55. ひと息つける場所
クロニカの言葉で一度は空気が引き締まったものの、肝心のフェイ本人がルナの耳の間で「ふわぁ……」と大きなあくびを漏らしたことで、緊張感は見事なまでに霧散した。
「……ま、今すぐ魔導院に突っ込むわけにもいかないしな。まずは腹ごしらえだ。テリオットさんに差し入れでも頼んでくるよ」
「あら、それでしたら私がいくわ。少し、彼と話したいこともあるし」
クロニカが本を閉じて立ち上がると、ルナの耳からフェイがひょいと顔を出した。
「ちょっと、あたしの分は、脂ぎったお肉は無しにしてよね!あと、冷たくて甘い飲み物が欲しいわ!精霊は繊細なんだから!」
「注文が多いわね。……ベネディクト、そこの棚にある空き瓶を取って。うるさいからこれに詰め込んでおきましょう」
「おいクロニカ、冗談に見えねぇからやめろよ……」
ベネディクトが引きつった顔で止めるのをよそに、フェイは「ひえっ」と短い悲鳴を上げてルナの耳の奥へと潜り込んだ。
十数分後。
テリオットが運んできてくれたのは、山盛りの蒸しパンと、香ばしく焼かれた鳥串、そして冷えたヤギのミルク。
さらにはフェイ用にと、小皿に盛られたフルーツの詰め合わせまであった。
「ほら、ルナ。今日のご飯だ」
テリオットがポケットから輝きを失った魔晶石を差し出すと、ルナは単眼を輝かせ、大きな口でガリッと小気味よい音を立ててそれを砕いた。
その様子を横で見ていたフェイが、ミルクの入った小皿を抱えながら引き攣った顔をする。
「……あんた、本当にそれ美味しいわけ?ただの石ころじゃない」
「ギュル……」
ルナは満足げに喉を鳴らし、フェイの横で太い尻尾をぶんぶんと振り回している。
「ちょ、埃が舞うじゃない!依人、こいつなんとかして!」
「仲がいいことで。……ほら、フェイ。この蒸しパン、中身はベリーだぞ」
俺がちぎったパンの断面を見せてやると、フェイの興味は完全にそちらへ移ったようだ。
────
地下室には、カビ臭さを上書きするようにパンの甘い香りが広がる。
これからのこと、つまりは魔導院にどう潜入するかについて話し合いたいところではあるが、現時点で確かなアイデアを持っている者はいないようだった。
あえて誰も口を開かないのが、その証拠だろう。
ベネディクトは、夕飯をさっさと食べ終わると「俺は外で寝るから」と言って夜の街へ繰り出していった。
一人で逃げ回りながら放浪していたらしいから、こういった屋内は落ち着かないのかもしれない。
クロニカは相変わらず部屋の隅っこに座り本を読み進めている。
そしてフェイは、いつの間にかルナの柔らかな毛に埋もれて、幸せそうにうたた寝を始めていた。
「……ねえ、依人」
エリナが、ルナを撫でながら俺の隣で小さく微笑んだ。
「私たち、なんだか……家族みたいね」
「そうだな。まあ、少し騒がしすぎる家族だけどな」
俺の言葉に、フェイが「なによ、文句あるの……」と小さく喚き、ルナがそれに合わせて「ギュルル」と相槌を打つ。
明日からは、魔導院潜入の糸口を探る日々が始まる。
未だ決定的な手がかりはない。
だが、潜入さえすれば勇者を呪縛から解き放つための方法が、何かしら見つかるはずだ。
いや、必ず見つけ出してみせる。
明日へ続く闇は深く、重い。
けれど、久しぶりに訪れた静寂の中で、俺は深い眠りに落ちていった。




