第57話:常連客の恩返しと、特大の舟盛り
王都アルカディアは、その年で最も厳しい冷え込みを迎えていた。
石畳の路地裏には、冷たい北風がヒューヒューと低く唸るような音を立てて吹き荒れ、道行く人々の外套を容赦なくはためかせている。吐く息は真っ白に染まり、日が落ちると同時に街の活気は暖かい暖炉のある家の中へと逃げ込んでしまう。
だが、そんな寒空の下でも、小料理屋『結』の店内だけは、別世界のようにぽかぽかとした心地よい空気に満ちていた。
藍色の暖簾をくぐった先にある、白木で統一された清潔なカウンター。厨房からは、利尻昆布と本枯れ節が織りなす、極上の出汁の香りがふわりと漂っている。
真っ白な割烹着に身を包んだ店主の藤原栞は、夜の営業に向けた仕込みの真っ最中だった。
大根の皮を桂剥きにし、リズミカルな包丁の音を立てて千切りにしていく。その手つきは、十五歳から十年間、日本の厳しい板前修業をくぐり抜けてきた熟練の職人そのものであり、無駄な動きは一切ない。
しかし、今日の栞の様子は、いつもとほんの少しだけ違っていた。
「……」
トントン、トントンという包丁のリズムが、時折ふっと止まる。
栞の視線は手元のまな板に向けられてはいるものの、その焦点はどこか遠く、ここではない別の場所を彷徨っているようだった。
彼女の脳裏に浮かんでは消えているのは、数日前に日本の裏口から突然訪ねてきた、師匠の厳格な顔である。
『都内の一等地に新しくオープンする会員制の高級割烹。そこの料理長を、お前に任せたい』
その言葉は、栞にとって料理人としての最大の夢であり、最高の栄誉だった。自分の腕一つで、最高級の食材を使い、舌の肥えた客たちを唸らせる。料理の道に入った日から、ずっと憧れ続けていたキラキラとした表舞台への切符。
もちろん、栞の中ではすでに答えは出ている。
昨夜、心を落ち着かせるために作った『サバの味噌煮』を食べた時、彼女は明確に自覚したのだ。自分が本当に料理を食べさせたい相手は、高級割烹の気難しい美食家たちではない。
泥だらけになって、疲れ果ててやってくる、この店の不器用な常連客たちなのだと。自分の居場所は、すでにこの異世界と繋がる路地裏にしかないのだと。
迷いは完全に断ち切ったはずだった。
しかし、人生の大きな岐路を突きつけられた余韻というものは、どうしても人の雰囲気に微かな陰りや、物思いに沈むような気配をまとわせてしまうものらしい。
「……いけない、いけない。仕込みに集中しないと。大根のツマの太さが均等じゃないわ」
栞は軽く首を振り、再び包丁を握り直した。
その時だった。
「せーのっ……! 入れっ! 引っかかってるぞ、ドラン!」
「やかましい! この鱗が硬すぎて扉の枠に削れちまうんだよ! ミレイユ、風の魔法でもうちょっと浮かせてくれ!」
「無理ですぅ! もう魔力がすっからかんで、風の精霊さんもストライキ起こしてますぅぅ!」
「奥様から借りた魔法の袋にも入りきらなかったのだ。四の五の言わず、無理やりねじ込むぞ!」
ガラガラガラッ! バキバキッ!
表の引き戸が悲鳴を上げ、建付けの悪い枠がメキッと嫌な音を立てたかと思うと、店内に巨大な『何か』が雪崩れ込んできた。
「えっ!? な、何事ですか!?」
栞が驚いて厨房から顔を出すと、そこには信じられない光景が広がっていた。
王都警備隊長のバルトルト、ドワーフの鍛冶職人ドラン、新米魔法使いのミレイユ、そしてエルフの密偵ファリスの四人が、泥と血と謎の粘液にまみれ、ボロボロになった姿で床に倒れ込んでいたのだ。
そして彼らの中心には、青銀色に輝く巨大な鱗に覆われた、大人の背丈ほどもある丸太のような肉塊が横たわっていた。
「バルトルトさん!? 皆さん、どうしたんですかその怪我は! それに、その巨大な物体は一体……!」
栞が慌てて厨房から飛び出すと、バルトルトは顔の泥を腕で乱暴に拭いながら、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「へへっ……驚いたか女将。こいつはな、南の果ての荒海にしか生息しねぇっていう、伝説のモンスター『海王竜』の尻尾の肉だぜ」
「か、かいおうりゅう……?」
「そうだ。こいつの肉は、どんな最高級の魚よりも脂が乗ってて、口の中でとろけるほど美味いらしい。王侯貴族でも一生に一度食えるかどうかっていう、幻の極上食材だ」
ドランが自慢げに胸を叩くが、その太い腕には鋭い刃物で切り裂かれたような深い傷がいくつも走っている。
「どうして急に、そんな危険なものを……?」
栞が戸惑いながら尋ねると、ファリスが少し気まずそうに目を伏せた。
「……最近、お前の様子がおかしかったからな」
「え?」
「いつも元気な女将が、ここ数日、どこか遠くを見るような顔をして、厨房でぼんやりとため息をついていた。俺たちみたいな荒くれ者が毎日入り浸って、嫌気が差したのか。それとも、何か店を続けられないような深刻な悩みでも抱え込んでいるんじゃないかってな」
バルトルトの言葉に、栞はハッとして息を呑んだ。
自分が無意識のうちに見せていた物思いの気配を、彼らは『栞がひどく悩んで落ち込んでいる』と勘違いしてしまったのだ。
「だからよ、俺たちで話し合ったんだ。いつも美味い飯で俺たちを癒やして救ってくれる女将に、最高の恩返しをして、一発元気づけてやろうってな!」
バルトルトは誇らしげに、巨大な海王竜の肉をポンと叩いた。
「俺の警備隊の非番の日に合わせて、ファリスとミレイユと一緒に南の海まで遠征してな。ドランに徹夜で打たせた特製の対竜用の銛を使って、三日三晩、嵐の海で死闘を繰り広げて、ようやくこいつを仕留めてきたってわけさ!」
彼らの格好を見れば、その戦いがどれほど壮絶だったかは一目瞭然だった。
バルトルトの頑丈な金属鎧は無残にひしゃげ、ファリスの美しいローブはボロボロに引き裂かれている。ミレイユに至っては魔力枯渇でフラフラになっており、一人で立つことすらままならない状態だ。
それでも彼らは、ただ「落ち込んでいる(と勘違いした)栞を笑顔にするため」という、たったそれだけの理由で、命を懸けてこの幻の食材を王都の路地裏まで運んできてくれたのだ。
「……皆、さん……」
栞の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
師匠が提示してきた『高級割烹の料理長』という地位。あちらの世界にいれば、毎日ピカピカに磨かれた綺麗な厨房で、泥一つ跳ねていない美しい高級食材だけを相手にすることができる。お客様は皆、洗練されたマナーを持つ富裕層ばかりだ。
だが、あちらの洗練された世界には、自分が少し落ち込んでいるように見えたからといって、泥だらけになって伝説のドラゴンを討伐してきてくれるような、こんなにも不器用で、真っ直ぐで、馬鹿みたいに温かい仲間たちは絶対にいない。
「……あははっ! あはははははっ!」
栞は涙を手の甲で拭い、腹の底から湧き上がるような、本当に心からの笑い声を上げた。
「お、女将……?」
心配そうに見上げる四人に向かって、栞はこれまでにないほど晴れやかな、太陽のような最高の笑顔を向けた。
「皆さん、本当にバカですね! 私が少し悩んでるように見えたからって、伝説のドラゴンを狩りに行くなんて、発想が飛躍しすぎですよ!」
「な、なんだよ。せっかく俺たちが命がけで頑張ってきたのに……」
バルトルトが口を尖らせる。
「でも……最高です。これ以上の元気づけなんて、この世のどこを探しても絶対にありません! 私、悩み事なんて文字通り一つもなくなっちゃいました! こんなに素敵で、優しくて、無茶苦茶な常連さんたちがいるこのお店を手放して元の場所に戻るなんて……天地がひっくり返っても絶対にありえませんから!」
栞の力強い宣言に、常連客たちは一瞬キョトンとした後、一斉に深い安堵の笑みを浮かべた。
「そうか……! よかった、最近の女将の様子を見てたら、急に店を畳んでどこか遠くへ行っちまうような気がして、俺たち生きた心地がしなかったんだぜ!」
バルトルトが安堵のあまり、その場に大の字になって寝転がった。
「私、もう限界ですぅ……早く、その幻のお肉を美味しく調理してくださいぃ……」
ミレイユが床にへたり込んだまま、よだれを垂らしながら訴える。
「はいっ! 任せてください! 皆さんが命がけで獲ってきてくれた最高の食材、私の持てるすべての技術を使って、王都の歴史に残る『最高の宴』にしてみせます!」
栞は両手でパンッと自分の頬を叩き、気合を入れた。
「ドランさん! 例のミスリルの包丁、貸してください! それからバルトルトさん、このお肉を厨房のステンレスの作業台に上げるのを手伝ってください!」
ドスンッ!
巨大な海王竜の尾肉が、地響きと共に作業台に乗せられた。
青銀色の鱗は金属のように硬く、並の刃物では傷一つつけられない代物だ。しかし、栞の手にはドランが特別に鍛え上げた『絶対に刃こぼれしないミスリル製の刺身包丁』が握られている。
「いきますよ……!」
栞は深く深呼吸をし、精神を極限まで集中させた。
包丁の切っ先を、硬い鱗の隙間にスッと差し込む。
——ギィィィンッ!
火花が散るような硬い手応え。しかし、栞は力任せに切るのではなく、魚の骨格と筋肉の繊維を読み取る板前としての眼力で、最も抵抗の少ない『筋』を見極め、ミスリルの刃を滑らせていく。
ザリッ……ズバァァァッ!
見事な太刀筋で硬い皮が剥がされ、中から現れたのは、まるで最高級のマグロの大トロと、真鯛の透明感を掛け合わせたような、信じられないほど美しい『薄紅色の肉』であった。
「うおぉぉっ……! すげぇ脂の乗りだ!」
「切り口から真珠みたいな光沢が漏れてるわね。これが伝説の海王竜……!」
栞の包丁捌きは、さらに加速する。
巨大な肉塊を部位ごとに切り分け、サク(刺身にするための長方形の塊)取りをしていく。腹側の最も脂の乗った部分は厚めに、背側の引き締まった部分は薄造りに。
さらに栞は、日本から仕入れておいた新鮮な大根を取り出した。
シャカシャカシャカッ!
桂剥きにした大根を極細の千切りにし、雪のように白い『ツマ』を大量に作り出す。刺身の旨味を引き立て、殺菌作用もある和食に欠かせない名脇役だ。
「そして、彩りにはこれね!」
ファリスが海から持ち帰っていた、異世界の海底で採れるという『星光藻』。暗闇で微かに青く発光するこの美しい海藻を、冷水で戻してツマと共に敷き詰める。
栞が取り出したのは、かつて日本の骨董市で見つけ、いつか特別な日に使おうと大切にしまっておいた、白木でできた巨大な『舟形の器』であった。
その舟の中に、大根のツマと星光藻を山のように盛り付け、立体感を持たせる。
そこへ、切り分けた海王竜の刺身を、まるで花びらのような芸術的な美しさで並べていくのだ。
大トロのように脂の乗った腹肉は、霜降りのような美しいサシが入っている。薄造りにされた背肉は、向こう側が透けて見えるほど透明度が高く、店の灯りを反射してキラキラと輝いている。
中央には、海王竜の兜に見立てた大きなヒレを氷と共に飾り付け、圧倒的な迫力と華やかさを演出した。
「お待たせしました!」
栞が、その巨大な舟盛りをカウンターのど真ん中にドンッ! と鎮座させた。
「当店特製、伝説の海王竜の『特大舟盛り』です!」
「「「おおおおおぉぉぉぉぉっ!!!」」」
店内に、地鳴りのような歓声が響き渡った。
光り輝く青い海藻と、雪のような大根のツマの上に敷き詰められた、幻のモンスターの薄紅色の肉。それはもはや料理の枠を超え、一つの完璧な芸術作品として彼らの前に現れたのだ。
「すげぇ……! あの不気味なモンスターの肉が、こんなに美しい宝石みたいになるなんて!」
「女将の包丁捌き、まさに神業だぜ! 俺のミスリル包丁も本望ってもんだ!」
「さあ、お醤油とワサビをつけて、新鮮なうちに食べてください!」
栞が小皿に日本の特製本醸造醤油と、おろしたての本ワサビを用意する。
バルトルトは震える手で箸を持ち、一番脂の乗った腹肉の刺身をつまみ上げた。
ワサビをほんの少し乗せ、醤油にチョンとくぐらせる。
極上の脂が醤油の表面にパッと広がり、美しい膜を作る。
それを、大きな口を開けて放り込んだ。
「…………ッッ!!!!!」
バルトルトの瞳孔が、極限まで見開かれた。
咀嚼する必要などなかった。舌の上に触れた瞬間、その肉はまるで淡雪のようにスゥーッと溶け崩れたのだ。
そして、口内を支配したのは、これまでの人生で味わったことのない、暴力的で、それでいて信じられないほど上品な『究極の旨味と脂の甘さ』であった。
海王竜が極寒の深海で蓄えた極上の脂は、人間の体温で一瞬にして液体へと変化し、日本の本醸造醤油の深いコクとワサビの爽やかな辛味が、その濃厚な甘みを完璧なバランスで引き締めている。
飲み込んだ後も、鼻腔を抜ける荒波の香りが、いつまでも至福の余韻として残り続けた。
「う……うぉぉぉぉぉぉっ!!!」
バルトルトは天を仰いで絶叫した。
「うめぇぇぇぇぇっ! なんだこれ! 噛んでねぇのに肉が消えたぞ! 脂が甘いのに全然しつこくねぇ! 俺、生きててよかったぁぁぁっ!」
「ああっ! 私もですぅ! ほっぺたが、ほっぺたが落ちちゃいますぅぅ!」
ミレイユも顔を真っ赤にして、次々と刺身を口に運んでいる。
「ガハハハッ! おい女将、酒だ! この極上の刺身には、お前の故郷の一番高い『日本酒』を持てこい! 今日は俺のおごりだぁっ!」
ドランがカウンターを叩いて要求する。
「……素晴らしい。大根のツマのシャキシャキとした食感と、この肉の圧倒的な柔らかさが、見事な対比を生み出している。これこそが、真の美食というものだ」
ファリスもまた、エルフの優雅さを完全に忘れ、一心不乱に箸を動かしていた。
「はいっ! 純米大吟醸、冷酒でたっぷりとお出ししますよ!」
栞は冷蔵庫から、日本から仕入れておいた最高級の日本酒の四合瓶を何本も取り出し、次々とグラスに注いでいく。
「皆さんの勇気と優しさに、そして小料理屋『結』の変わらない未来に! 乾杯!!」
「「「乾杯!!!」」」
グラスが甲高い音を立ててぶつかり合い、冷たい日本酒が喉を潤す。
幻の海王竜の極上の刺身と、日本の誇る銘酒。
泥だらけの常連客たちは、怪我の痛みも長旅の疲れも完全に忘れ去り、腹の底から笑い合いながら、夜が明けるまでかつてないほどの大宴会を繰り広げた。
厨房の端から、その賑やかな様子を眺めていた栞の胸の中には、もう一握りの迷いも残っていなかった。
(……お師匠様。私は、この路地裏で、この温かい笑顔に囲まれながら、自分の料理を作り続けます。ここが、私の生涯の城ですから)
カウンターの向こうで、バルトルトが「女将も飲め!」とグラスを差し出してくる。
「はいはい、今行きますよ! でも、お刺身ばっかりじゃ体が冷えちゃうから、次は海王竜の骨とアラで、熱々の極上『あら汁』を作ってあげますからね!」
「うおおおっ! 最高だぜ女将!!」
二つの世界を結ぶ境界線の店。
そこでは今夜も、種族も身分も超えた、温かくて騒がしい、そして最高に美味しい極上の宴が、いつまでもいつまでも続いているのであった。




