第7話:揚げたて唐揚げと、ドワーフの恩返し
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! たまんねぇ!! 女将、もう一杯だ!!」
王都の路地裏にひっそりと佇む『小料理屋 結』の店内に、鍛冶職人ドランの野太い咆哮が響き渡る。
彼の目の前には、すでに空になった特大のガラスジョッキが三つ並んでいた。そのどれもが、日本の誇る業務用ビールサーバーから注がれた、キンキンに冷えた生ビールが並々と注がれていた痕跡である。
ドランは赤茶色の豊かな髭に白い泡をこびりつかせながら、バンバンと分厚い手でカウンターを叩いた。
「お待たせしました、生一丁!」
栞は手慣れた様子で、新しく霜の吹いたジョッキに黄金色の液体と純白の泡を七対三の黄金比で注ぎ込み、ドランの前にトンと置いた。
ドランはそれを受け取るや否や、まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、ゴクゴクと喉を鳴らしてビールを胃の腑へと流し込む。
茹でたての枝豆の塩気と、氷のように冷たい炭酸の刺激。
常温の酸っぱいエールしか知らなかった百五十歳のドワーフにとって、日本の居酒屋文化が生み出したこの最強のコンボは、まさに雷に打たれたかのようなカルチャーショックだった。
「くはぁぁっ……! 何度飲んでも喉の奥が弾けやがる! 最高だ! だがな、女将!」
ドランはジョッキを半分ほど空けたところで、血走った目を栞に向けた。
「この緑の豆も確かに美味いが、俺の腹の中の『炉』がもっと強い薪を求めてやがる! 冷たい酒をガブ飲みするには、もっとこう……ガッツリとした、脂と肉の塊が必要だ! ドワーフの胃袋を満たす、重たいツマミを出してくれ!」
ガッツリとした肉のツマミ。
その注文を受けた瞬間、栞の板前としてのスイッチがカチリと音を立てて入った。
「生ビールに合う、ガッツリとしたお肉……ふふっ、任せてください。生ビールの永遠の相棒にして、最強の『揚げ物』をお出ししますから」
栞は自信満々に微笑むと、厨房の奥にある大型冷蔵庫へと向かった。
取り出したのは、日本のスーパーで特売だった時に大量に仕込んでおいた、新鮮な『鶏もも肉』である。
和食の技術は、出汁を引いたり、魚を美しく切ったりするだけではない。『揚げる』という暴力的な調理法の中にも、緻密な計算と長年の感覚が詰め込まれているのだ。栞が十五歳から十年間耐え抜いた厳しい修業の中には、当然、揚げ場での過酷な日々も含まれている。
まな板の上に鶏もも肉を広げ、余分な黄色い脂や筋を薄刃の包丁で丁寧に取り除いていく。この下処理をサボると、食べた時の食感が悪くなり、嫌な臭みが残ってしまう。
綺麗に掃除した肉を、大きめの一口大に切り分ける。揚げることで肉は少し縮むため、完成した時に口いっぱいに頬張れるサイズを計算して包丁を入れるのがポイントだ。
「よし、次は下味ね」
栞はボウルに切り分けた鶏肉を入れ、そこに特製のタレを揉み込んでいく。
ベースとなるのは、風味豊かな丸大豆醤油。そこに、肉の臭みを消しつつ柔らかくするための日本酒。すりおろしたばかりの新鮮なニンニクと生姜をたっぷりと加え、隠し味としてごま油をほんの数滴垂らす。
手袋をした両手で、肉の繊維に味を押し込むように、力強く、かつスピーディに揉み込む。
——クチャッ、クチャッ。
醤油とニンニク、生姜の混ざり合った、それだけで白ご飯が食べられそうな強烈に食欲をそそる香りが厨房に立ち昇る。
味がしっかりと馴染んだのを確認し、栞はそこに『片栗粉』をたっぷりとまぶした。小麦粉を使う唐揚げもあるが、栞は断然、片栗粉派である。片栗粉が作り出す『サクッ』という小気味良い衣の食感こそが、生ビールには最も合うと確信しているからだ。
コンロの上では、すでに深い揚げ鍋の中でたっぷりの油が熱せられていた。
栞は菜箸を油の中に入れ、上がってくる細かい泡の様子で温度を測る。
「まずは百六十度……低温でじっくりとね」
粉をまぶした鶏肉を、静かに油の中へ滑り込ませる。
——ジュワァァァァァッ!
油が心地よい音を立て、鶏肉の周りに無数の気泡がまとわりつく。
ここからが、栞の真骨頂である『二度揚げ』の魔法だ。
まずは低温の百六十度で三分ほど揚げる。表面がうっすらと白く色づいたところで、一度油から引き上げる。
この時点で、肉の中心はまだ生だ。しかし、バットの上で三分ほど休ませることで、衣に残った『余熱』がじわじわと中心部へと伝わり、肉の水分を逃がすことなく、しっとりと火を通していくのである。休ませている間に、鶏肉からふわりと醤油とニンニクの香ばしい匂いが漂い始めた。
「……おいおい女将、なんだその暴力的な匂いは! 俺の腹の虫が暴動を起こしそうだぞ!」
カウンターの向こうから、匂いに耐えきれなくなったドランが悲鳴のような声を上げる。
「もう少し待ってくださいね。今、魔法をかけているところですから」
栞はコンロの火力を一気に全開にし、油の温度を百九十度の『高温』まで引き上げた。
休ませておいた鶏肉を、再び高温の油の中へと投入する。
——バチバチバチバチッ!!
先ほどとは打って変わって、激しく油が弾ける音が厨房に響く。
この高温での二度目の揚げは、わずか一分足らず。目的は火を通すことではない。表面の衣に残った余分な水分を一気に飛ばし、極限まで『サクサク』に仕上げることだ。
油の中の泡が小さくなり、パチパチという高い音に変わった瞬間。そして、衣が食欲をそそる完璧なキツネ色——いや、黄金色に染まった瞬間を見極め、栞は網杓子で一気に唐揚げをすくい上げた。
ザッ、と油を切る。
その時点で、衣の表面がカチカチに仕上がっているのが音でわかる。
真っ白な長皿に、瑞々しい千切りキャベツをこんもりと盛り付ける。
その横に、揚げたて熱々の『鶏の唐揚げ』を、山のように積み上げていく。
仕上げに、鮮やかな黄色のレモンをくし形に切って添えれば、日本の大衆酒場が誇る最強のメニューの完成だ。
「お待たせしました! 当店特製、『鶏の唐揚げ・レモン添え』です!」
カウンターに置かれた大皿を見て、ドランはゴクリと喉を鳴らした。
山積みにされた黄金色の肉塊。表面の衣からはまだチリチリと微かな油の爆ぜる音がしており、醤油とニンニクの焦げた強烈な香りが、暴力的なまでに鼻腔を蹂躙してくる。
「こ、これが揚げた肉……! 王都の宴で出た丸焼きなんかとは、匂いの次元が違いすぎる……!」
ドランは栞から渡された箸(ドワーフの太い指でも使いやすいように、少し太めのものを用意した)を不器用だが力強く握りしめ、一番大きな唐揚げをガシッと掴んだ。
そして、まだ湯気を立てている熱々の塊を、大きな口を開けてそのまま放り込む。
——サクッ!!
店内に、信じられないほど鮮明な破砕音が響き渡った。
片栗粉が作り出した完璧な衣が、ドランの頑丈な歯によって噛み砕かれた音だ。
だが、真の衝撃はその直後にやってきた。
サクッという心地よい食感を突破した瞬間、衣の中に完全に閉じ込められていた『極上の肉汁』が、熱々のマグマのように口内へと爆発的に溢れ出したのだ。
「あッッッッツ!? ふほぉぉぉっ!!?」
ドランはあまりの熱さに目を剥き、ハフハフと口を開け閉めした。
しかし、吐き出すことなど絶対にできなかった。
弾力のある鶏もも肉を噛み締めるたびに、下味のニンニクと生姜のパンチの効いた風味が、肉の強烈な旨味と共に舌を殴りつけてくる。
カリッ、サクッとした外側の衣。
対照的に、驚くほど柔らかく、ジュワッとジューシーな内側の肉。
その食感のコントラストと、脳を直接揺さぶるような濃厚な味付けは、ドランがこれまで生きてきた百五十年の食の常識を根底から覆す破壊力を持っていた。
「う、う、うめぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
火傷しそうな熱さのまま唐揚げを飲み込んだドランは、すかさず右手でジョッキを掴み、生ビールを喉の奥へと流し込んだ。
——ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ!
唐揚げの濃厚な脂と強烈なニンニク醤油の風味を、氷のように冷たく、炭酸の効いた生ビールが、容赦なく洗い流していく。
口の中がリセットされ、同時に『もう一口、あの肉を食いたい』という強烈な渇望が湧き上がる。
「たまらん! なんだこの肉は! 衣は鉄鉱石みたいにサクサクなのに、中は魔法の湧き水みてぇに汁が溢れてきやがる! 酒が、酒が止まらねぇぞぉぉっ!」
ドランは狂乱したように二個目、三個目の唐揚げを口に放り込み、合間にビールを呷るという無限の往復運動を開始した。
「ふふっ。ドランさん、四個目を食べる前に、その端っこにある黄色い果実『レモン』を上からギュッと絞ってみてください」
栞の言葉に、ドランはピタリと動きを止めた。
「レモン? なんだこの酸っぱそうな実は。俺は今、この最高の肉の脂を堪能しているんだ。余計な味はいらねぇぞ?」
「騙されたと思って、やってみてください。唐揚げの新しい扉が開きますから」
栞の自信に満ちた眼差しに押され、ドランは半信半疑のまま、くし形に切られたレモンを太い指でつまみ、残った唐揚げの上から力強く絞った。
爽やかな柑橘系の香りが、熱々の唐揚げの湯気と共に立ち昇る。
レモン果汁をたっぷりと浴びた唐揚げを、ドランはパクリと口に入れた。
「…………ッ!!!」
ドランの動きが完全に停止した。
先ほどまでの暴力的な脂の旨味とニンニクのパンチが、レモンの鮮烈な酸味によって一瞬にして引き締められ、驚くほどサッパリとした味わいに変化したのだ。
脂っこさが消え去り、肉本来の旨味だけが輪郭をくっきりとさせて浮かび上がってくる。
「な、なんだこれは……! あんなに重たかった肉が、嘘みたいに軽く、爽やかになりやがった! これなら、樽一杯の肉でも永遠に食い続けられるぞ!!」
ドワーフの鍛冶職人は、ついに完全降伏した。
十年の修業で培われた栞の『温度管理』の技術と、日本の調味料、そしてレモンという味変の魔法の前に、ドランの胃袋は完全に掌握されたのである。
あっという間に山盛りの唐揚げと千切りキャベツを平らげ、最後の一滴までビールを飲み干したドランは、カウンターに突っ伏して「くはぁぁ……」と幸せの絶頂のような溜息を吐いた。
「もう……俺は思い残すことはねぇ……最高の人生だった……」
「まだ死なないでくださいね。で、お会計なんですけど」
栞がニコニコしながら伝票を弾く。
ドランはハッと顔を上げ、自身の懐を探ったが……やはり、工房から飛び出してきたままの彼はお金を持っていなかった。前回『絶対に焦げ付かないフライパン』を作ってくると約束したばかりだが、今日のこの信じられないほど美味い酒と、伝説級の『唐揚げ』を食べてしまった今、もはやフライパン一つでは到底この恩を返しきれないと、ドワーフの職人魂が激しく警鐘を鳴らしていた。
「女将……あんた、すげぇよ。俺はドワーフの誇りにかけて、こんな美味いもんを食わせてくれた恩を、中途半端な物で返すわけにはいかねぇ」
ドランはカウンターから立ち上がり、真剣な眼差しで栞を見た。
「フライパンはもちろん持ってくる。だが、それだけじゃ足りねぇ! あんたのその見事な腕に相応しい、俺の鍛冶人生のすべてを懸けた『最高の刃』を贈らせてくれ!」
「最高の、刃……ですか?」
「おう! ドワーフの秘伝の技術で鍛え上げる『ミスリル製の刺身包丁』だ! 魔力を帯びたミスリル鋼は、絶対に錆びず、千匹のドラゴンを捌いても決して切れ味が落ちない! あんたの料理をさらに高みへと引き上げる、究極の一振りだ!」
絶対に錆びず、切れ味が落ちない。
それは、毎日何時間も砥石に向かい、繊細な手入れを必要とする和包丁を扱う板前にとって、まさに夢のような道具だった。
栞の目が、星のようにキラキラと輝き始めた。
「ほ、本当ですか!? ミスリルの包丁……! 私、そんなの貰っちゃっていいんですか!?」
「おうよ! ドワーフに二言はねぇ! 明日、必ず最高のフライパンと刺身包丁を持ってきてやる! だから……」
ドランはニカッと笑い、空のジョッキを突き出した。
「明日も、あの『唐揚げ』とやらと、冷たい酒を頼むぜ!」
「……ふふっ、もちろんです! 最高の包丁、楽しみにお待ちしてますね!」
日本の裏口で仕入れた食材が、異世界の職人の魂を震わせ、伝説の武具(調理器具)となって返ってくる。
唐揚げの余韻と生ビールの熱気が冷めやらぬ店内。
異世界小料理屋『結』は、今日もまた一つ、種族の壁を越えた固い『縁』を結んだのだった。




