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そこに立っていたのは、濡れた長い黒髪を背中に流した、あの少女——菅亜留々だった。
たたんだ状態の長傘を一本、スティックのように軽く手首で弄びながら、彼女は静かに店内を見渡している。その仕草一つひとつが洗練されていて、喫茶店にいた客たちの何人かが思わず息をのんで見惚れていた。
(な、なんでここに……!?)
矢吹は息を殺し、全身の血が引いていくのを感じた。つい数分前まで「雨の日の処刑人」だの「殺し屋」だのと噂していた本人が、目と鼻の先に立っているのだ。
亜留々の視線がゆっくりと店内を巡り、やがて大城と矢吹が座る奥のテーブル席でぴたりと止まった。
その美しく透き通った瞳には、感情の起伏が一切読み取れない。彼女は小さく一歩、二歩と歩みを進め、矢吹たちのテーブルの前で足を止めた。
「そこ、空いてるかしら」
鈴の鳴るような、驚くほど透明感のある声だった。
大城はサングラスの奥の目を細め、巨躯を微動だにさせないまま、低く短い息を吐いた。
「……あいにく、先客で埋まっている。お嬢ちゃんが座るような席じゃねえな」
「そう。でも、外は急に寒くなってきたの。少し温まりたくて」
亜留々はそう言ってくすりと微笑むと、大城の拒絶をまったく意に介さず、矢吹の隣の空席にするりと腰を下ろした。
ふわりと、雨の匂いに混ざって、微かに甘い花のような香りが矢吹の鼻腔をくすぐった。あまりの距離の近さに、矢吹の心臓は破裂しそうなほど打ち鳴らされる。
亜留々は手にした長傘を壁に立てかけると、メニューも見ずに手を挙げた。
「マスター、熱い紅茶を一杯。レモンをつけて」
店内には静寂が満ちていた。大城と亜留々の間に流れる空気は、一触即発の緊張感で張り詰めている。いつでも懐から銃や刃物を引き抜けるよう、大城の手がテーブルの下で僅かに動いたのを矢吹は見逃さなかった。
だが、亜留々はどこまでも無防備に見えた。脚を組み、両手をテーブルの上で重ねて、ただ静かに紅茶が運ばれてくるのを待っている。
「……何の真似だ、亜留々」
大城が耐えかねたように、低い声で問いかけた。
「『ウロボロス』のゲームはもう始まっているはずだ。ターゲットを探さずに、こんなところで茶をしばいている余裕があるのか?」
亜留々はゆっくりと大城の方へ顔を向けた。その整いすぎた唇が、少しだけ挑発的な形に歪む。
「ターゲットなら、もう見つけたわ」
「何……?」
「でもね、ビッグ・ジョー。あなたじゃないの」
亜留々はそう言うと、首をかしげて、すぐ隣に座る矢吹の顔をじっと見つめた。
「……探していたわ。スクランブル交差点で、私の顔をあんなに間抜けな顔で見つめていた、あなたを」
矢吹の背筋に、冷や汗がドッと吹き出した。
「お、俺……!?」
「ええ。ウロボロスが提示した今日のターゲット……『街を彷徨う一般人』のコードネーム『名無しの観客』。それが、あなたよ」
大城が目を見開き、勢いよく立ち上がった。テーブルの上のコーヒーカップがカタカタと大きく揺れる。
「なんだと……!? 矢吹がターゲットだと!?」
「そう。だから、今ここで殺してもいいのだけれど……」
亜留々は運ばれてきた紅茶にレモンを浮かべると、愛らしく首を傾げて矢吹に囁いた。
「少し、お話しない? 殺される前に、最後の思い出として」




