第54話:常連たちの暗躍と、アジの南蛮漬け
ガラッ! ピシャァッ!!
王都屈指の悪徳商人であるゴードンが、傲慢な高笑いと共に店を去った後。引き戸が乱暴に閉められた衝撃で、藍色の暖簾がバサバサと不満げに揺れていた。
後に残された小料理屋『結』の店主・藤原栞は、片手にふきんを持ったまま、ポカンと口を開けて立ち尽くしていた。相場の十倍という金貨を叩きつけられ、専属の料理人になれと脅され、明日には店を強制的に差し押さえるという理不尽極まりない宣告。
普通の娘であれば、恐怖で泣き崩れるか、絶望して荷物をまとめ始める場面だろう。
しかし、十五歳から日本の厳しい板前修業をくぐり抜けてきた栞のメンタルは、そこいらの悪党の脅し程度で揺らぐほどヤワにはできていなかった。
「……なんか、すごい勢いで怒って帰っちゃったわね。冷製茶碗蒸し、カニの身がちょっと少なかったのかしら……」
栞は首を傾げながら、自分がこれから王都の裏社会を牛耳る男に店を奪われようとしているという危機感に全く気づかず、ただ純粋に料理のレシピの反省を始めていた。
「まあいいわ。あんな血圧の高そうなおじ様には、もっとお酢を効かせて、血液をサラサラにして、頭をスッキリ冷やしてあげるお料理が必要ね。ちょうど明日の仕込みをやろうと思っていたところだし」
栞は鼻歌交じりに厨房の奥へと向かい、新設したばかりの最新型大型業務用冷蔵庫の扉を開けた。
取り出してきたのは、日本の市場で仕入れてきた新鮮な『小アジ』の群れである。青背の魚特有の美しい銀色の輝きが、厨房の灯りを反射している。
栞が作ろうとしているのは、酸味と旨味が絶妙に交差する日本の家庭料理の傑作——『アジの南蛮漬け』であった。
まずは、漬け込むための『南蛮酢』作りから始める。
ボウルに、上質な米酢、薄口醤油、本みりん、砂糖、そして利尻昆布と本枯れ節から引いた極上の一番出汁を、栞の舌が記憶している完璧な黄金比で合わせる。そこへ、輪切りにした日本の真っ赤な鷹の爪(唐辛子)を落とし、ピリッとした刺激を隠し味として忍ばせる。
さらに、たっぷりの野菜の準備だ。玉ねぎは向こう側が透けて見えるほど薄くスライスし、水にさらして辛味を抜く。ニンジンとピーマンは、食感を残すために極細の千切りにしておく。これらの色鮮やかな野菜たちを、先ほどの南蛮酢の中へとたっぷりと漬け込んでおくのだ。
「よし、次はお魚ね」
栞は小アジのゼイゴ(尾の付け根にある硬いウロコ)を包丁で丁寧に削ぎ落とし、エラと内臓を素早く取り除く。腹の中を流水で綺麗に洗い流し、水気をキッチンペーパーで完璧に拭き取った。
下処理を終えた小アジたちに、薄くまんべんなく片栗粉をはたきつける。
天ぷら鍋には、たっぷりのサラダ油が百六十度の低温で熱されていた。
栞は片栗粉を纏った小アジを、静かに油の海へと滑り込ませた。
——ジュワァァァァァァァァッ。
静かで、心地よい油の弾ける音が厨房に響き渡る。
アジの南蛮漬けを極上の仕上がりにするための最大の秘訣は、『二度揚げ』にある。
まずは百六十度の低温で、じっくりと、本当にじっくりと十分近く時間をかけて揚げる。こうすることで、小アジの骨の髄まで完全に熱が通り、頭から尻尾まで丸ごと食べられるようになるのだ。
そして一度油から引き上げ、三分ほど休ませて余熱で中まで火を通した後、今度は油の温度を百九十度の高温に一気に引き上げる。
高温の油の中へ、休ませておいた小アジを再び投入する。
——ピチピチピチッ!
今度は甲高く、激しい音が鳴る。表面の水分が一瞬で飛び、片栗粉の衣がサクサク、カリカリの完璧な状態へと仕上がっていく。
「今よ!」
栞は黄金色に輝く小アジを油から引き上げると、油を切るのもそこそこに、そのまま熱々の状態で、先ほど作っておいた冷たい『南蛮酢と野菜のボウル』の中へと、躊躇なく放り込んだ。
——ジュジュウゥゥゥゥッ!!!
熱々の衣が冷たいお酢に触れた瞬間、凄まじい音と共に、酸味と醤油の香ばしさ、そして出汁の深い香りが爆発的に立ち昇った。
熱いものが冷える時、食材は最も味を吸収する。カリカリに揚がった衣の極小の隙間に、甘酸っぱい南蛮酢が怒涛の勢いで染み込んでいくのだ。
栞は野菜をアジの上に乗せ、味が均一に馴染むように整えると、ボウルごと冷蔵庫へと入れた。
「これで一晩寝かせれば、お酢の角が取れて、お野菜の甘みとアジの旨味が完全に一体化した、最高の『アジの南蛮漬け』になるわね」
栞が満足げに手をパンパンと払った、その時だった。
「……女将。今のその美味そうな匂いのやつ、一晩待たずに、今すぐ少しだけ食わせてもらえねぇか」
低く、地鳴りのような声が店内に響いた。
栞が驚いて振り返ると、店の奥に設けられた小上がり(お座敷)の席の御簾が静かに上がり、そこから四つの人影が姿を現したのだ。
王都警備隊第三部隊隊長、バルトルト。
エルフの密偵、ファリス。
ドワーフの鍛冶職人、ドラン。
新米魔法使いの少女、ミレイユ。
彼らは今夜、店の奥で静かに酒盛りをしていたはずだった。
しかし、御簾の奥から出てきた彼らの放つオーラは、いつもの気の良い常連客のそれとは全く異なっていた。
バルトルトの太い腕には青筋が浮かび上がり、拳は血が滲むほど強く握りしめられている。
ファリスの翠緑の瞳は、絶対零度の氷のように冷たく、底知れぬ殺気を宿している。
ドランの赤茶色の髭は怒りで逆立ち、ミレイユの持つ木製の杖からは、抑えきれない魔力の火花がバチバチと弾け飛んでいた。
「み、皆さん……? どうしたんですか、そんな怖い顔をして」
栞が戸惑いながら尋ねると、四人は一瞬だけハッとして、慌てて栞の前ではいつものような優しい笑顔を取り繕った。
「あ、ああ、いや! なんでもねぇんだ、女将! ただ、ちょっと胸糞の悪い虫の羽音が聞こえたような気がしてな」
バルトルトが無理やり笑って見せる。
「そうそう! 私たち、お腹が空いちゃって。さっきのお酢のいい匂いを嗅いだら、どうしても食べたくなっちゃったんですぅ!」
ミレイユも必死に取り繕う。
彼らは、栞に心配をかけまいと必死だった。悪徳商人ゴードンの襲来と、その口から吐き出されたこの店を奪うという宣言。奥の席でその一部始終を密かに聞いていた彼らの腹の中では、王都を焼き尽くすほどの凄まじい怒りの業火が煮えたぎっていたのである。
「もう、びっくりさせないでくださいよ。アジの南蛮漬け、まだお酢の角が取れきってないかもしれませんけど、出来立ての温かい状態も、サクサク感があって美味しいですからね。すぐにお出ししますよ」
栞は微笑みながら冷蔵庫からボウルを取り出し、深めの小鉢に一人前ずつ、アジとたっぷりの野菜を美しく盛り付けて彼らの前に出した。
「いただきます」
バルトルトたちは、出された南蛮漬けを箸でつまみ、口へと運んだ。
「…………ッ!!」
瞬間、彼らの瞳孔が見開かれた。
衣は南蛮酢を吸ってジュワッとしている部分と、まだ揚げたてのサクサク感が残っている部分が絶妙なグラデーションを描いている。
そして、口の中を満たす強烈な『酸味』。
上質な米酢の爽やかな酸っぱさが、舌の上の脂っこさを一瞬にして洗い流し、その直後に、みりんと砂糖のまろやかな甘み、そして利尻昆布と鰹節の圧倒的な出汁の旨味が怒涛のように押し寄せてくる。
小アジは頭から尻尾まで、骨の存在を全く感じさせないほどホロホロに崩れ、青魚特有の濃厚な旨味が南蛮酢と完璧に絡み合っている。シャキシャキとした玉ねぎとニンジンの食感が、最高のリズムを刻み、鷹の爪のピリッとした辛味が、味全体をキリッと引き締めていた。
「美味い……」
バルトルトが、低く唸った。
「この酸味……頭の芯まで突き抜けるような爽やかさだ。腹の底で煮えたぎっていた得体の知れない熱(怒り)が、このお酢の力で一気に冷まされていくのがわかる」
「ええ……本当に」
ファリスもまた、美しく目を細めながら冷酒の杯を傾けた。
「……怒りで我を忘れ、今すぐあの豚の首を刎ねてやろうかと思っていたが。この料理の冷たく鋭い酸味が、私の思考を極限までクリアにしてくれた。感情に任せて剣を抜くなど、三流の暗殺者のやることだ。我々には、もっと完璧で、もっと残酷な手段があるのだから」
南蛮漬けの爽やかな酸味は、彼らの腹の中で暴走しかけていた怒りの炎を消し去ったわけではない。
炎を極限まで圧縮し、冷静で、冷酷で、一切の容赦を持たない『氷の刃(殺意)』へと鍛え上げ、研ぎ澄ませたのである。
「女将」
バルトルトが、空になった小鉢を置き、極めて穏やかな声で言った。
「俺たち、ちょっと明日の仕事の打ち合わせがある。悪いが、奥の席で少しだけ話をさせてくれねぇか。酒のおかわりは自分たちでやるから、女将は気にせず厨房の片付けをしててくれ」
「はい、分かりました。ごゆっくりどうぞ」
栞が厨房の奥へと引っ込み、皿洗いを始めたのを確認すると。
四人の常連客は再び小上がりの席へと戻り、御簾をピッタリと下ろした。
その瞬間、結界で遮断されたかのように、彼らの周囲の温度が絶対零度まで急降下した。
「——さて」
バルトルトが、音を立てずに杯を置き、三人の顔を見回した。
「どこぞの汚え豚が、俺たちの『オアシス』を差し押さえに来るなどと、ふざけた寝言をほざいて帰りやがったな」
「ああ。エルフの耳は地獄の底まで届く。あのアホ面、一言一句、すべてこの耳に焼き付けておいたぞ」
ファリスが、氷のように冷たい声で応じた。
「俺の愛する生ビールと唐揚げの聖地を奪おうってのか。百年早いぜ。俺のミスリルのハンマーで、あの商館ごと木端微塵に叩き潰してやるか」
ドランが太い腕の筋肉を隆起させながら歯を剥き出しにする。
「ダメですよ、ドランさん。そんな物理的な破壊じゃ、すぐに尻尾切りされて逃げられちゃいます」
ミレイユが、幼い顔に似合わない冷酷な笑みを浮かべて杖を弄んだ。
「あの豚には、王都の裏社会から存在そのものを消し去るような、徹底的な『社会的な死』を与えないと、店主さんが安心してご飯を作れませんからね」
彼らは、小料理屋『結』を愛するただの常連客であると同時に、王都アルカディアにおける各界の裏表の権力の中枢に座る、本物の実力者たちである。
その四人が、ゴードンという共通の敵を前にして、完全に結託したのだ。
「では、作戦会議を始めよう」
バルトルトが、低い声で切り出した。
「ゴードン商会。表向きは手広く貿易をやっているが、裏では違法な高利貸し、麻薬の密輸、そして貴族への贈賄で肥え太っている悪の温床だ。奴が明日、この店を差し押さえに来る前に、奴の商会そのものを王都から完全に消し去る」
「承知した」
ファリスが懐から、何枚かの羊皮紙を取り出してテーブルに広げた。
「暗部としての私の情報網を使えば、奴の裏帳簿の隠し場所など容易に割れる。今夜中に公爵家の影の部隊を動かし、奴が貴族たちに行ってきた贈賄の決定的な証拠、および違法薬物の密輸ルートの全貌を記した書類を確保する。……そして、夜明けと同時に、それを王国宰相の執務室の机の上に叩きつけてやろう。ベアトリス様の『推薦状』を添えてな」
「完璧だ。宰相が動けば、警察権も大手を振って介入できる」
バルトルトが獰猛な笑みを浮かべた。
「俺の率いる王都警備隊第三部隊は、夜明けと共にゴードン商会の所有するすべての倉庫と商館に対して、一斉家宅捜索と封鎖を行う。言い逃れの隙など一秒たりとも与えねぇ。奴の私兵どもが抵抗するなら、公務執行妨害で一人残らず叩き斬ってやる」
「私兵の心配なら無用だぜ」
ドランがニヤリと笑い、杯の酒をあおった。
「俺はこれから、鍛冶職人ギルドと商人ギルドの顔役に使いを出す。深夜零時をもって、ゴードン商会との一切の取引を停止するよう通達する。奴の抱える傭兵どもの武器の修繕は受け付けねぇし、新しい剣の一本、釘の一本すら売ってやらねぇ。あいつらの武器は、明日には使い物にならねぇナマクラの鉄くずだ」
「ふふっ、物理的な包囲網が完璧ですね。じゃあ、私は魔法使い協会のコネを使って、王都の通信網を細工しておきますね」
ミレイユが楽しそうに指を鳴らす。
「ゴードン商会から発信される通信魔法の魔力波形をすべてジャミング(妨害)して、助けを呼ぶことも、他国にある隠し資産を動かすための暗号魔法を送ることもできなくしてあげます。これで、奴は王都の中で完全に『孤立』しますよ」
警備隊による物理的制圧と資産凍結。
暗部による政治的・法的な完全包囲。
ギルドによる流通と物流の完全遮断。
魔法使いによる通信の完全妨害。
それは、一介の悪徳商人が到底抗えるはずもない、国家転覆レベルの完璧すぎる包囲網であった。
彼らはそれぞれが持つ最強の権力と人脈を、ただ一つの目的——『明日もこの店で、美味い飯と酒を楽しむため』だけに行使しようとしているのだ。
「……方針は決まったな」
バルトルトが、杯を高く掲げた。
「明日、女将が起きて店を開ける頃には、ゴードン商会という組織は王都の歴史から完全に消滅している。俺たちの『オアシス』には、泥一滴たりとも跳ねさせねぇ。……総員、配置につけ」
「「「応!!」」」
音を立てずに杯が交わされ、彼らはアジの南蛮漬けを最後の一口まで綺麗に平らげると、一人、また一人と、夜の闇に紛れるようにして店を出て行った。
これから王都の裏社会で繰り広げられる、一方的で無慈悲な大粛清の嵐。
そんなことなど露知らず、厨房の奥で洗い物を終えた栞は、誰もいなくなった小上がり席を見て首を傾げた。
「あら? 皆さん、もう帰っちゃったのね。明日の仕事の打ち合わせ、ずいぶん早く終わったみたい」
栞は空になった小鉢を片付けながら、明日のメニューに思いを馳せていた。
「明日はすごく寒くなるみたいだから、スパイスをたっぷり効かせたカレーにしようかな。きっとみんな、喜んでくれるわよね」
悪徳商人の運命は、すでに冷たい南蛮酢の中に沈められ、完璧に調理されるのを待つばかりとなっていた。
小料理屋『結』は、常連客たちの底知れぬ愛と恐るべき暗躍に守られながら、今日も平和な夜更けを迎えるのであった。




