噂
始まりは、小さな噂だった。
魔王討伐から、数日が経った頃。
王都の外れにある小さな家で、一人の兵士が家族と夕食を囲んでいた。
兵士の名は、特別知られたものではない。
魔王討伐の旅に同行したわけでもない。
凱旋パレードの先頭に立ったわけでもない。
ただ、王都を守る兵士の一人だった。
その兵士が、何気なく口を開いた。
「そういえばな」
向かいに座る妻が顔を上げる。
「どうしたの?」
「今日、城の近くで聞いたんだが……」
兵士は少しだけ声を落とした。
「勇者様、魔王を殺してないらしい」
妻の箸が止まった。
「え?」
「魔王は死んだんじゃなくて、勇者様自身の身体に封印したんだと」
「……本当なの?」
「俺も詳しくは知らん。城の中の人間から聞いたっていう奴から聞いただけだ」
兵士自身も、確信があったわけではなかった。
ただ。
王城の周辺では、確かに妙な話が囁かれていた。
魔王を倒したはずなのに、なぜ勇者は魔王の遺体を持ち帰らなかったのか。
なぜ国王は、討伐の詳細をほとんど公表しないのか。
なぜ勇者たちは、魔王城から戻ってきたあと、すぐに王城へ呼ばれたのか。
兵士も知らない。
だからこそ、気になっていた。
妻は不安そうに尋ねる。
「じゃあ……魔王は、まだ生きてるってこと?」
「そういうことになるな」
「それ、大丈夫なの?」
「さあな」
兵士は酒を一口飲んだ。
「でも、勇者様が封印してるって話だ。だから今は問題ないんだろう」
そこまでが、兵士が知っていた話だった。
そして。
それ以上のことを、彼は知らなかった。
翌朝。
その兵士の妻は、近所に住む女友達と顔を合わせた。
世間話の途中だった。
「そういえばね」
妻は昨日の話を思い出した。
「うちの人から聞いたんだけど、勇者様って魔王を殺してないらしいの」
「え?」
女友達が目を丸くする。
「魔王を倒したんじゃないの?」
「私もそう思ってたんだけどね。どうも違うみたい」
「じゃあ、どうしたの?」
「勇者様自身の身体に、魔王を封印したんですって」
「……勇者様の身体に?」
「そうらしいの」
そこまでは、まだ大きく間違ってはいなかった。
しかし。
女友達は、その話を聞いたとき、一つだけ別の疑問を抱いた。
「でも……どうしてそんなことをするの?」
「さあ……」
二人は顔を見合わせる。
理由は知らない。
ただ、「魔王を自分の身体に封印した」という事実だけが残った。
そして、その事実に「なぜ」という疑問が加わった。
その日の昼。
女友達は、近所の別の家でその話をした。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「勇者様の話」
「魔王を倒したって話?」
「それがね、倒してないらしいの」
「え?」
「魔王を自分の身体に封印したんですって」
「……それじゃあ、勇者様の中に魔王がいるってこと?」
「そういうことじゃない?」
最初の話にはなかった言葉が、ここで生まれた。
――勇者の中に魔王がいる。
さらに、その家の者が別の家へ。
その家の者が、また別の人間へ。
誰かが話を聞くたびに、少しずつ言葉が変わっていった。
「勇者の身体に魔王を封印したらしい」
それが。
「勇者の中に魔王がいるらしい」
になり。
やがて。
「勇者は魔王を自分の中に飼っているらしい」
という話になった。
数日後。
王都の酒場。
仕事を終えた男たちが酒を飲みながら、くだらない世間話をしていた。
そこへ、一人の客が入ってくる。
男は席につくなり、隣の客へ声を潜めた。
「なあ、知ってるか?」
「何を?」
「勇者様の話だよ」
「また勇者様か。今度は何だ?」
「勇者様、魔王を殺してないらしいぞ」
隣の客が眉をひそめる。
「……え?」
「自分の身体に封印したんだってさ」
「じゃあ、魔王はまだ生きてるのか?」
「そういうことになるな」
「それ、大丈夫なのかよ」
「さあな」
男は酒を飲んだ。
「でも、もっと妙な話もあるらしいぞ」
「何だ?」
「勇者は、魔王の力を使ってるんだってさ」
「魔王の力を?」
「身体の中に封印してるんだろ? だったら使えるんじゃないかって」
もちろん。
そんな話を裏付けるものはなかった。
ただ。
誰かが口にした憶測だった。
しかし、その場にいた別の男が口を挟んだ。
「それなら、魔王を殺さなかった理由も分かるな」
「どういう意味だ?」
「自分で利用するためだよ」
一瞬。
酒場の空気が止まった。
誰も、それを否定しなかった。
それから、話はさらに広がった。
誰かが言った。
「勇者は魔王の力を使っているらしい」
別の誰かが言った。
「勇者は魔王を従えているらしい」
そして。
「勇者は、最初から魔王と通じていたんじゃないか」
そんな言葉まで出始めた。
もちろん。
その噂を聞いた者の中には、笑い飛ばす者もいた。
「馬鹿馬鹿しい。勇者様がそんなことするわけないだろ」
「そうだよな」
「魔王を倒した英雄だぞ」
そう言って酒を飲み、話を終わらせる者もいた。
だが。
噂というものは、信じる人間だけが広げるわけではない。
「俺は信じてないけどな」
「でも、そういう話があるらしいぞ」
「念のため、覚えておいたほうがいいんじゃないか」
そんな言葉でも、人から人へ渡っていく。
そして。
その途中で、また別の話が混ざった。
旅の途中。
ジャムルが魔人を助けた。
そんな話だった。
それ自体は、本当だった。
魔王討伐の旅の途中。
四人が街道を進んでいたときのことだった。
道の脇に、一人の魔人が倒れていた。
身体には深い傷があり、衣服は血で赤く染まっている。
呼吸も弱い。
カオルが足を止めた。
「……ジャムル」
ジャムルも魔人へ視線を向ける。
カオルは警戒するように周囲を見回した。
「危険よ」
リュウも険しい顔をする。
「魔人だぞ」
ミツヒロも立ち止まり、首を横に振った。
「放っておこう」
それが、旅を続ける上では正しい判断だったのかもしれない。
魔人は敵だ。
少なくとも、人間の多くはそう考えている。
助ける理由などない。
しかし。
ジャムルは黙って魔人へ近づいた。
「ジャムル!」
カオルが呼び止める。
だが。
ジャムルは振り返らなかった。
傷ついた魔人の前にしゃがみ込む。
そして、傷口を確かめた。
「……ひどいな」
ジャムルは持っていた道具を取り出し、傷の手当てを始めた。
カオルたちは止めようとした。
だが、ジャムルは淡々と治療を続けた。
傷を治す。
水を与える。
食料を分ける。
そして、魔人が一人でも安全に休める場所まで運んだ。
やがて。
魔人が弱々しく目を開けた。
赤い瞳が、ジャムルを見つめる。
「なぜ……我を助ける」
ジャムルは首を傾げた。
「怪我してるから」
魔人は言葉を失った。
しばらくして、もう一度尋ねる。
「我は魔人だぞ」
ジャムルは、魔人の顔を見た。
それから。
本当に分からないという顔で答えた。
「それがどうした」
魔人は答えられなかった。
ジャムルにとっては、それだけのことだった。
目の前に怪我をしている者がいた。
だから助けた。
それ以上でも、それ以下でもない。
ジャムルは立ち上がった。
「じゃあな」
そう言って、仲間たちのところへ戻っていった。
その出来事も。
当時は、ただの小さな出来事だった。
しかし。
後になって。
その話が噂に混ざった。
「勇者は魔人を助けたらしいぞ」
「魔人を?」
「傷ついて倒れていた魔人を、治療して食料まで分けたらしい」
「どうして?」
「さあな」
そこへ、別の噂が重なる。
「勇者は魔王を自分の中に封印したらしい」
「魔王の力を使っているらしい」
「魔人とも通じているらしい」
それらが一つの話として繋がり始めた。
やがて。
誰かが言った。
「勇者は、魔族側の人間なんじゃないか?」
別の誰かが答える。
「そう考えると、全部説明がつくな」
説明など、ついてはいなかった。
ただ。
点と点を勝手に繋いだだけだった。
けれど、人は一度筋道ができると、それを信じやすい。
魔王を殺していない。
魔王を身体に封印している。
魔王の力を使っている。
魔人を助けた。
だから。
「勇者は魔族と通じている」
という話が、まるで最初から決まっていた事実のように語られるようになった。
そして。
噂は、さらに姿を変えていく。
「勇者は魔人を助けた」
それが。
「勇者は魔人と仲間だった」
になり。
「勇者は魔王とも繋がっている」
になり。
「魔王を倒したんじゃない」
になり。
「魔王を自分の中に封印したのも、力を手に入れるためだったんじゃないか」
という話にまで変わった。
最初にその話を聞いた者は、眉をひそめた。
「そんなわけないだろ」
そう思った。
だが。
その男が家に帰り、妻に話す。
妻は隣人に話す。
隣人は友人に話す。
友人は酒場で話す。
酒場で聞いた男が、別の酒場で話す。
誰かが、少しだけ言葉を足す。
誰かが、少しだけ都合よく解釈する。
誰かが、不安そうに問いかける。
「もし、本当だったら?」
その一言が。
また別の人間の心に残る。
噂は、もう誰が最初に口にしたのか分からなくなっていた。
王都のあちこちで、違う形をして囁かれている。
「勇者は危険だ」
「魔王が中にいる」
「魔王の力を使っている」
「魔人と通じている」
「本当に、あの男は俺たちの味方なのか?」
かつて。
人々はジャムルを英雄と呼んだ。
花を投げた。
笑顔で手を振った。
子供たちは、その名を叫んだ。
だが。
今、その同じ人々の中に。
小さな疑念が生まれ始めていた。
噂は、不安になった。
不安は、恐怖になった。
そして。
恐怖は。
やがて、悪意へと変わった。




