第6話:頑固ドワーフと、キンキンに冷えた生ビール
グラグラと沸き立つ大鍋の中で、鮮やかな緑色が踊っていた。
日本の厨房において、初夏の訪れを告げる最も美しい光景の一つ。栞は菜箸を使い、鍋の中で勢いよく対流する熱湯と『枝豆』をじっと見つめていた。
「枝豆は湯を沸かしてから畑に採りに行け」
板前の修業時代、親方に耳にタコができるほど聞かされた格言である。枝豆は収穫した瞬間から急速に甘みと旨味が失われていく。鮮度が命の食材なのだ。
今日の昼間、日本の裏口から出てすぐの八百屋で、泥付きの枝付き枝豆を手に入れてきた。すぐさま枝から莢を切り離し、流水で念入りに産毛を洗い落とす。そして、たっぷりの粗塩をまぶして両手でゴリゴリと揉み込む。この『塩揉み』の工程をサボると、美しい緑色に発色しないし、莢の中にまで程よい塩気が浸透しない。
沸騰したお湯に塩ごと投入し、待つこときっかり三分半。
栞は網杓子でザバッと枝豆をすくい上げ、平ざるの上に広げた。すかさず、傍らに用意しておいた団扇を手に取り、全力で風を送る。
「熱いうちに一気に冷ます! 水には絶対さらさない! これでよしっ!」
パタパタと風を送るたびに、湯気と共に枝豆特有の青々とした、どこかトウモロコシにも似た甘い香りが厨房いっぱいに広がった。急速に粗熱を取ることで、枝豆は色鮮やかなエメラルドグリーンを保ち、シャキッとした絶妙な歯ごたえを残すことができる。
莢の表面には、ほんのりと白い塩の結晶が吹いている。完璧な茹で上がりだ。
枝豆の仕込みが終わると同時に、栞は厨房の隅に鎮座する『新しい相棒』へと視線を向け、満足げに微笑んだ。
黒く輝くボディに、銀色のタップ(注ぎ口)。
日本側の酒販店の配達員、浩太に頼み込んで裏口から搬入してもらった、最新型の『業務用ビールサーバー』である。
重たい生ビールの樽を接続し、炭酸ガスのボンベの圧力を気温に合わせて微調整する。サーバー内の冷却パイプを通ることで、常温のビールが一瞬にしてキンキンに冷えた状態となって抽出される魔法の機械。
和食の基本は出汁と日本酒だが、やはり「とりあえず生!」という言葉は、疲れた大人たちにとっての共通言語である。これからの季節、絶対に必要になると思い、思い切って導入に踏み切ったのだ。
グラス用の小型冷蔵庫の中には、水滴一つなく磨き上げられた分厚いガラスのジョッキが、霜を吹くほどに冷やされている。
「出汁の準備よし、お通しの枝豆よし、ビールサーバーのガス圧よし。……さあ、異世界のお客さんたち、どんと来い!」
栞が気合を入れて割烹着のシワを伸ばした、まさにその瞬間だった。
——ダァァンッ!!
表の引き戸が、木枠ごと吹き飛ぶのではないかというほどの凄まじい勢いで開け放たれた。ガラガラ、という上品な音ではなく、力任せに叩き開けられた暴力的な音だ。
「酒だ!! 美味い酒を出せぇぇぇっ!!」
店内に響き渡ったのは、地鳴りのような野太い怒声だった。
栞が目を丸くして入り口を見ると、そこに立っていたのは、人間の子供ほどの背丈しかないにもかかわらず、横幅が丸太のように分厚い『異形の男』だった。
顔の半分を覆い隠すほどの豊かで硬そうな赤茶色の髭。腕は丸太のように太く、血管がボコボコと浮き出ている。身に纏っているのは分厚い革のエプロンで、その表面には無数の焼け焦げた跡と、真っ黒な煤がこびりついていた。
ドワーフ。
ファンタジーRPGで必ずと言っていいほど武器屋の親父を務めている、あの鉱物と鍛冶を愛する頑固な種族が、怒髪天を衝く勢いで店に乗り込んできたのだ。
「い、いらっしゃいませ!」
「おぅ! あんたがこの店の主か! 王都の警備隊の連中から『路地裏に美味い飯と酒を出す隠れ家がある』って聞いて飛んできたんだ! 俺は鍛冶職人のドランだ!」
ドランと名乗ったドワーフは、ズンズンと重たい足音を立ててカウンターに歩み寄り、よっこいしょと丸椅子によじ登った。その短い足は床に届かず、ブラブラと宙に浮いている。
「とりあえず、酒だ! 俺は三日三晩、炉の前で剣を打ち続けて、喉の中が砂漠みたいにカラカラなんだ! なのに、どこの酒場に行っても、出てくるのは生ぬるくて酸っぱいエールばっかりだ! あんな小便みたいな酒で、職人の魂が潤うか!」
ドランはカウンターをバンバンと叩きながら、鬱憤を晴らすように叫んだ。
彼らドワーフは酒を水のように飲む種族だが、異世界の醸造技術はまだ発展途上であり、常温で保存されたエールビールは炭酸が抜け、酸味が強いものが一般的だった。熱い炉の前で汗を流す鍛冶職人にとって、それはひどく物足りない代物なのだ。
「生ぬるいお酒にはうんざり、ってことですね?」
「おうよ! 喉の奥をガツンと蹴り飛ばすような、強烈な刺激が欲しいんだ! そういう酒がなきゃ、この店ごと俺のハンマーで……」
ドランが物騒な脅し文句を言い終える前に、栞は「ふふっ」と不敵な笑みを浮かべた。
喉の奥を蹴り飛ばすような、強烈な刺激。
そんな注文をされて、黙っている日本の居酒屋店主がどこにいるだろうか。
「ドランさん。当店にご来店いただいたからには、もう二度と『生ぬるい酒』なんて文句は言わせませんよ。極上の、キンキンに冷えた一杯をお出しします」
「ほぅ? 大きく出たな、小娘。いいだろう、俺の喉を唸らせてみろ!」
栞は無言で振り返り、グラス専用の冷蔵庫をバクッと開けた。
中から取り出したのは、マイナス温度帯でキンキンに冷やされ、表面に真っ白な霜が張り付いた特大のガラス製ジョッキである。ドランの分厚い手でもしっかりと握れるよう、取っ手が太く、ずっしりとした重みがあるものを選んだ。
それをビールサーバーのタップの下にセットする。
「……なんだその透明な器は? それに、その黒い機械はなんだ?」
ドランが不思議そうに身を乗り出す。異世界には木製のジョッキか陶器の杯しかなく、ガラスは貴族が使うような超高級品である。ましてや、霜が吹くほど冷えた器など見たこともない。
栞はドランの疑問には答えず、全神経を右手に集中させた。
ジョッキを斜め四十五度に傾け、サーバーのレバーを手前に引く。
——シュワァァァァァッ!
勢いよく抽出された黄金色の液体が、ジョッキの内側の側面に沿って滑らかに流れ落ちていく。炭酸を逃がさず、かつ余計な泡を立てない完璧な角度。ジョッキの七割まで液体が注がれたところでレバーを戻し、今度は奥へと押し込む。
すると、抽出されるのは液体ではなく、きめ細やかでクリーミーな『泡』へと変化する。
ビールと泡の黄金比、七対三。
ジョッキの縁からほんの数ミリだけこんもりと盛り上がった純白の泡は、ビールの炭酸と香りを逃がさないための『蓋』の役割を果たす。
「お待たせしました。当店自慢の『生ビール』と、お通しの『枝豆』です」
ドント、と音を立ててカウンターに置かれた大ジョッキ。
ドランは、目の前の物体を信じられないものを見るような目で見つめた。
霜の吹いたガラスの表面には、店内の暖かい空気に触れて無数の水滴が浮かび上がり、ツーッと流れていく。器越しに見える液体は、澄み切った美しい黄金色。そして頂上には、まるで初雪のように真っ白でフワフワとした泡が乗っている。
手を近づけただけで、ひんやりとした強烈な冷気が伝わってくる。
「な、なんだこれは……冷気魔法か!? こんなに冷たい器、ドワーフの長老ですら見たことないぞ!」
「いいから、まずは一口飲んでみてください。泡の下の液体を、喉の奥に直接流し込むようなイメージで。グビッと勢いよくいくのがコツです」
栞に促され、ドランは恐る恐る、しかし職人の太い指でしっかりとジョッキの取っ手を握りしめた。
ずっしりとした重み。そして、手のひらから伝わってくる氷のような冷たさ。
ドランは大きく口を開け、白い泡に髭を突っ込みながら、黄金色の液体を一気に煽った。
——ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ!!
静かな店内に、ドランの喉が大きく上下する音が鳴り響く。
ドランの瞳孔が、極限まで見開かれた。
口に含んだ瞬間、まず感じたのは滑らかでクリーミーな泡の優しい感触。しかしその直後、氷のように冷え切った液体が、強烈な炭酸の弾ける刺激と共に喉の奥へと雪崩れ込んできたのだ。
チクチク、シュワシュワと、喉の粘膜を容赦なく叩き、弾け飛ぶ無数の気泡。
常温のエールしか知らなかったドランの喉に、日本の『キレと喉越し』に特化したラガービールは、まさにハンマーで殴られたかのような衝撃を与えた。
冷たさが食道を通って胃の腑に落ち、炉の熱でカラカラに乾いていた全身の細胞へと一瞬にして染み渡っていく。麦芽の香ばしい風味と、ホップの爽やかな苦味が、鼻腔を鮮烈に駆け抜けた。
「…………ぷはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ドランはジョッキをカウンターに叩きつけ、店の天井を突き破らんばかりの大音量で咆哮した。
口の周りには白い泡のヒゲができている。
「な、な、な、なんだこりゃあああっ!? 冷たい! 痛い! すげぇ刺激だ! 喉の奥で小人がピッケルを振り回してるみたいだ!! 美味い、美味すぎる!! なんだこの酒は! こんなに冷たくて、こんなに弾ける酒が、この世にあったのか!!」
「それが、生ビールの『喉越し』です。熱いところで汗を流した後に飲む生ビールは、地球上……いや、異世界も含めて全宇宙で一番美味しい液体なんですよ」
栞は誇らしげに胸を張った。
ドランはもう止まらなかった。再びジョッキを掴み、今度は息継ぎすら忘れたかのように、残りの半分を一気に飲み干してしまった。
「くはぁぁっ! たまんねぇ! おい娘、いや、女将! もう一杯だ! 樽ごと持ってこい!」
「あはは、焦らないで。ビールのお供には、こっちの『枝豆』をつまんでみてください。指で莢を押し出して、中の豆だけを食べるんです」
栞は、竹で編まれた小さなざるに盛られた枝豆をドランの前に差し出した。
ドランは不器用な太い指で、鮮やかな緑色の莢をつまむ。言われた通りに端を指で押すと、ポンッという小気味良い音と共に、ツヤツヤとした緑色の豆が飛び出してきた。それをそのまま口で受け止める。
「……ぉ?」
ドランの口の中で、枝豆が弾けた。
表面にまぶされた粗塩のガツンとした塩気が舌を打ち、その直後、枝豆本体が持つ大地の甘みと濃厚なコクが口いっぱいに広がる。
絶妙な茹で加減によるシャキシャキとした歯ごたえ。噛めば噛むほど溢れ出す旨味。
塩味、甘み、そして旨味。
そのすべてが、先ほど流し込んだホップの苦味を持った生ビールを『強烈に欲している』。
「……っ!!」
ドランは無言のまま、空になったジョッキを栞に突き出した。
目は血走り、髭はワナワナと震えている。
「……おかわりだ。早く、早くあの冷たい酒を注いでくれ! この豆の塩気が、俺の口の中で酒を呼んで暴れ回ってやがる!!」
「ふふっ、喜んで!」
栞は空のジョッキを受け取ると、水流でサッとすすぎ、再びサーバーから完璧な七対三の生ビールを注ぎ入れた。
二杯目のジョッキを受け取ったドランは、枝豆をポンッと口に放り込んでは、生ビールをグビグビと流し込む。ポンッ、グビグビ。ポンッ、グビグビ。
無限ループである。
もはや言葉を発する暇すら惜しいとばかりに、ドランは一心不乱に日本の大衆酒場が生み出した最強のコンボを消費し続けた。
枝豆の青々とした香りと、ホップの苦味。
粗塩の塩気と、ビールの炭酸。
これらは互いを高め合うために存在しているとしか思えない、奇跡の組み合わせだ。ドワーフの頑固な職人魂すら、このシンプルな和の洗礼の前には完全に陥落するしかなかった。
「ぷはぁぁっ……! 食った、飲んだぁ……!」
ジョッキ三杯と、山盛りの枝豆を綺麗に平らげたドランは、大きなお腹をポンポンと叩きながら、極上の笑顔を浮かべていた。店に入ってきた時の怒りに満ちた表情は見る影もなく、まるで温泉に浸かったお猿さんのようにフニャフニャに緩みきっている。
「最高だったぜ、女将。俺は百五十年生きてきたが、こんなに美味い酒とツマミは初めてだ。王都のふんぞり返った貴族どもが飲んでるワインなんて、泥水みてぇに思えてくるぜ」
「お粗末様でした。ドランさん、お仕事上がりにはいつでも冷やして待ってますからね」
「おう! 毎日通わせてもらうぜ! ……あ、しまった」
ドランは懐を探り、ハッとした顔になった。
「すまねぇ、女将。俺としたことが、工房から着の身着のまま飛び出してきたから、財布を持ってきてねぇ……」
百五十歳のドワーフが、気まずそうに目を泳がせる。初来店の魔法使いミレイユと全く同じパターンである。しかし、栞はもはや驚きもしなかった。
「あはは、ドランさんは腕のいい鍛冶職人なんですよね? だったら、お金の代わりにお願いしたいものがあるんですけど」
「おっ? なんだ、言ってみろ! 俺の腕にかかれば、竜の鱗でも斬り裂く魔剣だって打ってやれるぞ!」
「魔剣はいりません。その代わり……」
栞は厨房の奥から、使い古して焦げ付きやすくなった鉄のフライパンを持ってきた。
「絶対に焦げ付かなくて、火の通りが均一になる魔法のフライパン、作ってくれませんか?」
「は?」
ドランは拍子抜けしたような顔をした。
「フライパン? そんな料理道具でいいのか? 俺はドワーフ一の……」
「私にとっての剣(武器)は、包丁と鍋なんです。腕のいい鍛冶職人さんに、私専用の最高の武器を作ってもらえたら、もっともっと美味しいお料理とお酒が出せるようになるんですけど……難しいですか?」
栞が小首を傾げて上目遣いで尋ねると、ドランの職人魂に火がついた。
「ば、馬鹿野郎! ドワーフの技術を舐めるな! 絶対に焦げ付かねぇフライパンだろうが、千年錆びねぇ包丁だろうが、なんだって打ってやる! 明日には極上の鉄板を持ってきてやるから、楽しみに待ってな!」
ドランはドンッと分厚い胸を叩き、豪快に笑った。
こうして、小料理屋『結』は、異世界から最高の食材を仕入れてくる魔法使いに続き、伝説級の武具(調理器具)を生み出すドワーフの専属鍛冶師を常連客として迎えることになった。
キンキンに冷えた一杯の生ビールが、異世界の気難しい職人の心を完全に溶かし去ったのである。




