第9話:部下を連れた隊長と、肉じゃがの温もり
和食において、「煮物」というのは実に不思議な料理である。
火にかけてグツグツと煮込んでいる最中に味が染み込むのではない。煮汁の中で具材が踊り、しっかりと火が通った後、一度火を止めて「冷ましていく」過程において、出汁と調味料の旨味がゆっくりと、だが確実に食材の細胞の奥深くまで浸透していくのだ。
だからこそ、煮物は仕込んだ直後よりも、数時間寝かせた後や翌日のほうが圧倒的に美味しくなる。
王都の路地裏に繋がる不思議な店舗『小料理屋 結』の厨房では、店主の栞が、そんな和食の真髄とも言える大鍋と向き合っていた。
作っているのは、日本の家庭料理の絶対的王者であり、おふくろの味の代名詞——『肉じゃが』である。
日本側のスーパーで厳選してきたのは、程よくサシの入った国産の牛バラ肉。豚肉を使う地域もあるが、栞は肉じゃがには牛肉の持つ強烈な旨味と甘い脂が最も合うと考えている。
主役となるジャガイモは、煮崩れしにくいメークインではなく、あえてホクホクとした食感が際立つ男爵イモを選んだ。ゴロゴロと大きめに切り分け、角が崩れて汁が濁らないように、包丁で丁寧に「面取り」を施す。この一手間をかけるかどうかで、仕上がりの美しさと舌触りが劇的に変わるのだ。
熱した大鍋にごま油を引き、牛肉をサッと炒める。色が変わったところで、面取りをした男爵イモ、乱切りの人参、そしてたっぷりの玉ねぎを投入し、全体に油を回すように炒め合わせる。
そこに、自慢の黄金色の一番出汁を注ぎ込んだ。
味付けは、醤油、酒、みりん、そして少し多めの砂糖。肉じゃがの美味しさは、この「甘辛さ」の黄金比にかかっていると言っても過言ではない。
落とし蓋をして弱火でコトコトと煮込み、竹串がスッと通る柔らかさになったところで、一度火を止める。
それから数時間。冷えゆく出汁の中で、イモと人参は自分の中の水分を排出し、代わりに極上の甘辛い煮汁をたっぷりと吸い込んでいった。
「うん。おイモの芯まで、完璧に味が染みてる」
開店前の最終チェックとして、小皿に取ったジャガイモを一口かじり、栞は満足げに頷いた。
イモの表面は出汁と醤油の照りで艶やかに輝き、口に含めばホロリと崩れて、濃厚な牛肉の旨味と玉ねぎの甘みが一体となって溶け出していく。仕上げに散らすために下茹でしておいた絹さやの鮮やかな緑色も、準備万端である。
時計の針が午後五時を回り、栞は表の引き戸を開けて藍色の暖簾を掛けた。
異世界側の路地裏は、すでに夕闇に包まれつつある。冷たい風が吹き抜け、石畳を歩く人々の足取りも家路を急ぐように早くなっていた。
厨房に戻り、いつでも料理を出せるように準備を整えていた、その時。
——ガラガラッ!!
引き戸が勢いよく開き、カチャカチャと重たい金属音が店内に雪崩れ込んできた。
「女将! やってるか!」
「いらっしゃいませ、バルトルトさん。今日も一番乗りですね」
入ってきたのは、すっかり常連となった王都警備隊の第三部隊隊長、バルトルトだった。
だが、今日の彼は一人ではなかった。その後ろから、同じように警備隊の鎧を着た二人の若い青年を引きずるようにして連れてきたのだ。
「隊長……もう、無理っす。一歩も、足が動きません……」
「書類の文字が、全部魔物の群れに見えてきました……帰って、寝台に倒れ込みたいです……」
「バカ野郎、気合いを入れろ! ここがお前たちの墓場じゃねぇ、オアシスだ!」
バルトルトに首根っこを掴まれて引きずり込まれた二人の若い隊員は、まさに「死んだ魚の目」をしていた。
頬はゲッソリとこけ、目の下にはバルトルト以上の真っ黒なクマができている。髪はボサボサで、纏っている鎧すら鉛のように重たそうに肩を落としていた。
彼らの名前は、クラウスとマルコ。
ここ数日、王都周辺で頻発した魔物の討伐クエストに加え、年末ならぬ「期末」の予算編成と討伐報告書の山が警備隊を襲い、彼ら下級隊員は三徹(三日連続徹夜)という地獄のデスクワークを強いられていたのである。
「バルトルトさん、その後ろのお二人は……」
「俺の部下だ。こいつら、報告書の山に埋もれて息をしてなかったからな。このままじゃ過労で死ぬか、頭がおかしくなって城の窓から飛び降りかねん。無理やり引っ張ってきた」
バルトルトはそう言うと、抵抗する気力すらない二人の部下を、カウンターの丸椅子にドスッ、ドスッと強制的に座らせた。
クラウスとマルコは、焦点の合わない虚ろな目で店内を見回した。
「……隊長。ここは、どこですか? 見たことのない造りの酒場ですが……」
「それに、なんだか嗅いだことのない、すごく……甘くて、いい匂いがします……」
「黙って座ってろ。今からお前たちの内臓に、極上の癒やしをぶち込んでやるからな」
バルトルトはニヤリと笑い、自分の定位置に腰を下ろした。
栞は苦笑しながら、まずは人数分の温かい「おしぼり」を用意した。
湯気を立てるおしぼりを、それぞれの前に置く。
「いらっしゃいませ。お疲れのようですね。まずは手を拭いて、少しリラックスしてください」
クラウスとマルコは、目の前に出された丸められた布を不思議そうに見つめた。異世界の酒場では、せいぜい汚れたボロ布がテーブルに置かれている程度であり、客ごとに温かい布が提供される文化など存在しない。
二人が戸惑っていると、バルトルトが手本を示すように自分のおしぼりを広げ、ゴシゴシと顔面を力強く拭き始めた。
「あぁぁっ……! これだ。この温かさが、張り詰めた神経を解きほぐしてくれるんだ」
それを見て、若い二人も恐る恐るおしぼりを手に取り、顔に押し当ててみた。
「…………っ!!」
二人の若者の肩が、ビクンと跳ねた。
徹夜の激務で冷え切り、強張っていた顔面の筋肉に、程よい熱と湿気がジワリと浸透していく。ただ顔を拭いているだけなのに、まるで温泉にでも浸かっているかのような深い安堵感が全身を駆け巡ったのだ。
「な、なんだこれ……温かい……ただの布なのに、すごく気持ちいい……」
「隊長、俺、これだけで泣きそうです……」
「バカ、泣くのはまだ早い。女将、こいつらの胃袋は完全に限界を迎えてる。肉の脂はキツいが、しっかり腹にたまって、なおかつ胃に優しいものを頼めるか」
バルトルトの注文に、栞は自信満々に微笑んだ。
「お任せください。疲れた体と心を温める、最高の家庭料理を用意してありますから」
栞は厨房に戻り、仕込んでおいた肉じゃがの大鍋に再び火を入れた。
冷めて味が染み込んだ具材たちを、焦げ付かないように優しく温め直していく。
グツグツという音と共に、醤油と砂糖、そして牛肉の脂が熱せられた強烈に甘美な香りが、換気扇を通る前に店内に充満し始めた。
カウンターでぐったりしていたクラウスとマルコの鼻腔を、その匂いが容赦なくくすぐる。
「……なんなんだ、この匂いは。暴力的なまでに食欲をそそるのに、どこかホッとするような……」
「胃が……さっきまで何も受け付けないくらい痛かったのに、この匂いを嗅いだだけで、腹の底がグゥッと鳴りやがった……」
生気を失っていた二人の目に、かすかな光が宿り始めた。
栞は深めの陶器の鉢を三つ並べ、熱々の肉じゃがをたっぷりと盛り付けていく。
ゴロゴロとした飴色の男爵イモ、味が染みてくたっとした玉ねぎと人参、そして旨味の塊である薄切りの牛肉。最後に、色鮮やかな絹さやを散らして完成だ。
一緒に、炊きたての真っ白なご飯と、豆腐とワカメの味噌汁を添えてお盆に乗せる。
「お待たせしました。当店特製、『肉じゃがの定食』です」
トン、トン、トンと、三人の前に定食が並べられた。
湯気を立てる肉じゃがを見た瞬間、クラウスとマルコは息を呑んだ。
彼らの知る「イモと肉の煮込み」といえば、硬い干し肉と泥臭いイモを塩茹でしただけの、野営で食べる味気ないスープが相場である。しかし、目の前にあるのは、すべての具材が輝くような照りを持ち、黄金色のスープに浸かった芸術品のような一皿だった。
「ほら、食ってみろ。使い方は難しければ、そっちのフォークを使えばいい」
バルトルトに促され、クラウスはゴクリと喉を鳴らしてフォークを手に取った。
まずは、一番大きなジャガイモにフォークを突き立てる。
——スッ。
「……え?」
クラウスは自分の手の感覚を疑った。力を入れるまでもなく、フォークの先がイモに吸い込まれるように沈んでいったのだ。
そのまま崩れないように持ち上げ、フーフーと息を吹きかけてから、口の中へと放り込む。
「…………ぁ」
咀嚼する必要すらなかった。
舌の上に触れた瞬間、ジャガイモはホロリと崩れ、中にたっぷりと蓄えられていた甘辛い煮汁が一気に口内へ溢れ出した。
昆布と鰹の出汁の深い旨味。醤油の香ばしさ。みりんと砂糖のまろやかな甘み。そして、一緒に煮込まれた牛肉の強烈なコク。
それらが完璧なバランスで調和し、ホクホクのイモのデンプン質と絡み合いながら、極限の疲労状態にあるクラウスの脳内報酬系を直接殴りつけてきた。
「なんだ、これ……っ!!」
クラウスは目を大きく見開き、隣に座るマルコの肩をバンバンと叩いた。
「マルコ! 食ってみろ! イモが、イモじゃない! 口の中で溶けたぞ! それに、この甘くてしょっぱい味付け、信じられないくらい美味い!!」
「本当かよ……って、熱ッ! うぉぉぉっ!?」
マルコは牛肉と玉ねぎを一緒に口に入れ、歓喜の悲鳴を上げた。
「肉が……こんなに柔らかい肉、食ったことない! それにこの玉ねぎ、トロトロでめちゃくちゃ甘い! なんだこれ、味が、味が優しすぎる……!」
二人の若き隊員は、もはや言葉を交わす暇すら惜しいとばかりに、一心不乱に肉じゃがを口に運び始めた。
甘辛い味付けは、白ご飯の最強のパートナーである。
肉じゃがを一口食べ、その濃い味を追いかけるようにツヤツヤの白米をかき込む。イモの甘み、肉の旨味、そして米の甘みが口の中で一体となり、疲労困憊だった身体の細胞一つ一つに、猛烈な勢いで栄養と活力が染み渡っていく。
合間にすする味噌汁の塩分と大豆の香りが、さらに食欲をブーストさせる。
「うめぇ……うめぇよぉ……っ」
ふと、栞がカウンターを見ると、猛然とご飯をかき込んでいたクラウスの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
隣のマルコも、鼻をズビズビと鳴らしながら、顔を真っ赤にして泣いている。
「ちょ、ちょっと、二人とも大丈夫ですか!? もしかして、味が濃すぎました?」
栞が慌てて声をかけると、クラウスは涙を腕で乱暴に拭いながら、ブンブンと首を横に振った。
「違います、女将さん……。あまりにも美味しくて、それに、すごく温かくて……。なんだか、実家の母ちゃんのご飯を思い出しちゃって……」
「俺もです……。俺の母ちゃん、すっげぇ無口で怖かったけど、俺が熱を出した時だけ、こうやって温かくて柔らかいスープを作ってくれたんだ……うぅっ……」
大の大人が二人、カウンターで声を上げて泣きながら、肉じゃがとご飯を頬張っている。
栞は少しだけキョトンとした。
異世界の料理文化を考えれば、彼らの母親が日本の醤油やみりんを使った「肉じゃが」を作っていたはずがない。塩茹でのジャガイモか、せいぜい少し甘みのある野菜スープ程度だったはずだ。
それでも、和食の基本である「甘辛い煮物」の味は、食べた者の記憶の底にある「誰かに優しくされた記憶」「温かい家庭の記憶」を呼び起こす不思議な魔力を持っているらしい。
それが、食べたこともないはずの「おふくろの味」として、彼らの心に強烈なノスタルジーを抱かせたのだ。
「……そう。お母さんの味に似てるなら、残さずいっぱい食べてね。ご飯も味噌汁も、おかわりはいくらでもあるから」
栞は優しい声でそう言うと、そっと温かいほうじ茶を二人の横に置いた。
「はいっ……! いただきます、母ちゃん……じゃなくて、女将さんっ!!」
二人は涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、満面の笑みで肉じゃがを平らげていく。
その様子を隣で見ていたバルトルトは、空になったお猪口を傾けながら、ニヤリと満足げな笑みを浮かべていた。
「どうだ、お前ら。生き返ったか」
「隊長……最高です。三日間の徹夜の疲れが、このイモと肉で全部吹っ飛びました。今なら、書類の山を素手で引き裂けそうです」
「俺、この店のためなら命を懸けられます。毎日通いたいです」
すっかり息を吹き返し、瞳に強い光を取り戻した部下たちを見て、バルトルトは急に険しい顔つきになり、二人の首根っこをガシッと掴んだ。
「……いいか、お前ら。よく聞け」
「ひっ! は、はい!」
バルトルトは声を潜め、周囲を警戒するように(店内には彼らしかいないが)目を光らせた。
「ここは、王都の厳しい現実から逃れられる、俺たちの秘密のオアシスだ。この店の存在を、絶対に上層部の連中や、他の部隊の奴らに漏らすなよ。もし貴族どもにバレてみろ、こんな美味い飯、連中に独占されて、俺たち下っ端は一生入れなくなっちまうからな」
「!! な、なるほど……! そういうことですか!」
「安心してください隊長! この秘密、拷問されても絶対に吐きません!」
クラウスとマルコは、騎士としての誇りを懸けるような真剣な表情で、力強く頷いた。
「ふふっ。大げさだなぁ。私は誰が来てくれても歓迎しますよ」
栞が苦笑しながら言うと、バルトルトは「いや、女将は権力者の恐ろしさを知らんのだ」と真面目な顔で首を振った。
——こうして。
疲弊しきった若き警備隊員二人の胃袋と心を、ホクホクの肉じゃがで完全に掌握した小料理屋『結』。
彼らがこの後、警備隊の休憩所で「絶対に秘密だぞ」と前置きしながら同僚たちに熱弁を振るい、結果として警備隊の隊員たちが次々と秘密裏に店を訪れるようになるのは、火を見るより明らかなことであった。
王都の権力闘争や激務に疲れた男たちが、夜な夜な集う秘密の裏会議室。
そのアットホームで温かい空間の礎は、日本の家庭料理の象徴である、一杯の肉じゃがによって確固たるものとなったのである。
空になった三つの器を下げながら、栞は今日も静かに、そして誇らしげに微笑んでいた。




