33 気持ちの変化
※フェリクス視点です。
僕は姉上が突然シャーリィ付きの騎士にした、
セラという女性ついて良い感情を持ってはいなかった。
いや、寧ろ負の感情を抱いていた。
挨拶は交わしたし、姉上の隣で一度だけ”報告”を聞きはしたが、
ちゃんと話した事などないと言うのに。
何故、姉上は”あんな女”を…
彼女を見かける度にそういう気持ちが湧き上がってきた。
”あんな女”だなんて、知ろうともしないでよく言えたものだ、と
一昨日までの自分を思い出してはため息を付きたくなる。
勿論、自分の浅はかさに対して。
彼女とは一度図書室で顔を合わせている。
…いや、そう言っていいのか迷う程
顔を合わせていたのは、ほんのわずかな時間だったけど。
あれは事故だった。
僕は昔から本が好きで、気になる本を
見つけるとすぐに読み始めてしまう癖がある。
それから周りからは口を酸っぱくして言われているし、
僕自身もいつも気を付けようと思っているのに
中々抜けない困った癖がもう一つ。
それはその見つけた場所が脚立の上であっても、という事だ。
彼女と鉢合わせたあの時も、僕は脚立の上で本を読んでいた。
護衛の騎士たちを撒いて一人の時間を満喫していたのが悪かったのだろう。
入ってきた彼女に気付かなかった。
だから、気づいた時には驚いてしまい
恥ずかしい事にバランスを崩してしまったのだ。
あ、と思った時には大抵の事はもう遅い。
僕の体は傾き、慌てて伸ばした手は何も掴むことは出来ず。
見開かれたアメジストを視界から追い出すようにぎゅっと目を瞑った。
すぐさま体を打ち付ける痛みがやってくるだろう、と
思っていたのに、その衝撃は覚悟したものよりもずっと弱いもので。
体はぎゅうっと暖かな何かに包まれていて、
しかも、顔には何か柔らかな感触が当たっている。
現状を理解するまでに時間がかかった。
いや、正しくは脳が理解する事を拒んだ時間があった。
けれどもその時間は僅かしか与えられず、
「いてて…」と聞こえてきた自分以外の声にハッと我に返る。
途端に脳が働き出して与えられる情報が一斉に整理され、理解する。
顔から火が出たのかと錯覚するほど熱を持ったのと
下敷きにした柔らかな体から逃げるように腕を突っ張ったのは、
一体どちらが早かったのだろうか。
正直、あの時の事はよく覚えていない。
ただ突然立ち上がった僕を見上げるアメジストがパチパチと瞬いていて。
ふっくらとした唇が何か言葉を紡ごうとしたのが視界に入った途端、
気が付けば僕は
「す、すまない!!」
と言い捨てて駆け出していた。
無礼極まりなかったと思う。
けれど、あの時の僕はなんていうか…いっぱいいっぱいで。
顔は暑いし脳は回らないし、なんだかもう訳も分からず叫びたい。
恐らく言葉にはならず、ただ「ぅわああぁああああ!!」だのという
声しか発せられないけれど、只管沸きあがる気持ちを
どうにかしたくてそんな事を思いながら、兎に角走った。
すれ違うメイドや騎士たちが「王子!?」と
驚いたように声をかけてきたが、足を止めれるはずがない。
僕の足が漸く速度を落とし始めたのは、息が上がり始めてからだ。
目的もなくただ走っていただけだったが
図書室からは随分と離れた人通りの少ない廊下だった。
だと言うのに、こういう時に限って人と会うのだから神様は意地悪だ。
「王子?」
「…リュグナード…」
「こんな所でどうしたんですか…って、その耳は、」
「言うな」
書類を抱えたリュグナードが
肩で息をする僕を見て怪訝な顔で近づいてくる。
未だに熱を持っているのがよく分かる顔を見られるのが
嫌で俯いたと言うのに、髪の間から覗く耳ですぐにバレてしまった。
驚いたようなリュグナードの問いかけを途中で食い止める。
背の高い彼を下からキッと睨み上げたが、恐らく効果は薄いだろう。
なんせ、情けなくも涙目な自覚があったのだから。
けれども鉄仮面のせいで誤解されがちだが、
リュグナードは気遣いの出来る男だ。
口を閉じて僕が落ち着くのを待っていてくれた。
そっとしておく、という選択肢は存在しないらしいが。
「…落ち着きましたか?」
「あぁ…すまない、この忙しい時に…」
「いえ、それで一体どうなさいました?
俺で良ければ話を聞きますが…」
「……」
僕の息が整い、顔の熱も下がってきたのを見計らい、
リュグナードが問いかけてくる。
向けられる鋭い印象を受ける
ダークブルーの瞳には心配そうな色が宿っていた。
彼だって忙しいだろうに(なんせ姉上の誕生日が間近に迫っている)、
そう気遣ってくれるリュグナードに僕は、一瞬言おうかどうか迷った。
けれど、少しの沈黙の後に「実は…」とごにょごにょ言葉を
濁しながらも話したのは、一人で抱えこむには
僕には荷が重すぎると判断したからだ。
それと――
「…それは、きちんと謝罪すべきです」
「…そうだな、リュグナードの言う通りだ…」
そう、自分の無礼と不甲斐なさを咎め、僕自身出していたけれど、
実行に移す事に躊躇する”答え”をしっかりと突き付けて欲しかったから。
眉を顰めてそう言ったリュグナードに僕は正しいと思いながらも項垂れる。
正直、もう一度彼女の前に立つ事は剣術指南の際に
鬼と呼ばれるリナルドを前にするのよりも、今の僕には恐ろしい。
「あの、この事は他には?」
「誰も知らない。あの場には、僕と彼女の二人だけだったから…
その、彼女が他に話さなければの話しだが…」
「それは恐らく大丈夫かと」
「そうだろうか?不注意で落ちた僕を彼女は庇ったんだぞ?
僕だったら愚痴の一つくらい誰かに漏らした、い…」
何故か声を小さくして辺りを気にしながら訪ねてきた
リュグナードを不思議に思いながらも素直に答えると
彼は何故かほっとした様子を見せた。
その事に突っ込む余裕は僕にはなかった。
何故なら、自分が続けた言葉に
事の大きさをここで漸く理解したからだ。
全身からサーっと血が引いていくのが分かった。
「大丈夫ですよ王子、彼女はそういう人じゃありませんから。
あと、恐らく怪我もしてませんよ。先ほど走っていく彼女を見ましたし」
「そ、そうか?」
「ええ、大丈夫です俺が保証します。なので、今から」
青白い顔で立ち尽くす僕にリュグナードが慌てた様子でフォローを入れる。
彼女を連れてきたのは彼なのだし、恐らく今一番彼女を知っているのも彼だろう。
そのリュグナードが、そう言うんだから…とは思うものの、不安が拭いきれない。
そんな僕の内心を察したのか今すぐ謝りに行こうと
言い出したリュグナードに頷こうとしたその時。
ゴーンゴーンと5時を告げる鐘の音が鳴り響いた。
「「…」」思わず無言で顔を見合わせる。
僕も自覚はあるが、リュグナードもいつもに増して無表情だった。
「…は、無理なので、兎に角、明日謝りましょう」
「わかった、そうする」
響く鐘の余韻を聞き届け、
リュグナードが途切れた会話の続きを切り出した。
無表情の中に苦笑いが見て取れるのは、彼女が定時上がりだからだろう。
姉上が提示した彼女の労働条件は
王騎士の中でも群を抜いて待遇がいいからな。
…何故彼らから不満の声が上がらないのか、不思議なくらいに。
「付き添いましょうか?」
「子ども扱いするな。そのくらい僕一人で出来る」
ふと考えが逸れかけた時、黙り込んだ僕を心配してか、
そう告げてきたリュグナードに僕はムッとして言い返した。
ついキツイ言い方になってしまったと言うのに
「はい、失礼しました」と言って
彼は特に気にした様子もなくひょいと肩をすぼめて見せた。
リュグナードとは僕が物心ついた頃からの付き合いだ。
だから彼は時折飛び出す僕のこういった発言には慣れっこだし、
実は言った後で後悔している事を知っている彼は「頑張って」とだけ
言ってまるで甘やかす様に僕の頭をポンポンと叩き、背を向けた。
その広い背と同じく広い心に僕はいつも助けられている。
彼を兄の様に思っているし、ああいう、男になりたいと憧れてる。
「…話して楽になった。その、…ありがとう」
遠ざかっていく背に向けてぽつりと呟けば、
彼は気障ったらしく、背を向けたままひらりと手を振って見せた。
*
翌日。
許してもらえるだろうか。無礼な王子だと思われただろう。
事故だとは言え、む、胸に顔をうずめてしまったわけだし…
へ、変態だとか思われたかもしれない…!
いや、大事なのはそこじゃない。
精神誠意謝る事だと、竦む心を奮い立たせて彼女と対峙した。
結果から言うと、とんでもなく、あっさりと、許して貰えた。
「あ、はい、その事でしたら私は特に気にしてません」
ぶわりとまた熱を上げる顔に逃げ出しそうになる足を叱咤して、
もごつきながら謝罪した僕に彼女はケロリとした顔でそう返した。
思わず、ポカンとする僕に「事故ですからね」と苦笑いを浮かべて
「それより王子はお怪我はありませんでしたか?」と逆に気遣われる始末。
リュグナードから大丈夫そうだったと
聞いてはいたが一応「…君は?」と尋ねると
「この通りピンピンしてます、元気と丈夫さが取り柄なんで」と
人懐っこい笑顔が返された。思わず黙り込んだ僕に
彼女は何を思ったのかは分からないが、ただ急いでいるらしかった。
「では姫様からお使いを頼まれてますので、失礼しますね!」
と、言って一礼し、去っていった。
あまりにもあっさりしすぎていて、
僕は揺れるポニーテールが遠ざかっていくのを見送るしかなかった。
それからは僕も少し彼女を見る目が変わった。
あ、いや、変な意味じゃないぞ!?姉上やリュグナードが
彼女を気に入る理由をほんの少し、認めてやってもいいと思っただけだ!
*
そして昨日。
僕は更にその考えを改める事になった。
彼女は見事に仕事を遂行して見せたのだ。
それは姉上の見立てが間違っていなかったことの証明だった。
中庭で抱き合う二人の姿が目に焼き付いて離れない。
魔法で生み出された光り輝く四葉のクローバーが中庭を彩る、
その幻想的な空間の中で、最後にくるりと回って跪いた
彼女の笑顔に僕は何故か、酷い焦りを覚えていた。
何故、どうして、一体、どうやって?
窓から見下ろした光景に脳裏を疑問ばかりが埋め尽くしていく。
心が、感情が騒めいて落ち着かない。
会議中だったため、”その騒動”に気付くが遅れた。
僕がその場に足を運ぶには、もう遅かった。
正直、のけ者にされた気分だった。
けれど、その醜く澱んだ気持ちは、
姉と妹と共に乱入してきた彼女により綺麗サッパリ払われてしまった。
乱暴に席へと戻った僕の不機嫌さを察し、気まずげな雰囲気が
流れる部屋にに突然響いたノックと、続いて
「失礼しまーす」という明るい声。
勢いよく開いた扉から顔を出したのは
「邪魔するぞ」
「へ、陛下!?」
「姫様も!」
僕の一番の自慢であり、最愛の姉と妹だった。
突然の登場に狼狽える大臣たちを姉上がひらりと自由な左手で制して、
右手はシャーロットと繋いだまま
驚いて立ち上がったままの僕の前までやってきた。
先ほどの光景が脳裏に浮かび、何か言わなければと思うのに、
何と声をかけていいのか、わからなかった。
そんな僕の前で握っていた手を離した二人は顔を見合わせ、
うんと一つ頷き合うと一歩前に出たシャーロットが僕を見上げる。
「…シャーリィ、」
どうしたいいのか分からない僕は、
ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
そんな情けない僕を前に、シャーリィはおずおずと両手を広げる。
思わず、きょとんとした。
何を求められてるのか、わからなかったからだ。
咄嗟に姉上を見やるも何故か強く頷かれるだけだった。
え、あ、いや、頷かれても、わからないです、姉上。
どうしよう、と焦りが強くなっていく中で、
ふと姉上の後ろにいる彼女の存在に気づいた。
彼女は僕と目が合うと、にこっと微笑み、それからぐっと両手を握った。
何やら応援されている事だけはわかった。
でも意味が分からない。
混乱する頭が、ふと前に彼女に告げられた”提案”を思い出した。
あれは確か、彼女が騎士になってすぐの事だ。
報告を聞くと言っていた姉に無理やり同席した時の事。
「前に陛下は言葉が届かないとおっしゃられていましたが、
もういっその事、何も言わずに、だた抱きしめてみてはいかがです?」
僕はその提案を「そんな簡単な事で解決するなら苦労はしない!」と拒んだ。
声を荒げた僕は姉上に「落ち着きなさい」と諫められてしまったので、
それ以降はイライラしながら黙っていた。
「案外効果的だったりするんですけどねぇ」と言って肩を
すぼめて見せた彼女を嫌な奴だとさえ、あの時はそう思ったのだ。
けれど、それが正解だったのだと、
今、僕が求められているのは弱虫な心が拒んだ、行動で。
「お兄様」
妹の不安そうに僕を呼ぶ声に、僕は。
「シャーリィ、」
膝をついて、両手を広げる。
ぽすんと飛び込んできた小さな温もりをぎゅうっと抱きしめると、
同じようにぎゅうと抱きしめ返してくれる。
ああ、なんて。
「私、今まで勘違いしてたみたいなの。
心配かけてごめんなさい、お兄様…大好きよ」
「僕の方こそ悪かった。…僕だって、大好きだよ」
なんて、僕は馬鹿だったんだろう。
助言をもらったのに考えもせず、跳ね除けて。
それでいて怖がって動く事もしないで。
結局、情けない事に最後まで世話してもらって。
滲む視界で彼女を見れば、微笑ましそうなアメジストと目が合った。
「ありがとう」
これほど素直に言葉を言えたのは、
きっと僕の素直じゃない人生で初めてだった。
瞳を潤ませ「フェリ!」何故か乱入してきた姉上を慌てて抱きとめる。
揺れる金色の向こうで彼女は目を丸くした後、
「…どういたしまして」と照れくさそうにそう言って、へらりと笑った。
*
そして今日。
激務をどうにかねじ開けて、
久々に兄妹水入らずで開いたお茶会に、彼女を招くことになった。
正直、どういう顔をすればいいのかわからなったし、居心地は悪かった。
けれどそんな気持ちも気が付けば、綺麗サッパリなくなっていて。
彼女が語る”僕の知らない知識”や”披露された意外な一面”に
驚かされてばかりだった。
彼女は凄い、と素直にそう思う。
無理やり開けた時間は、結局その分日が暮れてから補う事になった。
高い位置にある月をベッドから暫し眺め、明日も晴れそうだなとふと思う。
ごろりと寝返りを打って、見慣れた天蓋を眺めながらこの数日を振り返る。
本当に、彼女は凄い。僕の気持ちが、正反対だ。
嫌いだと、嫌な奴だと思っていたのに。
僕は今、彼女、セラにとても感謝し、そして尊敬している。
それは僕たちを仲直りさせてくれた事もそうだし、
マイナスな気持ちしか持っていなかったはずの
彼女の話をもっと聞きたいと、思う程に僕の気持ちを変えてくれたことも。
どうやら彼女の作戦だったらしい”胡散臭い笑顔”を取っ払い、
コロコロと変わる彼女の表情をもっと見てみたいと、今はそう思う。
「フェリ王子」
それはただ話の流れに乗っただけの軽い気持ちだった。
楽しそうに笑う姉に便乗した、ただそれだけ、のはずだった。
だけど、脳裏に響く、澄んだよく通る声に自然と口角が上がる。
まあ、彼女が僕をそう呼ぶのが
当たり前になる、そんな日々も、悪くないかな。