10
「……お前、小林課長……!?」
矢吹の声が喉の奥で裏返った。
モニターの明かりに照らし出された男は、毎日オフィスで冴えない書類仕事に追われ、上司や取引先にペコペコと頭を下げていたはずの自分の直属の上司、小林だった。
「ひどい顔だな、矢吹くん」
小林はグラスのウイスキーを一口含むと、優雅な手つきでそれをサイドテーブルへ置いた。昼間の頼りない猫背は跡形もなく消え去り、その瞳には冷酷で獰猛な光が宿っている。
「どうして……あんたがこんなところに……!」
「どうして、か。……矢吹くん、君は会社での僕しか知らないからね」
小林はゆっくりと立ち上がり、スーツのネクタイを緩めた。その動きには無駄がなく、恐ろしいほどの殺気が全身から溢れ出している。
「僕のコードネームは『会社員』。ウロボロスに所属するA級アサシンの一人さ。毎日満員電車に揺られ、理不尽に頭を下げ、抑圧されたストレスを……この『仕事』で発散しているのさ!」
言うが早いか、小林の袖口から黒光りするカッターナイフ状の特殊鋼刃が飛び出した。
「死ね、矢吹くん! 君の首が僕の特別ボーナスだ!」
小林が人間離れした踏み込みで肉薄する。
「伏せろ、矢吹!」
大城が即座にマグナムを構えたが、小林は体をくの字に曲げて弾丸をかわし、大城の巨躯をいとも簡単にいなして壁へと叩きつけた。あまりの速さに大城の銃が手元から弾き飛ぶ。
「ハハハ! 巨漢もスピードがなきゃタダの的にすぎん!」
小林の刃が、硬直した矢吹の喉元へ迫る——!
ガンッ!!!
甲高い金属音が響き、火花が散った。
寸でのところで割り込んだのは、亜留々の仕込み傘だった。
「私のターゲットに手を出すな、と言ったはずよ……『会社員』」
「ククッ……『雨の日の処刑人』! お前の首も上乗せしてもらおう!」
狭い監視ルームで、亜留々と小林の絶体絶命の死闘が始まった。
小林の手数は異常だった。カッター型の刃だけでなく、社員証のストラップを絞殺用ワイヤーに変え、ボールペン型のアサルト針を正確に繰り出してくる。「会社員」の日常道具すべてが殺人兵器と化していた。
スプリンクラーの残分と壊れたモニターの火花が散る中、小林の凶刃が亜留々の肩口をかすめ、血が滲む。
「亜留々!」矢吹が叫ぶ。
だが、小林が止めを刺そうと踏み込んだその一瞬——
「足元が留守だぞ、クソ上司が!」
壁際で体勢を立て直した大城が、倒れたCDラックの重厚な鉄フレームを狂暴な力で振り抜き、小林の側頭部を捉えた!
「ガあぁぁっ!?」
体勢を崩し、宙に浮いた小林。
「終わりよ」
水滴の中を滑るように踏み込んだ亜留々が、たたんだ傘を槍のように閃かせ、小林の胸元を力強く撃ち抜いた。
ドカァン!
小林の身体は巨大なメインモニター群へ激しく叩きつけられ、ガラスの粉砕音と火花とともに床へ崩れ落ちた。
「ハァ……ハァ……っ!」
静まり返る室内。大城が荒い息を吐きながらマグナムを拾い上げ、矢吹は膝から崩れ落ちそうになるのを耐えた。
小林は血を吐きながら、痙攣する手で崩れたモニターに背を預けた。
「……カハッ……やるな……『雨の日の処刑人』……だが、無駄だ……」
矢吹は小林の胸ぐらを掴み上げた。
「話せ、小林! ウロボロスのボスは誰だ! なぜ俺を狙った!?」
小林は血に染まった歯を見せて嘲笑った。
「……ボスのコードネームは……『アルレッキーノ』だ……。矢吹……お前をターゲットに指名したのも……全部あの方だ……」
「アルレッキーノ……!?」
その名前を聞いた瞬間、それまで冷徹だった亜留々の顔色が劇的に変わった。仕込み傘を握る手が、かすかに震えている。
ガクリ、と小林の首が垂れ、完全に動かなくなった。
監視ルームに静寂が戻る。
だが、矢吹の頭の中では混乱が渦巻いていた。
「アルレッキーノ……?」
矢吹が振り返ると、亜留々は窓の外——雨に濡れる渋谷駅と、そこへ静かに滑り込んでくる山手線の明かりをじっと見つめていた。




