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魔王討伐

「――終わりだ、ブルーメ」


ジャムルは、血に濡れた剣を構えた。


剣先から、赤い雫が一滴、また一滴と落ちていく。


その音だけが、崩壊した魔王城の最奥に妙にはっきりと響いていた。


かつては巨大な玉座の間だったのだろう。


天井は半ば崩れ落ち、石造りの柱は何本も途中から折れている。壁には大きな亀裂が走り、砕けた装飾や瓦礫が床一面に散らばっていた。


窓だった場所からは、夕暮れの空が見えている。


燃えるような赤い光が、崩れた城壁の隙間から差し込んでいた。


その光は、床に広がった血溜まりを赤黒く染め、砕けた石の一つ一つに長い影を落としている。


戦いは、すでに何十時間も続いていた。


ジャムルの鎧には無数の傷が刻まれている。


肩から胸元にかけて裂けた鎧の隙間からは血が流れ、額にも深い切り傷が走っていた。


握った剣も、何度も魔王の身体を斬りつけたせいで刃が欠けている。


それでも。


ジャムルは倒れなかった。


その背後には、三人の仲間がいた。


カオル。


リュウ。


ミツヒロ。


カオルは杖を握りしめたまま、荒い息を吐いていた。


長い旅の中で何度も傷ついた身体には、包帯がいくつも巻かれている。


それでも、その瞳だけはジャムルから離れない。


リュウは折れかけた盾を片手に持ち、もう片方の手で短槍を握っていた。


肩で息をしながらも、いつでも飛び出せるように身体を低くしている。


ミツヒロは少し離れた場所で、傷ついた仲間たちを支えるための道具を並べていた。


彼もまた、疲労で顔色を失っている。


四人とも限界だった。


何度も死にかけた。


何度も撤退を考えた。


それでも、ここまで来た。


魔王を倒すために。


そして今。


ようやく、その魔王を追い詰めた。


崩れ落ちた玉座の前。


その中心に、一人の女が立っていた。


長い黒髪が、夕暮れの風に揺れている。


白い肌には、無数の傷が刻まれていた。


肩から流れた血が細い腕を伝い、指先から床へ落ちている。


額からは、二本の黒い角が伸びていた。


そして。


人間ではあり得ないほど鮮やかな、血のように赤い瞳。


魔王ブルーメ。


これまで幾つもの国を滅ぼし、数え切れないほどの人間を殺してきた魔族の王。


人間たちが何十年もの間、恐れ続けてきた存在。


その姿だけを見れば、今にも倒れそうなほど傷ついている。


しかし、ブルーメは笑っていた。


まるで、この状況そのものを楽しんでいるかのように。


「終わり?」


その声には、苦痛など微塵も感じられなかった。


ブルーメが赤い瞳を細める。


「そうだ」


ジャムルは剣を構えたまま答えた。


声は疲れていた。


それでも、揺らいではいなかった。


「本当にそう思っているの?」


「思っているんじゃない」


ジャムルは一歩だけ前へ出た。


靴底が砕けた石を踏み、乾いた音を立てる。


「終わらせるんだ」


ブルーメはしばらくジャムルを見つめていた。


そして。


小さく息を吐いた。


「人間というのは、本当に愚かね」


その言葉に、リュウが眉をひそめる。


「……何だと?」


ブルーメは答えず、ジャムルの背後にいる三人へ視線を移した。


カオル。


リュウ。


ミツヒロ。


それぞれの顔を順番に眺める。


まるで、これから起こることを知っているかのような目だった。


「私を殺せば、すべてが終わると思っている」


ジャムルの眉がわずかに動く。


「違うのか?」


「違うわ」


ブルーメが両手を広げる。


すると。


彼女の足元から、黒い霧がゆっくりと立ち上った。


霧は床を這うように広がり、砕けた石を覆っていく。


その黒い霧の中から、微かに声が聞こえた。


泣き声。


怒鳴り声。


怯える声。


憎しみに満ちた声。


それらが幾重にも重なり合い、意味の分からないざわめきとなって魔王城の中へ広がっていく。


カオルが息を呑んだ。


「……何、これ」


ブルーメは自分の胸へ指先を当てた。


「魔王は一人」


赤い瞳がジャムルを捉える。


「だから、その一人を殺せば平和になる」


「……」


「そう思っているのでしょう?」


ジャムルは黙っていた。


ブルーメは微笑む。


「でもね」


その声が、静かに響いた。


「私は、人間の悪意から生まれる」


カオルの顔から血の気が引いた。


「悪意……?」


「恐怖」


ブルーメが指を一本立てる。


「不安」


二本目。


「憎悪」


三本目。


「嫉妬」


四本目。


「疑念」


五本目。


その指を、自分の胸へ向ける。


「そういうものが積み重なって、私というものは生まれる」


黒い霧が、ブルーメの身体を包んでいく。


「人間が人間である限り、それらは消えない」


ジャムルは剣を握り直した。


「だから、何度でも蘇るというのか」


「ええ」


ブルーメは嬉しそうに答えた。


「殺しなさい、勇者」


その言葉に、ジャムルの目が細くなる。


「……」


「私を殺せばいい」


ブルーメが両腕を広げる。


「あなたの剣で、この身体を切り裂いて」


「……」


「首を落としてもいい」


「……」


「心臓を貫いてもいい」


ブルーメは笑った。


「どんな方法で殺しても、私はいつか戻ってくる」


ジャムルは答えない。


「そして」


ブルーメの笑みが深くなる。


「人間たちが私を恐れれば恐れるほど」


黒い霧が、彼女の足元からさらに濃くなっていく。


「憎めば憎むほど」


赤い瞳が細くなる。


「私は、もっと強くなって帰ってくる」


「……何度でも?」


「何度でも」


その返事には、一切の迷いがなかった。


「何十年後でも」


ブルーメが一歩、前へ出る。


「何百年後でも」


さらに一歩。


「何千年後でも」


「はたまた明日にでも」


ジャムルとの距離が縮まる。


「あなたたちは、また私を殺しに来る」


ブルーメは笑った。


「私を殺し」


「……」


「私を恐れ」


「……」


「私を憎み」


その言葉の一つ一つが、静かに胸へ突き刺さってくる。


「その感情によって、また私を蘇らせる」


誰も何も言わなかった。


風が、崩れた城の中を吹き抜ける。


瓦礫の上に積もった灰が舞い上がり、夕暮れの光の中をゆっくりと流れていく。


ジャムルはしばらくブルーメを見つめていた。


やがて。


握っていた剣を、ゆっくりと下ろした。


「ジャムル?」


カオルが不安そうに呼びかける。


ジャムルは答えない。


剣先が床へ向く。


そのまま、じっとブルーメを見つめていた。


カオルが一歩近づく。


「どうしたの?」


ジャムルは答えなかった。


ただ。


何かを考えている。


長い旅の中で、何度も見たことのある顔だった。


無茶をする時の顔。


何かを決めた時の顔。


そして。


誰かを守ると決めた時の顔。


リュウが嫌な予感を覚えた。


「おい、ジャムル」


それでもジャムルは動かない。


やがて。


静かに口を開いた。


「なら」


三人が息を止める。


「殺さなければいい」


ブルーメの笑みが止まった。


「……何?」


ジャムルは自分の胸に手を当てた。


「俺の中に封じる」


「待って!」


真っ先に声を上げたのはカオルだった。


彼女はジャムルのところまで駆け寄る。


「ジャムル、それじゃあ……!」


「分かってる」


「分かってない!」


カオルはジャムルの胸元を掴んだ。


「魔王を自分の身体に封印したら、あなたはどうなるの!」


「どうにもならない」


「嘘!」


カオルの声が震える。


「そんなの、分からないでしょう!」


「少なくとも」


ジャムルはカオルをまっすぐ見つめた。


「俺が生きている間は、ブルーメは復活しない」


「だったら……」


カオルの言葉が止まる。


聞きたくない。


けれど。


聞かなければならない。


「あなたが死んだら?」


その瞬間。


ジャムルは黙った。


ほんの数秒だった。


けれど、その沈黙は三人にとってあまりにも長く感じられた。


やがて。


ジャムルは答えた。


「その時は、ブルーメも復活する」


リュウが目を見開いた。


「お前……」


ミツヒロも言葉を失う。


ジャムルは、そんな二人を見た。


そして、静かに続ける。


「だから、それまでに準備する」


「準備って……」


「国を立て直す」


ジャムルの声には、迷いがなかった。


「戦える人間を育てる」


リュウが何かを言おうとした。


しかし、ジャムルは続ける。


「魔王と戦える兵士を増やす」


「……」


「そして、次の勇者を育てる」


その言葉に、カオルの顔が歪んだ。


「次の……勇者」


「ああ」


ジャムルは床に剣を置いた。


金属が石床に触れ、乾いた音が響く。


「俺が死んだ時、次の勇者がブルーメを倒せるようにする」


「そんな……」


カオルが首を振った。


「それじゃあ、あなたは……」


ジャムルは少しだけ笑った。


「大丈夫だ」


「何が大丈夫なのよ……」


「死ぬまで時間はある」


その言葉は、あまりにも穏やかだった。


まるで。


自分の死を、遠い未来の出来事として話しているように。


けれど、カオルには分かっていた。


これは未来の話ではない。


今この瞬間から、ジャムルは自分の死を背負って生きることになる。


「でも……」


カオルが言葉を絞り出す。


「そんなの……」


ジャムルは三人に背を向けた。


崩れた魔王城の奥。


赤く染まった空を見上げる。


「それに」


そして。


振り返らずに言った。


「俺が生きている間は、平和なんだ」


その言葉に。


誰も反論できなかった。


ブルーメだけが、静かに笑っていた。


「……正気?」


ジャムルが振り返る。


「さあな」


「私を身体の中に封印する気?」


「そうだ」


「私があなたの身体を蝕むかもしれない」


「寿命を吸い取るかもしれない」


「その時は、次の勇者に任せる」


あまりにもあっさりと答えるジャムルに、ブルーメは目を細めた。


先ほどまでの余裕のある笑みが、ほんの少しだけ薄れる。


「あなたは」


ブルーメが低く呟いた。


「自分の命を何だと思っているの?」


ジャムルは少し考えた。


そして。


「大事なものだと思ってる」


意外な答えだった。


カオルが顔を上げる。


ジャムルは続けた。


「だから、無駄にはしたくない」


自分の胸へ手を置く。


「俺一人が死ぬだけで、何人もの人間が助かるなら」


ジャムルは笑った。


「使い道はあるだろ」


カオルの瞳が揺れた。


「……馬鹿」


小さな声だった。


ジャムルには届かなかったのか。


あるいは、届いていて聞こえないふりをしたのか。


何も言わなかった。


ブルーメは、そんなジャムルをじっと見つめていた。


やがて。


「……愚かな男」


そう呟く。


ジャムルは肩をすくめた。


「よく言われる」


「後悔するわよ」


「その時は、その時だ」


「私があなたの中にいる限り、あなたは私と共に生きることになる」


「そうだな」


「眠っている時も」


「……」


「一人になった時も」


「……」


「死ぬ、その瞬間まで」


ブルーメの声が、少しずつ低くなる。


「私から逃げられない」


ジャムルは答えなかった。


ただ。


ブルーメをまっすぐ見つめた。


その目には恐怖があった。


決して、恐怖がないわけではない。


死ぬことが怖くないわけでもない。


それでも。


目の前にいる仲間たちを見る。


傷だらけのカオル。


槍を握りしめたリュウ。


静かにこちらを見つめるミツヒロ。


ここまで一緒に戦ってきた仲間たち。


そして。


その背後にある、自分たちが帰るべき国。


ジャムルはゆっくりと息を吐いた。


「来い、ブルーメ」


ブルーメの赤い瞳が細くなる。


「……本当にいいのね?」


「ああ」


「後悔しても知らないわよ」


「その時は、その時だ」


ジャムルが両手を広げる。


「封印!」


その瞬間だった。


ブルーメの身体から、黒い光が溢れ出した。


それは炎のようでもあり、煙のようでもあった。


黒い光の中には、無数の顔が浮かんでいるようにも見えた。


泣いている者。


怒っている者。


怯えている者。


憎しみに歪んだ者。


それらが一瞬だけ現れては消え、再び黒い光へ溶け込んでいく。


魔王そのものを形作っていた、人間たちの負の感情。


それが一斉にジャムルへ向かって流れ込んでいく。


「――っ!」


ジャムルの身体が大きく震えた。


「ジャムル!」


カオルが駆け寄ろうとする。


しかし。


リュウが腕を掴んだ。


「待て!」


「でも!」


「くるなっ!」


ジャムルの周囲で黒い光が渦巻いている。


その勢いは凄まじく、近づくだけで吹き飛ばされそうだった。


ジャムルは歯を食いしばった。


「――ぐっ……!」


胸の奥が焼けるように熱い。


次の瞬間。


胸元に、黒い紋様が浮かび上がった。


心臓の上から広がるように、細い線が皮膚を這っていく。


まるで生き物のように。


カオルが叫んだ。


「ジャムル!」


「大丈夫……!」


ジャムルは声を絞り出した。


「まだ……大丈夫だ!」


黒い光が身体の中へ流れ込んでいく。


視界が歪む。


耳鳴りがする。


その奥で。


女の声が聞こえた。


『後悔するわよ』


ブルーメの声だった。


ジャムルは目を閉じた。


「その時は……」


歯を食いしばる。


「その時だ……!」


最後の黒い光が、ジャムルの身体へ吸い込まれた。


――静寂。


あれほど荒れ狂っていた魔力が、嘘のように消えた。


崩れた魔王城に。


再び、夕暮れの風が吹き込む。


灰が舞い。


髪が揺れる。


ジャムルは、その場に立っていた。


胸元には、黒い紋様が残っている。


それ以外に、大きな変化はない。


しかし。


ジャムルの表情は、ほんの少しだけ険しかった。


自分の胸へ手を当てる。


そこにいる。


確かにいる。


自分とは違う、もう一つの存在。


カオルが恐る恐る近づいてくる。


「ジャムル……?」


「ああ……」


「大丈夫?」


ジャムルはゆっくりと顔を上げた。


「ああ」


そして。


小さく笑った。


「大丈夫だ」


カオルはジャムルの顔をじっと見つめる。


「本当に?」


「本当だ」


「無理してない?」


「してない」


「本当に?」


「本当だって」


ジャムルは苦笑した。


その笑顔は、いつものジャムルと変わらなかった。


リュウが大きく息を吐く。


「……心配させやがって」


ミツヒロも、ようやく肩の力を抜いた。


「終わった……のか?」


「ああ」


ジャムルは振り返る。


崩れ落ちた魔王城。


血に染まった床。


砕けた玉座。


そして。


夕暮れの向こうに広がる空。


長かった。


本当に長い戦いだった。


それでも。


ようやく終わった。


ジャムルは仲間たちへ振り返った。


そして。


笑った。


「終わった」


その言葉に。


三人も、ようやく笑った。


誰も知らなかった。


この日。


世界を救った勇者が。


世界で最も恐ろしい魔王を、その身に宿したことを。


そして。


この日から始まった平和が。


決して永遠ではないことを。

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