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異世界交差点の小料理屋〜10年修行した女板前は、今日も日本の裏口から仕入れた食材で疲れた異世界人の胃袋と心を癒やします〜  作者: タカノ


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第8話:裏口の酒屋配達員と、怪しい外国人客

静寂に包まれた午後二時。開店準備前の『小料理屋 結(むすび)』の厨房で、店主である栞(しおり)は大型業務用冷蔵庫の扉を開け放ち、呆然と立ち尽くしていた。

冷気が白く足元に流れ落ちていく中、彼女の視線の先にあるのは、見事なまでにもぬけの殻となった酒類のストック棚だった。


「……嘘でしょ。昨日あんなに補充したのに」


栞はこめかみを押さえ、深々と溜息を吐いた。

一升瓶で仕入れていた純米酒は、最後の一滴まで絞り出されたかのように空っぽ。冷酒用に取っておいた吟醸酒の四合瓶も全滅。そして何より栞を戦慄させたのは、冷蔵庫の横に鎮座するビールサーバーに繋がれた、二十リットル入りの巨大な生樽(ケグ)が、持ち上げてみると羽のように軽くなっていたことだ。

犯人は明確である。

日々の激務から逃れるように毎晩やってきては、熱燗を水のように呷る王都警備隊長のバルトルト。そして、キンキンに冷えた生ビールの魔力に取り憑かれ、枝豆と唐揚げを相棒にして文字通り樽を飲み干す勢いで痛飲していく百五十歳のドワーフ、ドラン。さらには、彼らの美味そうな飲みっぷりにつられて、少しずつ酒の味を覚え始めた新米魔法使いのミレイユまでいる。

わずかカウンター十席の小さな小料理屋で消費されるアルコールの量として、これは明らかに物理法則を無視していた。彼らの肝臓は一体どういう構造をしているのか。異世界人特有の頑丈さなのか、それとも魔法の力なのか。


「とにかく、このままじゃ今日の営業ができない……」


栞は慌てて割烹着のポケットからスマートフォンを取り出し、裏口の向こう側――つまり、日本の現実世界にある取引先の酒販店へと発注の電話をかけた。


それから約一時間後。

店の奥にある鉄製の勝手口の向こう側から、聞き慣れた二トントラックのアイドリング音と、荷台のゲートを下ろす金属音が聞こえてきた。


「ちわーっす! 毎度おなじみ、町の酒屋『リカーショップサトウ』の配達でーす!」


鉄扉がガチャリと開き、日本のうだるような午後の熱気と共に、一人の青年が姿を現した。

首にタオルを巻き、酒屋のロゴが入った前掛けを締めた三十歳の配達員、浩太(こうた)である。彼は台車に山のように積まれたビール樽と一升瓶のケースを押し込みながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。


「いらっしゃい、浩太さん。急な追加発注でごめんなさいね。助かりました」

「いやいや、まいどありっす! ……って言いたいところなんすけど」


浩太は台車から二十リットルの重たいビール樽をよっこいしょと下ろし、厨房の隅に置きながら、怪訝そうな顔で栞を見た。

「栞ちゃんさ、うちとしては大口の注文でめちゃくちゃありがたいんだけど……ここ数日の注文量、ちょっと異常じゃない? この店、カウンター十席しかないよね? 昨日もビール樽二本と一升瓶五本納品したはずなんだけど……もしかして、裏で居酒屋もう一軒経営してたりする?」

「えっ!? あ、あははは! まさかぁ。お客さんが、ちょっと、ね? よく飲む人が多いっていうか……」


栞は引きつった笑顔を浮かべながら、必死に誤魔化した。

まさか『異世界のドワーフと騎士が毎晩樽を空にしているんです』などと言えるわけがない。言った瞬間に、浩太は気の毒そうな目で栞を見つめ、精神科のクリニックのパンフレットをそっと置いていくだろう。

ここは現実世界。日本側の人間に対しては、絶対に異世界の存在を悟られてはならないのだ。


「よく飲むってレベルじゃないでしょ。これ、三十人規模の宴会が毎日入ってる計算になるよ? 栞ちゃん、もしかして酒風呂でもやってるの? それとも、酒を燃料にして動くロボットでも飼ってる?」

「ロ、ロボットって! 浩太さんたら冗談が上手なんだから! あ、ほら、最近は一人でフラッと来て、一升瓶を丸ごと空けちゃうような豪傑な常連さんもいるんですよ。ストレス社会ですからね、日本のサラリーマンは!」


栞が適当なことを言って笑うと、浩太は首に巻いたタオルで汗を拭きながら、まだ納得しきれない様子で厨房の奥へと足を踏み入れた。

「ふーん……まあ、繁盛してるなら酒屋としては万々歳だけどさ。よいしょっと、残りのケースも冷蔵庫の横に置いとくね。……ん?」


浩太の動きが、ピタリと止まった。

彼が視線を向けたのは、厨房の壁に掛けられた小さなホワイトボードだった。そこには、栞が今日の仕込みの段取りを忘れないようにと、殴り書きでメモを残していたのだ。

栞はそのメモの存在を思い出し、サァァァッと顔から血の気を引かせた。


そこには、こう書かれていた。

『・オーク肉の血抜き(臭みが強いので生姜多め)

・清流スライムの酸味抜き(重曹で試す)

・火吹き猪の角煮(圧力鍋で三時間)』


「……栞ちゃん。このメモ、なに?」

浩太が、ホワイトボードを指差しながら低い声で尋ねた。

「オーク肉? スライム? 火吹き猪? ……君、何の仕込みをしてるの? もしかして、どこか怪しいルートから違法な動物の肉でも仕入れてるんじゃ……」

「ち、違うんです浩太さん!!」


栞は両手をブンブンと振り回し、顔を真っ赤にして浩太とホワイトボードの間に立ち塞がった。

「こ、これは業界用語! そう、隠語みたいなものです! たとえば、お寿司屋さんがお茶のことを『あがり』って言うみたいに!」

「スライムが業界用語? どこの業界の?」

「フ、フレンチです! フランスの山奥の郷土料理で、すごくプルプルしたゼリー状の豚の煮こごりのことを、現地のシェフたちは親しみを込めてスライムって呼ぶんですよ! オーク肉っていうのは、とっても大きくて育ちのいいブランド豚のことで……火吹き猪は、えっと、辛い唐辛子を食べて育った特別な猪です!」


栞の口から飛び出す、苦し紛れにもほどがある大嘘の連発。

浩太は半眼になり、腕を組んだ。明らかに疑っている。当然だ。三十年も生きてきた真っ当な社会人が、そんな見え透いた嘘に騙されるはずがない。

「栞ちゃん……僕をからかってる? そもそも、店の表から全然お客さんの出入りを見たことがないんだけど、本当に営業してるよね?」


絶体絶命のピンチ。

なんとかして浩太を裏口から帰さなければ、店の秘密が、ひいては自分の平穏な日常が崩壊してしまう。栞が必死に次の言い訳を脳内で捻り出そうとした、その時だった。


――ダァァンッ!!


表の引き戸が、勢いよく叩き開けられた。

まだ暖簾も出していない、完全な営業時間外である。にもかかわらず、聞き慣れたけたたましい足音が店内に響き渡り、厨房のすぐ外、カウンター席のほうから巨大な男の声が轟いた。


「女将ぃぃぃっ!! いるか!! 早く、早く癒やしの飯と酒を出してくれぇぇっ!!」

「て、店主さぁぁぁん!! 私もです! 魔力が、魔力がすっからかんですぅぅっ!!」


やってきたのは、全身に泥と血飛沫を浴び、ボロボロの金属鎧を引きずったバルトルトと、杖を杖(つえ)ではなく松葉杖のようにして歩くミレイユだった。

二人はカウンターに文字通り倒れ込み、ゼェゼェと荒い息を吐いている。


「ちょっ……バルトルトさん!? ミレイユちゃん!? まだお店開けてないですよ!」

栞が厨房の暖簾をくぐって顔を出すと、バルトルトは血走った目で栞を見つめた。

「すまない女将! だが緊急事態なんだ! 王都の南の森に、はぐれオークの群れが出やがってな! 俺たち第三部隊が総出で討伐に向かったんだが、奴ら、棍棒に炎の魔法をエンチャントしてきやがったんだ!」

「そうです! 私が氷結の魔法で足止めしなかったら、今頃隊長は丸焼きになってましたよ! あーもう、最悪のクエストでした! だから早く、おにぎりと豚汁で私の魔力を回復させてくださいぃぃっ!」


オーク。炎の魔法。氷結の魔法。魔力。

彼らは普段と変わらない、むしろ死線を潜り抜けてきた興奮状態にあるため、ファンタジー世界全開の物騒な単語をこれでもかと連呼した。


「…………」

厨房の奥で、そのやり取りを一部始終聞いていた浩太が、静かに暖簾をめくって顔を出した。

彼の目に映ったのは、本物の鋼鉄でできた分厚い鎧(無数の傷と、謎の緑色の体液付き)を着た巨漢と、ボロボロの黒いローブを着た魔法使いの少女。

日本の居酒屋には、絶対に存在してはいけない光景だった。


「……えーっと。栞ちゃん?」

浩太の顔からは、完全に表情が抜け落ちていた。

「彼ら……誰? オーク? 魔法? その鎧、どう見ても本物の鉄に見えるんだけど。それに、なんかすごい血の匂いが……。もしかして、君、変なカルト教団の集会所でもやってるの? 警察、呼んだほうがいい?」

浩太の手が、エプロンのポケットにあるスマートフォンへとゆっくり伸びていく。


「ち、違います!! 違います浩太さん!! 警察はダメ!!」

栞は猛烈な勢いでカウンターを飛び越え、浩太のスマートフォンを取り上げようと必死に腕にしがみついた。

「外国人のお客様なんです!! そう、マニアックな外国人!!」

「外国人? いや、どう見ても日本語ペラペラだったけど!?」

「日本語ペラペラの外国人なんです!! 彼らはね、あれです! 『コスプレ』!! そう、サバイバルゲームのファンタジー版みたいな、すっごくハードなコスプレをしている方々で! 血糊とかも、ほら、ハリウッド仕込みの特殊メイク!!」


栞はバルトルトの鎧にこびりついた謎の緑色の液体を指差しながら、滝のような冷や汗を流して叫んだ。

「あの剣もウレタン製! 鎧はアルミの叩き出し! すっごくお金持ちの、北欧あたりの貴族の末裔の方々なんです! 日本のサブカルチャーが大好きすぎて、わざわざこういう衣装で飲みに来るっていう、ちょっと変わったオフ会の会場になってるだけなんです!!」

「北欧の……貴族の末裔の……コスプレイヤー……?」

浩太は、ポカンと口を開けたままバルトルトを見た。

バルトルトは、日本の酒屋の配達員という見慣れない服装の男に戸惑いつつも、気まずそうにぺこりと頭を下げた。

「あー……その、なんだ。女将の故郷の商人殿か? 邪魔をしてすまないな。俺はただ、オークの返り血を洗い流す前に、どうしてもここの美味い酒が飲みたくてな」

「ほ、ほら!! 設定に忠実でしょう!? オークの返り血とか言っちゃって! 本当はただのトマトジュースなのに! アハハハハハ!!」


栞はバルトルトの背中をバンバンと叩きながら、空虚な笑い声を店内に響かせた。

浩太の目は、完全に据わっていた。

「……栞ちゃん。無理があるよ。その鎧、どう見ても百キロ以上ありそうだし、そのおじさんの筋肉、プロレスラー以上だよ。それに……」

浩太の視線が、鋭く栞を射抜く。

「僕、配達員だから色んな店見てるけどさ。こんな路地裏の、表の看板も出してないような店に、そんな大金持ちの外国人が毎晩集まるなんて、いくらなんでも不自然すぎるよ。君、本当にヤバいことに巻き込まれてるんじゃ……」


(ああ、もうダメだ。限界だ)

栞は心の中で天を仰いだ。一般人の常識を持った浩太を、これ以上言葉だけで騙し通すことは不可能に近い。

だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

栞は覚悟を決めると、スッと真顔に戻り、無言で厨房の奥へと向かった。

そして、レジの奥に隠しておいた『秘密の封筒』を手に取り、再び浩太の前に戻ってきた。


「浩太さん」

栞は、分厚く膨れ上がった茶封筒を、浩太の胸にドスンと押し付けた。

「……なにこれ」

「今日のビール樽とお酒の代金。それから、来週一週間分の、ビール樽十本と一升瓶二十本の『前払い金』です」


浩太が恐る恐る封筒の中を覗き込むと、そこには異世界の純銀貨を換金して手に入れた、大量の福沢諭吉が隙間なくギッシリと詰め込まれていた。

その額、ざっと三十万円。

個人経営の小さな居酒屋が、酒屋の配達員にその場で現金でポンと渡すような額では絶対にない。


「なっ……!?」

浩太は息を呑み、封筒と栞の顔を交互に見比べた。

「し、栞ちゃん……こんな大金、どこから……」

「さっき言いましたよね? すっごくお金持ちの、北欧の貴族の方々がパトロンについているって」

栞は、これ以上ないほどの作り笑顔(営業スマイル)を顔に貼り付け、浩太の目を真っ直ぐに見つめた。

「浩太さん。世の中には、聞かないほうがいい秘密ってあると思うんです。私はただ、美味しいお料理と冷たいお酒を出して、お客様から正当な対価をいただいているだけ。浩太さんの会社にとっても、私は最高の『お得意様』だと思うんですけど……違いますか?」


札束の重みと、栞の静かな圧。

浩太の脳内で、酒販店の営業成績と、目の前の異常な光景が激しく天秤に掛けられた。

一週間にビール樽十本。一升瓶二十本。これを一人で売り上げれば、今月の営業ボーナスは確実である。それに、お金は間違いなく本物の日本円だ。相手がコスプレイヤーだろうが、カルト教団だろうが、異世界人だろうが、酒を飲んで金を払ってくれるなら、酒屋にとっては神様である。


「…………」

浩太は、ゆっくりと封筒をエプロンのポケットにねじ込んだ。

そして、顔の筋肉を無理やり引き上げ、プロの営業マンとしての完璧な笑顔を作った。


「オーケー。理解したよ、栞ちゃん」

浩太は深く、深く頭を下げた。

「素晴らしいインターナショナルな異文化交流、酒屋として全力でサポートさせていただきます! オークでもドラゴンでも、いくらでもぶっ倒して、ガンガンうちのビールを飲ませてあげてください! 足りなくなったら夜中でも電話してね! まいどありぃぃぃっ!!」


言うが早いか、浩太は弾かれたように背を向け、空の樽を台車に乗せると、逃げるような猛スピードで裏口の鉄扉を駆け抜けていった。

バタンッ! という鈍い音が響き、日本の日常の音が完全に遮断される。


静寂が戻った店内。

栞は全身の力が抜け、その場にズルズルと座り込んでしまった。

「はぁぁぁぁ……寿命が十年縮んだ……」


カウンターに取り残されたバルトルトとミレイユは、顔を見合わせて首を傾げている。

「……おい女将。今の商人、なんだか顔を青くして逃げていったが……ひょっとして、王都の裏組織の取り立て屋か何かか? もし女将が脅されているなら、俺が警備隊の権限でしょっぴいてやるが」

「あの……隊長。あの商人さん、さっき『オークでもドラゴンでもぶっ倒せ』って言ってましたよ。ひょっとして、すご腕の冒険者を兼業してる商人さんだったのでは……?」


「どっちも違います!! ただの酒屋のお兄さんです!!」

栞は床に座り込んだまま、半泣きで叫んだ。

「もう、次からは絶対に営業時間外に来ないでくださいね! 心臓が持たないですから! ……はぁ、もういいです。とりあえず、二人とも生ビールと豚汁でいいですか?」

「おう! 頼む!」

「ありがとうございます、店主さん!」


札束の暴力で強引に日常を守り抜いた栞。

ギリギリの二重生活の綱渡りは、こうして今日も危ういバランスを保ったまま、小料理屋『結』の慌ただしい営業開始のゴングを鳴らすのであった。

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