第56話:元の世界への誘惑と、サバの味噌煮
表の引き戸の向こう側、王都アルカディアは身を切るような冬の寒さに包まれている。石畳を叩きつける北風の音は、分厚い木の扉越しにもヒューヒューと低く唸るように聞こえていた。そして、裏口の向こう側である現代日本もまた、一年で最も冷え込む季節を迎えている。コンクリートの路地裏には霜が降り、吐く息は真っ白に染まる時期だった。
小料理屋『結』の店内は、開店前の静寂に満ちている。仕込みの真っ最中である店主の藤原栞は、真っ白な割烹着に身を包み、大根の面取りを淡々とこなしていた。一定のリズムでまな板を叩く包丁の音だけが、小気味良く店内に響いている。先日の建国祭での大喧騒や、悪徳商人を巡る騒動が嘘のように、今はただ穏やかで平和な時間が流れていた。
その静かな空気を破ったのは、裏口に設置された無機質なチャイムの音だった。
ジリリリリッ。
「はーい。浩太さんですか? 今日はお酒の配達、夕方だって言ってたのに早かったですね」
栞は手を拭いながら、軽い足取りで裏口の鉄扉へと向かった。いつもの酒屋の配達員が、前倒しで荷物を持ってきたのだと思い込み、何の警戒もせずに重い扉を押し開ける。しかし、そこに立っていたのは、見慣れた作業着姿の青年ではなかった。
「……久しぶりだな、栞。元気でやっていたか」
低い、それでいて腹の底に響くような威厳のある声。手入れの行き届いた上質な和服に身を包み、鋭い眼光を隠そうともしない初老の男性が、冬の冷たい空気と共にそこに立っていた。栞は、扉の取っ手を握ったまま、全身を雷に打たれたように硬直させた。心臓が跳ね上がり、呼吸が一瞬止まる。
「お、親方……! どうして、ここに……」
そこにいたのは、栞が十五歳の時から十年間、血の滲むような板前修業を積んだ老舗料亭の料理長——彼女にとって絶対的な師匠である男だった。厳しく、恐ろしく、そして誰よりも和食の真髄を愛する彼が、なぜわざわざ独立した弟子のこんな路地裏の店まで足を運んだのか。栞の頭の中は真っ白になった。
「近くまで来る用事があってな。お前がどんな店を出したのか、少しばかり気になって寄ってみたんだが……。ずいぶんとまた、見つけにくい奥まった場所を選んだものだな」
師匠は、裏口の殺風景な路地と、勝手口の簡素な造りを見回し、わずかに眉をひそめた。
「立ち話もなんだ、中に入ってもいいか?」
「あ、はい! もちろんです、散らかっていますが、どうぞ!」
栞は慌てて道を空け、師匠を厨房へと案内した。ピカピカに磨き上げられたステンレスの調理台、整然と並べられた包丁、出汁の香りが染み付いた壁。師匠は厨房の中を鋭い視線でぐるりと見渡し、最後にピカピカに手入れされた銅製の卵焼き器を見て、ふっと目尻を下げた。
「……道具の手入れは怠っていないようだな。出汁の香りも悪くない。どうだ、客の入りは」
「はい。おかげさまで、毎日忙しくさせてもらっています。ちょっと、変わったお客さんが多いんですけどね……」
栞は、カウンターの向こう側——異世界の路地裏からやってくる、鎧を着た騎士や魔法使い、ドワーフたちの顔を思い浮かべて苦笑いをした。もちろん、そんなことを師匠に言えるはずもない。師匠はカウンターの白木を指でスッと撫で、静かに口を開いた。
「栞。今日ここに来たのは、ただお前の顔を見に来ただけじゃない。……お前に、一つ話を持ってきた」
「話、ですか?」
「ああ。都内の中心部、一等地に新しくオープンする会員制の高級割烹がある。そこのオーナーが、若くて腕の立つ料理長を探していてな。俺のところに推薦状を書いてくれないかと打診があったんだ。……お前、そこで料理長をやってみないか?」
その言葉は、栞にとってあまりにも現実離れした、信じられないものだった。都内の一等地にある高級割烹の料理長。それは、十五歳で包丁を握り始めたあの頃から、彼女がずっと、何よりも強く夢見ていた『到達点』そのものだったからだ。自分の腕一つで、最高級の食材を使い、舌の肥えた客たちを唸らせる。料理人として、これ以上の栄誉はない。
「りょ、料理長……私がですか? でも、私なんかまだ若いですし、お店を出したばかりで……」
「お前の腕は俺が一番よく知っている。十年、俺の元で誰よりも厳しく働き、誰よりも料理に真摯に向き合ってきた。お前の引く出汁と、素材を活かす技術はすでに本物だ。……栞、こんな路地裏の小さな店で、日銭を稼ぐような真似をして燻っている器じゃないだろう。お前なら、もっと高い場所で、もっと美味いものを作れる」
師匠の言葉は、熱く、そして重かった。彼がどれほど栞の才能を高く評価し、期待してくれているかが痛いほど伝わってくる。
「急に答えを出せとは言わん。三日待つ。三日後の夜に、また連絡をくれ。……お前が本当に料理人として高みを目指す気があるなら、どうすべきか分かるはずだ」
それだけを言い残し、師匠は再び裏口の鉄扉を開けて、冬の風の中へと去っていった。静まり返った厨房に、栞は一人取り残された。
心臓の鼓動が、未だに激しく鳴り響いている。
都内の高級割烹。料理長という肩書き。自分がずっと憧れ続けてきた、キラキラと輝く表舞台。その切符が、今、手のひらの上に差し出されたのだ。この小さな『結』を畳んで、元の世界——現代の日本での輝かしいキャリアへと戻るチャンス。
「……料理長……私の、夢……」
栞はその場にへたり込み、両手で顔を覆った。心が、激しく揺さぶられていた。もしあの誘いを受ければ、もう毎日異世界の食材の処理に頭を悩ませることもない。鎧のガチャガチャ鳴る音や、ドワーフの大声に耳を塞ぐこともない。洗練された空間で、洗練された料理だけを作ることができる。それは、料理人として完璧な成功の形だ。
しかし、その輝かしい未来を想像した時、なぜか胸の奥に、鉛のような冷たい重さがのしかかってくるのを感じた。
「……どうして、迷うのよ。あれほどなりたかった料理長なのに」
栞は立ち上がり、大きく深呼吸をした。心が乱れている時は、包丁を握るのが一番だ。何かに没頭しなければ、この揺れ動く感情に押し潰されてしまいそうだった。彼女は冷蔵庫を開け、今日の仕込みのために用意してあった立派な真サバの半身を取り出した。
和食の基本中の基本でありながら、究極に奥が深い料理。
——サバの味噌煮。
無心になるために、栞は調理を始めた。まずはサバの切り身の皮目に、バツ印の飾り包丁を浅く入れる。皮が縮んで破れるのを防ぎ、同時に味を染み込ませやすくするための大切な一手間だ。
次に、熱湯を用意する。沸騰したお湯にサバをくぐらせ、表面が白く霜降り状になったら、すぐに冷水に取る。この『霜降り』という作業が、青魚特有の生臭さを完全に消し去るための命綱となる。冷水の中で、残っている血合いや細かいウロコを、指先で優しく丁寧に洗い落としていく。
「冷たい……」
冬の水は氷のように冷たい。だが、その冷たさが、今の栞の火照った頭を少しだけ冷静にしてくれた。
鍋に、酒と水、薄切りにしたたっぷりの生姜を入れる。そこへ下処理を終えたサバを並べ、火にかける。グツグツと煮立ってきたところで、砂糖とみりん、そして隠し味の少量の醤油を加える。落とし蓋をして、中火でじっくりと煮込んでいく。
サバの味噌煮において、味噌を最初から入れるのは御法度だ。味噌の風味が飛んでしまい、ただのしょっぱい煮物になってしまう。まずは甘みと酒の風味をしっかりと身に含ませることが肝心なのだ。
コトコト、コトコト。
鍋の中で煮汁が踊る音だけが、静かな厨房に響いている。
煮汁が半分ほどに減ってきたところで、栞はボウルに二種類の味噌を用意した。コクと渋みのある赤味噌と、まろやかな甘みを持つ白味噌。これを絶妙な割合でブレンドし、鍋の煮汁を少しすくってボウルの中でしっかりと溶きのばす。
ダマがなくなった味噌だれを、鍋の中へと回し入れる。
——フワァァァァッ。
その瞬間、味噌の焼けるような香ばしさと、大豆の発酵した深い香りが、湯気と共に爆発的に立ち昇った。サバの脂の匂いと混ざり合い、これぞ日本の家庭料理、これぞ和食という、圧倒的な安心感を伴う匂いが厨房を満たす。
栞はお玉で煮汁をすくい、サバの表面に何度も何度も回しかけていく。煮汁がトロリと煮詰まり、照りが出てくるまで、焦がさないように細心の注意を払いながら。
その単調で丁寧な作業を繰り返しているうちに、栞の脳裏に、様々な情景が浮かんでは消えていった。
師匠の厳しい顔。高級割烹の華やかな厨房。綺麗な器に盛られた、芸術品のような料理。
そして——。
『うおおおおっ! 女将、なんだこの出汁巻き卵は! 美味すぎて涙が出てきやがる!』
顔をクシャクシャにして、初めて和食の出汁の味に触れて号泣したバルトルトの顔。
『これ、塩とご飯だけなんですか!? どんな回復魔法よりも効きますぅ!』
ひもじい思いをしていたミレイユが、塩むすびを頬張って満面の笑みを浮かべた顔。
『ガハハッ! こんなキンキンに冷えた麦酒と、サクサクの唐揚げが食えるなら、俺のミスリルなんていくらでもくれてやるぜ!』
ジョッキを掲げて豪快に笑う、ドランの髭もじゃの顔。
『……私は今まで、何を食べて生きてきたのだろう。この繊細な野菜の甘みを知らずにいたとは、一生の不覚だ』
ほうれん草のお浸しを食べて、エルフとしてのプライドを忘れて静かに感動していたファリスの横顔。
彼らは、美食家でもなければ、料理の評論家でもない。ただ、日々の過酷な戦いや、理不尽な仕事、種族のしがらみの中で疲れ果て、泥だらけになってこの店にやってくる、不器用で真っ直ぐな常連客たちだ。
彼らが栞の料理を口にした瞬間に見せる、あの心の底からの安堵の表情。美味しいものを食べて、ただ純粋に「美味しい」と笑ってくれる、あの飾り気のない笑顔。
「あ……」
栞の手が、ピタリと止まった。
鍋の中では、こってりとした飴色の味噌だれが、サバの身に完璧に絡みつき、最高の照りを出して仕上がっていた。
栞は菜箸でサバの身を少しだけほぐし、味見のために小皿に取った。フーフーと息を吹きかけ、口の中に入れる。
——美味しい。
サバのふっくらとした身から、青魚の濃厚な脂が溶け出す。それを、二種類の味噌のコクと甘みが完全に包み込み、生姜の香りが後味をさっぱりとさせている。ご飯が無限に進む、和食のド真ん中を行く味だ。
この味を、師匠が言う『高級割烹の客』に食べさせたいか?
答えは、ノーだった。
栞の心の中で、この完璧に仕上がったサバの味噌煮を食べてほしいと強く願っている相手は、一人残らず、あの表の引き戸の向こう側からやってくる、異世界の厄介な常連客たちだった。
「……なんだ。私、全然迷ってなんかなかったじゃない」
栞の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しいからではない。自分が本当にやりたいこと、自分の料理人としての本当の『居場所』がどこにあるのかを、自分自身で明確に自覚できた安堵の涙だった。
高級割烹の料理長という肩書きは、確かに素晴らしいものだ。承認欲求も満たされるだろう。でも、それは自分の心を本当に満たしてくれるものではない。
自分が一番幸せを感じるのは、疲れ果ててやってきた誰かに、温かい家庭料理を出して、「美味しい」と笑ってもらうことなのだ。それがたとえ、異世界の騎士や魔法使いであっても。
栞は、サバの味噌煮が完成した鍋の火を止め、力強く顔を上げた。その表情には、もう微塵の迷いもなかった。
「……ごめんなさい、親方。私は、まだまだこの路地裏で、やらなくちゃいけないことがあるんです」
栞は裏口の鉄扉の方に向かって、深く一礼をした。そして、すぐに頭を切り替え、今夜やってくるであろう常連客たちの顔を思い浮かべる。
「今日は特別寒いから、バルトルトさんたちはきっとお腹を空かせて駆け込んでくるわね。サバの味噌煮には、やっぱり炊きたてのツヤツヤご飯と、熱々の豚汁がなきゃ始まらないわ!」
栞はエプロンの紐をキュッと締め直し、鼻歌交じりに米を研ぎ始めた。
二つの世界を結ぶ、不思議な境界線の小料理屋。
そこは、誰かに与えられた栄誉ではなく、彼女自身が選び取った、世界で一番温かくて、世界で一番美味しい笑顔に溢れる、かけがえのない自分の『城』であった。
引き戸の向こうから聞こえてくるであろう、賑やかな足音を待ちわびながら、栞は今日も満面の笑みで暖簾を掲げる準備を進めるのであった。




