第58話:決断の夜と、熱々の鍋焼きうどん
伝説のモンスター『海王竜』の特大舟盛りがもたらした、かつてないほどの大宴会。
王都アルカディアの路地裏にある小料理屋『結』は、常連客たちの底抜けの笑い声と歓喜の叫びに包まれ、まさにどんちゃん騒ぎの夜を過ごした。しかし、どれほど楽しい宴であっても、いつかは必ず終わりの時間がやってくる。
深夜。酔い潰れたドランが豪快な鼾をかき、ミレイユがカウンターに突っ伏して寝息を立て始めた頃、バルトルトとファリスが彼らを抱え上げ、「女将、最高の夜だったぜ。また明日な」と満足げな顔で店を後にした。
賑やかだった客たちが帰り、店内には再び静寂が戻ってきた。
真っ白な割烹着に身を包んだ店主の藤原栞は、空になったグラスや巨大な舟形の器を洗い、調理台をピカピカに磨き上げていく。
すべての片付けを終え、ふきんを干した時、厨房の壁に掛けられた時計の針が深夜の二時を指していることに気がついた。
「……約束の時間ね」
栞は小さく深呼吸をし、エプロンの紐をきゅっと締め直して、厨房の奥にある重厚な鉄扉——現代の日本へと通じる『裏口』へと向かった。
重い扉を押し開けると、そこは東京都内の薄暗い問屋街の路地裏である。アルカディアと同様、日本もまた身を切るような冬の寒さに包まれており、白い息が夜空に吸い込まれていく。
その冷たい路地裏の電灯の下に、見慣れた和服姿の初老の男が、腕を組んで静かに立っていた。
「……親方」
栞が声をかけると、彼女が十五歳の頃から十年間、血の滲むような板前修業を叩き込んでくれた老舗料亭の料理長——絶対の師匠である男が、鋭い眼光を向けてきた。
「三日目の夜だ。……答えは出たようだな、栞」
師匠の声は、冬の夜気よりも冷たく、そして重かった。
都内の一等地に新しくオープンする会員制の高級割烹。そこの料理長という、料理人であれば誰もが喉から手が出るほど欲しがる最高の栄誉と、表舞台への切符。師匠が自分の腕を高く評価し、期待してくれているからこそ持ってきてくれた、千載一遇のチャンスである。
栞は、師匠の真っ直ぐな視線をしっかりと受け止め、深く、丁寧に頭を下げた。
「親方。本当に、本当にありがたいお話なのですが……そのお誘いは、お受けできません」
「……ほう」
師匠の眉がピクリと動いた。
「料理長という肩書きは、私の長年の夢でした。親方が私を推薦してくださったこと、料理人としてこれ以上の喜びはありません。でも……」
栞は顔を上げ、凛とした表情で師匠を見つめた。
「今の私には、この小さな店でしか作れない料理と……私がご飯を作るのを、泥だらけになって待ってくれている『厄介なお客さんたち』がいるんです」
「厄介なお客、だと?」
「はい。洗練されたマナーなんて欠片もなくて、大声で笑って、出汁の味に感動して涙を流してくれるような、不器用で真っ直ぐな人たちです。……私、あの人たちに『美味しい』って笑ってもらうのが、たまらなく好きなんです。だから、私はどこにも行きません。この店が、私の生涯の城です」
冷たい風が吹き抜ける中、師匠はしばらくの間、黙って栞の顔を見つめていた。
やがて、その厳格な顔の筋肉が微かに緩み、短く息を吐き出した。
「……そうか。お前がそこまで言うのなら、もう何も言うまい」
「親方……」
「立派な顔つきになったな、栞。お前はもう、俺の庇護を必要とする半人前じゃない。自分の城の主として、自分の客を腹一杯にすることだけを考えろ」
師匠は背を向け、路地裏の闇へと歩き出した。しかし、数歩進んだところで一度だけ振り返り、ニヤリと不敵に笑った。
「だがな、栞。もしその『厄介な客』たちに飽きられて、店が潰れるようなことがあったら、俺のところで大根の桂剥きからやり直させてやるから覚悟しておけ」
「……ふふっ。絶対に潰れませんから、ご心配なく!」
栞の晴れやかな声に、師匠は短く手を上げ、今度こそ夜の街へと消えていった。
裏口の扉を閉め、厳重に鍵をかける。
栞の心の中にあった最後の一握りの迷いは、完全に消え去っていた。
「よしっ! これで私は、正真正銘、小料理屋『結』の店主ね!」
伸びをして固まった身体をほぐすと、栞はふと、表の引き戸の外(アルカディア側)の様子が気になった。宴会の後、看板を店内にしまうのを忘れていたのだ。
栞は表の扉へと向かい、ガラガラと引き戸を開けた。
「ぶるるっ……アルカディアの風も冷たいわね」
雪がチラチラと舞う寒空の下、看板をしまおうと一歩外に踏み出した栞は、路地裏の暗がりに『異様な塊』があることに気がついた。
「……え?」
よく見ると、それはただの塊ではない。木箱や樽の陰に身を隠すようにして、四つの人影がガタガタと震えながら縮こまっていたのだ。
「ええっ!? バ、バルトルトさん!? それにドランさんも、ファリスさんもミレイユちゃんも!?」
栞が驚愕の声を上げると、ビクッと肩を跳ねさせた四人が、気まずそうに暗がりから這い出してきた。
彼らの顔や唇は寒さで真っ青に変色し、吐く息は尋常ではないほど白い。バルトルトの鎧にはうっすらと霜が降り、ミレイユに至っては寒さのあまり「あうぅぅ……」と歯の根を合わずに震えている。
「お、女将……いや、その……星が綺麗だったから、みんなで天体観測をだな……」
バルトルトが見え透いた嘘をつくが、ドランが「嘘つけ!」と怒鳴った。
「バカ野郎、お前が『海王竜の肉を食って女将は笑ってくれたが、もしかしたらあれは最後の別れの宴で、今夜黙って店を畳んでどこか遠くへ行っちまう気なんじゃないか』って言い出したんだろうが!」
「なっ、てめぇドラン! それを一番本気にして、見張り番をするって言い張ったのはお前だろうが!」
「……私とて、不安だったのだ。もし明日、この店がなくなっていたらと思うと、居ても立っても居られなくてな……」
ファリスがローブを掻き合わせながら身震いし、ミレイユも涙目で頷いている。
栞は、呆気にとられて彼らを見つめた。
彼らは宴会が終わって帰ったふりをしつつ、栞がどこかへ行ってしまわないか不安でたまらず、この極寒の雪空の下、何時間も店の外で待ち伏せをして凍えていたのだ。
「……もう。本当に、皆さんってば……バカなんですか」
栞の瞳から、再びポロリと涙がこぼれそうになる。それは、この上ない愛おしさと、彼らの不器用な優しさに対する温かい感情の表れだった。
「私がどこかに行くわけないじゃないですか! こんなに私のご飯を愛してくれているお客さんたちを置いていくなんて、絶対にありえません! ……さあ、早く中に入ってください! 風邪を引いちゃいますよ!」
栞は四人の背中を押して、強引に店内へと押し込んだ。
ポカポカと暖かい店内に戻っても、彼らの身体は芯から冷え切っており、まだ小刻みに震えている。
「女将、すまねぇ……。俺たち、ちょっと早とちりしちまったみたいだ……」
「謝るのは後です! 冷え切った体と心を、一瞬で解きほぐす特効薬を作りますから、そこで大人しく待っていてください!」
栞は厨房のコンロの前に立ち、棚から『一人用の土鍋』を四つ取り出した。
真冬の極寒の夜。限界まで凍えた身体を救済する日本の郷土料理といえば、これしかない。
栞が作るのは、熱々の出汁と具材の旨味が爆発する『鍋焼きうどん』である。
土鍋の中に、利尻昆布と本枯れ節で引いた一番出汁をたっぷりと張り、薄口醤油、みりん、少量の砂糖で、少しだけ甘めの関西風のうどんつゆに仕立てる。
コンロの火をつけ、グツグツと沸騰してきたところへ、日本の裏口から仕入れておいた、コシの強い太めの『冷凍うどん』をそのまま投下する。
「冷凍うどんは、茹でたてのコシを瞬間冷凍で閉じ込めているから、煮込んでも絶対に伸びなくてモチモチのままなんです!」
うどんがほぐれてきたところで、栞は具材を次々と土鍋の中に並べていく。
一口大に切った鶏もも肉、斜め切りの長ネギ、飾り包丁を入れた肉厚の椎茸、彩りの良い紅白のかまぼこ。
そして、栞が最も重要視している特別な具材——日本の乾物である『お麩』を、たっぷりと乗せた。
「お麩は、鍋焼きうどんにおける隠れた主役です。乾燥したスポンジのような生地が、煮込まれることで極上の出汁を限界まで吸い込み、口の中で旨味の爆弾に変わるんですよ」
最後に、土鍋の中央に新鮮な卵をポンッと割り落とす。
蓋をして、弱火で三分。卵の白身がほんのりと白く固まり、黄身がトロトロの半熟状態になった絶妙のタイミングを見計らい、栞は火を止めた。
「お待たせしました!」
栞は、分厚い鍋掴みを使って、湯気を立てる四つの土鍋を彼らの前に並べた。
「当店特製、身体の芯から温まる『熱々の鍋焼きうどん』です! 蓋、開けますよ!」
パカッ。
土鍋の蓋を開けた瞬間、——フワァァァァァッ! と、凄まじい量の湯気が立ち昇り、出汁の甘く芳醇な香りが一気に店内に広がった。
グツグツと泡を立てて煮え滾る黄金色のスープ。その中で、モチモチのうどん、たっぷりの具材、そして中央に鎮座する半熟卵が、まるで宝石箱のように美しく輝いている。
「おおおっ……! なんだこの美味そうな匂いは……!」
「冷え切った身体に、この湯気は反則だぜ……!」
バルトルトたちは震える手で箸とレンゲを持ち、まずは熱々のスープをすくって口へと運んだ。
「…………あああぁぁぁ……っ」
四人の口から、同時に深いため息が漏れた。
熱い。だが、その熱さが堪らなく心地よい。昆布と鰹節の深い旨味に、鶏肉の脂と椎茸の風味が溶け込んだ甘めのつゆが、凍りついていた胃袋から五臓六腑へと染み渡り、内側からジンジンと暖炉の火を灯していくように身体を温めていく。
ズズッ、ズズズッ!
うどんをすすると、極太の麺が驚くほどのコシとモチモチ感で歯を押し返してくる。
「すげぇ! この麺、これだけ熱いスープで煮込まれてるのに、全然ふやけてねぇ! 噛むたびに小麦の甘みが出てきやがる!」
ドランが火傷しそうになりながらも、豪快に麺をすすり上げる。
「皆さん、その茶色い丸いもの……『お麩』を食べてみてください。熱いから気をつけてくださいね」
栞に促され、ミレイユが箸で出汁をたっぷりと吸ってパンパンに膨れ上がった『お麩』をつまみ上げ、フーフーと冷ましてから口に入れた。
「…………ッッ!!!」
ミレイユの翠緑の瞳が、限界まで見開かれた。
噛み締めた瞬間、お麩の柔らかな繊維の中から、極上の出汁のジュースが滝のように口内へと溢れ出したのだ。
「あ、あふぃっ! 熱いですけど……! お口の中が出汁の海になっちゃいましたぁぁっ! お肉よりも柔らかくて、お出汁の旨味がスポンジみたいにぎゅーって詰まってますぅ!」
「本当だ……! なんだこの不思議な食べ物は! 噛んだ瞬間のこのジュワッとした旨味の放出、たまらねぇぜ!」
バルトルトもまた、お麩の持つ驚異的な出汁の吸収力に完全にノックアウトされていた。
「そして、最後のお楽しみはこれね」
ファリスが、土鍋の中央でトロトロに仕上がっている半熟卵に、箸をスッと突き立てた。
——トローリ。
黄金色の黄身が、出汁の海へと溶け出していく。
その黄身をうどんと鶏肉にたっぷりと絡め、一気に口へと運ぶ。
「……素晴らしい。出汁の塩気と旨味を、卵の圧倒的なまろやかさが完全に包み込んでいる。冷え切った心が、春の陽射しに包まれたかのように解きほぐされていく……」
ファリスの冷たかった頬に、ぽっと赤みが差した。
フーフー、ズズッ、ハフハフ。
店内に響くのは、四人が夢中になって鍋焼きうどんをすする音だけだ。
寒さでガタガタと震えていた彼らの身体は、土鍋が空になる頃には完全に温まりきり、額からはうっすらと汗が滲んでいた。
「ぷはぁぁぁっ! ごちそうさま!」
バルトルトがレンゲを置き、満面の笑みで腹をさすった。
「いやぁ、生き返ったぜ。女将、この熱々のうどんは、まさに魔法だな。外で凍えてたのが嘘みたいに、身体の芯からポカポカだ」
「ええ。もう、天体観測なんて二度としませんぅ……」
ミレイユもすっかり元気を取り戻し、幸せそうに微笑んでいる。
栞は、彼らの空になった土鍋を片付けながら、極めて真剣な、そして心の底からの愛情を込めた眼差しで四人を見渡した。
「バルトルトさん、ドランさん、ファリスさん、ミレイユちゃん」
「ん? どうした女将、改まって」
「……私、どこにも行きませんから。明日も、明後日も、一年後も十年後も。ずっとこの路地裏で、皆さんが泥だらけになって帰ってくるのを、温かいご飯を作って待ってます」
その言葉は、彼らの心の中に残っていた最後の一抹の不安を、完全に、そして永遠に消し去った。
「……おう。分かってるさ」
バルトルトが、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「俺たちの『オアシス』は、この世界で女将のいるこの店だけだからな。……これからも、俺たちの胃袋をよろしく頼むぜ」
二つの世界を結ぶ境界線の店。
外の寒空を完全に遮断するその温かな店内には、出汁の優しい香りと、決して揺らぐことのない絶対の絆が、いつまでも静かに満ちていた。
決断の夜を乗り越えた小料理屋『結』は、明日からもまた、疲れた誰かの心と身体を癒やす最高の料理を作り続けるのであった。




