報告
魔王城を出てから、数時間が経っていた。
空はすでに夜の色へ変わり始めている。
遠くの山々が黒い影となって連なり、その向こうには薄紫色の空が残っていた。
四人は馬車に揺られながら、ノンマルト王国へ戻っていた。
誰も、ほとんど口を開かなかった。
疲れていた。
肉体的な疲労だけではない。
長い旅、魔界での常に気を張った生活。
魔族、魔獣との戦闘。
魔王ブルーメとの戦い。
そして。
その魔王を殺さず、ジャムル自身の身体へ封じたという事実。
それを、まだ四人とも完全には受け止めきれていなかった。
馬車の小さな窓から、カオルが外を眺めている。
夜の街道を、月明かりが照らしていた。
「……本当に、大丈夫なの?」
カオルが小さく尋ねた。
向かい側に座っていたジャムルが顔を上げる。
「何が?」
「だから……」
カオルの視線が、ジャムルの胸元へ向かう。
服の下。
そこには、黒い紋様が刻まれている。
魔王ブルーメを封じた証。
ジャムルは、その視線に気づいた。
「大丈夫だよ」
「……本当に?」
「うん」
ジャムルは胸元を軽く叩いた。
「ちゃんといる」
「いるって……」
カオルが嫌そうな顔をする。
ジャムルは苦笑した。
「ブルーメが…」
「……」
その名前を聞いた瞬間。
馬車の中に、妙な沈黙が落ちた。
リュウは窓の外を見たまま、口を開かなかった。
ミツヒロも黙っている。
誰もが意識してしまう。
自分たちの仲間の中に。
世界を滅ぼしかけた魔王がいる。
それでも。
ジャムルは笑っていた。
「まあ、今のところ何もない」
「今のところって言った……」
「細かいことは気にするな」
「気にするわよ!」
カオルが声を上げる。
ジャムルは少しだけ笑った。
その様子を見て。
リュウがようやく口を開いた。
「……お前、本当に変わらないな」
「何が?」
「こんな状況なのに、いつも通りだ」
「いつも通りじゃないと困るだろ」
ジャムルは窓の外を見た。
遠くに、小さな明かりが見える。
ノンマルト王国。
自分たちが帰る場所。
「帰るんだから」
その言葉に。
カオルは何も返さなかった。
やがて。
馬車は王都へ入った。
夜の王都には、まだ多くの明かりが灯っていた。
街の人々は、魔王討伐の知らせをすでに受け取っていたらしい。
通りには兵士たちが並び、城へ続く道が開けられている。
四人が馬車から降りると、待っていた兵士たちが一斉に頭を下げた。
「勇者様、お帰りなさいませ!」
その声に。
ジャムルは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……ただいま」
それだけ答える。
兵士たちは深く頭を下げた。
誰もが笑っている。
魔王が倒された。
その知らせが、すでに王都中へ広がっているのだろう。
誰もが信じていた。
長い戦いが終わったのだと。
誰もが思っていた。
これで、平和になったのだと。
しかし。
ジャムルだけは知っていた。
本当の意味では。
まだ何も終わっていない。
王城の大広間。
高い天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、壁には歴代の国王を描いた肖像画が並んでいる。
赤い絨毯の先。
その最奥に、ノンマルト王国の国王が立っていた。
本来ならば、玉座に座っているはずの王だった。
しかし。
四人が大広間へ入ってきた瞬間。
国王は自ら玉座を立った。
そして。
ゆっくりと四人を見つめる。
最初に目に入ったのは、傷だらけの姿だった。
破れた服。
汚れた鎧。
包帯。
血の跡。
それでも。
四人は立っていた。
国王の顔に、深い安堵が浮かぶ。
「よくぞ戻った」
声が少し震えていた。
「勇者ジャムル」
ジャムルは国王の前まで歩く。
そして。
深く頭を下げた。
「ただいま戻りました」
その言葉に。
国王は一瞬だけ目を閉じた。
「……よくやった」
長い戦いだった。
何人もの兵士を失った。
いくつもの町が焼かれた。
多くの民が故郷を失った。
それでも。
今日。
魔王を討った勇者が帰ってきた。
国王にとって、それは何よりも嬉しい報告だった。
「魔王は?」
国王が尋ねる。
その一言で。
ジャムルの表情が少しだけ変わった。
ほんの僅かだった。
けれど。
仲間たちは気づいた。
カオルがジャムルを見る。
リュウも。
ミツヒロも。
ジャムルは一度だけ息を吸った。
そして。
「俺の中に封印しました」
国王の表情が固まった。
「……何?」
広間にいた側近たちもざわめく。
国王は聞き間違いではないかとでもいうように、ジャムルを見つめた。
「今、何と言った?」
ジャムルはもう一度、はっきりと答える。
「魔王ブルーメは、俺の身体に封印しました」
「……」
誰も声を出さなかった。
国王の視線が、ジャムルの胸元へ向かう。
そこには服越しにも分かるほど、僅かに黒い紋様が浮かんでいる。
国王が一歩近づく。
「殺したのではないのか?」
「はい」
「なぜだ」
その問いに。
カオルが口を開いた。
「魔王は、完全には殺せないそうです」
国王がカオルを見る。
カオルは魔王城で聞いたブルーメの言葉を、一つずつ説明した。
「人間の恐怖や悪意から生まれる存在だから……人間がいる限り、何度でも復活するって」
リュウが続ける。
「魔王を殺せば終わるんじゃない」
「……」
「人間が魔王を恐れれば恐れるほど、また蘇るらしい」
ミツヒロも静かに頷いた。
「だから、ジャムルが自分の身体に封じました」
国王は何も言わなかった。
ただ、ジャムルを見つめている。
やがて。
「おぬしは……」
国王の声が低くなる。
「それでいいのか」
「はい」
即答だった。
「まことにか?」
「はい」
「おぬしは、自分の身体の中に魔王を封じたのだぞ」
「分かっています」
「魔王が何をするかも分からん」
「それも分かっています」
「それでもか」
ジャムルは頷いた。
「それでもです」
国王は黙り込んだ。
しばらくの間。
広間には、誰一人として口を開く者はいなかった。
やがて。
国王が尋ねた。
「おぬしが死ねば」
その言葉に。
ジャムルの表情が僅かに曇る。
「魔王も復活するのだな」
「はい」
国王は目を伏せた。
「……そうか」
その一言だけだった。
けれど。
その顔からは、先ほどまでの喜びが消えていた。
魔王を討伐した。
そう思っていた。
ようやく終わった。
そう思っていた。
だが。
終わってなどいなかった。
魔王は今。
勇者の身体の中にいる。
そして。
勇者が死んだ瞬間。
魔王は再び、この世界へ現れる。
国王は玉座へ戻らず、その場に立ったまま考え込んでいた。
やがて。
ジャムルが静かに口を開く。
「だからこそ」
国王が顔を上げる。
「お願いがあります」
ジャムルは国王の前へ歩み寄った。
そして。
深く頭を下げた。
「俺が生きている間に、ノンマルトを立て直してください」
国王は黙っている。
「……」
「魔王との戦いで、国は大きく傷ついています」
ジャムルは続けた。
「街も」
「兵士も」
「人々の生活も」
「全部、元に戻す必要があります」
国王はゆっくりと頷いた。
「分かっておる」
「それだけじゃありません」
ジャムルが顔を上げる。
「兵士を育ててください」
「……」
「魔王と戦える人間を育ててください」
国王の目が細くなる。
「そして」
ジャムルは一度だけ息を吸った。
「次の勇者を」
その言葉に。
国王の眉が動いた。
「次の勇者……」
「はい」
「もう次の話をするのか」
国王の声には、僅かな戸惑いがあった。
今。
目の前にいる勇者が帰ってきたばかりなのだ。
普通なら。
祝福し。
傷を癒やし。
褒美を与え。
これから始まる平和な時代について話すところだった。
それなのに、ジャムルは自分の死後の話をしている。
「俺が死んだ時」
ジャムルは静かに言った。
「すぐに魔王と戦えるように」
国王はジャムルを見つめる。
「その時まで、俺が魔王を抑えます」
「……」
「だから」
ジャムルは頭を下げた。
「それまでに、準備をしてください」
国王は長い沈黙の中にいた。
窓の外では、夜の王都が静かに広がっている。
街灯が点々と並び、人々の暮らす家々から明かりが漏れている。
魔王が倒されたと知って。
今頃、王都では多くの人間が喜んでいるだろう。
家族と抱き合っている者もいる。
酒場で祝杯を上げている者もいる。
明日からは、もう魔王を恐れなくていい。
そう信じている者もいるだろう。
その平和を。
この男は自分の命を使って維持しようとしている。
国王は、ゆっくりと目を閉じた。
そして。
「分かった」
短い言葉だった。
しかし。
その声には、国王としての決意が込められていた。
「おぬしが生きている間に、国を立て直そう」
ジャムルが顔を上げる。
「ありがとうございます」
「兵士も育てる」
「はい」
「魔王と戦える者も育てよう」
「お願いします」
「そして」
国王は一度、言葉を切った。
「次の勇者を探す」
ジャムルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
国王はそんなジャムルをしばらく見つめていた。
そして。
ふと。
あることに気づいた。
「……このことは」
国王の声が低くなる。
「民には知らせない」
ジャムルが顔を上げる。
「魔王が勇者の身体の中にいることは、伏せる」
「はい」
「理由は分かるな?」
「分かります」
ジャムルは苦笑した。
「魔王が勇者の中にいるなんて知れば、皆が怖がりますから」
「そうだ」
国王は頷いた。
「魔王を倒した勇者が、魔王を宿している」
その事実だけが広まれば。
人々はどう思うだろう。
勇者を信じる者もいるだろう。
しかし。
恐れる者もいる。
疑う者もいる。
そして。
恐怖というものは。
一度広がれば、止めることが難しい。
それは。
魔王ブルーメ自身が語ったことでもある。
人間の恐怖。
不安。
疑念。
憎悪。
それらが、魔王を生み出す。
だからこそ。
秘密にする必要がある。
国王は側近たちへ向き直った。
「この件について知っている者は?」
側近たちが顔を見合わせる。
「ここにいる者だけです」
「ならば」
国王は厳しい声で命じた。
「決して口外するな」
「はっ」
側近たちが一斉に頭を下げる。
ジャムルは、その様子を見ながら胸元へ手を当てた。
黒い紋様。
その奥。
そこには。
魔王がいる。
今も。
おそらく。
こちらの様子を見ている。
ジャムルは心の中で、小さく呟いた。
――静かにしてろよ。
すると。
ほんの僅かに。
胸の奥から声がした。
『……ふふ』
ジャムルの眉が動く。
けれど。
誰にも聞こえない。
ブルーメの声は。
ジャムルの中だけに響いていた。
国王が尋ねる。
「どうした?」
「いえ」
ジャムルは胸元から手を離した。
「何でもありません」
そして。
いつものように笑った。
その笑顔を見て。
国王は少しだけ安心した。
この男なら。
大丈夫なのかもしれない。
そう思った。
しかし。
その判断が正しかったのか。
その時の国王には分からなかった。
王城の外では。
魔王討伐の知らせを聞いた人々が、喜びの声を上げていた。
街のあちこちで灯りがともり。
酒場では祝杯が上がり。
子どもたちは「勇者が魔王を倒した」と笑っている。
誰もが。
平和が戻ったと思っていた。
その平和の中心に。
魔王を宿した勇者がいることも知らずに。
そして。
その秘密が。
人々の恐怖を生み出すことになるのも。
まだ誰も知らなかった。
国王が願ったように。
この秘密は、守られるはずだった。
少なくとも。
そのはずだった。




