真空を作るのはかなり難易度が高い。
――まだ、この部屋には微量の大気が残っている──!!
みんなの口元に、そしてこの広い部屋の隅々に、まだかろうじて薄い大気が存在しているのだ。
普通の風魔法は、そこにある潤沢な大気を動かす術だ。
だから不発に終わった。
――だったら、動かす大気がないなら、どうする。
――集めるのよ。
――部屋中に残された、消えかけの空気を。あるいは吸引口の向こうにある大気すらも、すべて。
「いやあああっ!来ないで、こっちに来ないでよ!」
フェイがエリナの髪にしがみつきながら、涙目で必死に小さな手をかざす。
だが、ミスリルスパイダーの金属の爪が、容赦なくギラリと冷たく光った。
死の刃が、今まさに振り下ろされようとしている。
――嫌。せっかく見つけた私の居場所、もう二度と失いたくない……!
エリナの脳裏に、パーティーに加入しては無能と蔑まれ、何度も追い出されて苦汁をなめた過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
そしてそれを塗り替えるように、亡霊の森で命がけで戦ってくれたベネディクトの姿、優しく髪を結ってくれたクロニカの指先、そして、ここまで信じて旅を共にしてきた依人の笑顔が浮かんだ。
──いつも守られてばかりだった。依人の背中を見て、ベネディクトさんの強さに頼って、クロニカさんの知恵に縋っていた。
──でも、今みんなを救えるのは、ここに立っている自分だけだ。
「みんなを……死なせない……っ!!」
彼女は、喉が裂けんばかりに叫び、愛用の杖を固く両手で握りしめた。
恐怖を、焦りを、窒息寸前の苦しみを、すべて心の奥底へと無理やり押し込める。
一世一代の極限状態の緊迫感が、彼女の集中力を、これまでの人生のどんな瞬間よりも鋭く、深く研ぎ澄ませていく。
エリナの意識が、世界から完全に切り離された。




