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異世界交差点の小料理屋〜10年修行した女板前は、今日も日本の裏口から仕入れた食材で疲れた異世界人の胃袋と心を癒やします〜  作者: タカノ


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第53話:悪徳商人ゴードンと、冷製茶碗蒸し

王都アルカディアの一等地、貴族街にもほど近い絢爛豪華な商館の一室で、凄まじい破壊音が響き渡った。

「ええいっ、使えん奴らめ! たかが路地裏の飯屋一つ潰すのに、尻尾を巻いて逃げ帰ってくるとは何事だ!」

王都の裏社会に深く根を張り、高利貸しや強引な地上げで莫大な富を築いてきた悪徳商人、ゴードンである。彼は最高級のベルベットが張られた椅子を蹴り飛ばし、顔を真っ赤にして怒り狂っていた。

彼の足元には、先日小料理屋『結』へと嫌がらせに向かわせたはずの地上げ屋、ザックたちが土下座をして震え上がっている。彼らは一様に唇をタラコのように腫れ上がらせ、ひどく怯えた目でゴードンを見上げていた。

「も、申し訳ございやせん、ゴードン会長! ですが、あの店はヤバすぎまさぁ! あの女将、真っ赤な毒の沼みたいな激辛料理を俺たちに食わせて、おまけに魔法で声を奪いやがったんでさぁ! あんな恐ろしい魔女の店、俺たちじゃどうにも……!」

「黙れ! 貴様らの無能を魔女のせいにするな!」

ゴードンはザックの顔面を蹴り飛ばし、忌々しげに舌打ちをした。

建国祭の三日間で、あの薄汚い路地裏の店がどれほどの金貨を飲み込んだか。ゴードンの商会が独自に計算したその売上予測は、王都の優良な中規模商会の一年分の利益に匹敵するものだった。

あんな場所にある、たかだか十席程度のちっぽけな店が、それほどの価値を生み出している。その事実が、ゴードンの底なしの強欲を激しく刺激していたのだ。

「……チッ。どこの馬の骨とも知れん小娘が、偶然珍しい味付けで祭りの客を騙くらかしただけだろう。貧乏人が集まるような安飯屋の料理など、たかが知れている。だが、あの立地と集客力、そしてレシピの権利は我が商会が頂く」

ゴードンはドカッと革張りのソファに腰を下ろし、葉巻に火をつけた。

「力で脅して泣き喚くようなタマではないというなら、絶対的な『資本の暴力』で黙らせてやるまでだ。……おい、金庫から金貨を出せ。私自身が赴き、あの小娘の顔に札束を叩きつけて、二度と逆らえないように店の権利書を奪い取ってやる」

ゴードンは分厚い唇を歪め、邪悪な笑みを浮かべた。高級食材しか口にしたことのない彼にとって、路地裏の飯など豚の餌と同義である。貧乏臭い店主を金と権力でひれ伏させることこそが、彼の最高の娯楽であった。


***


その夜。冷たい北風が吹きすさぶ王都の路地裏に、不釣り合いなほど豪華な装飾が施された馬車が停まった。

降り立ったゴードンは、護衛の屈強な男たちを外に待たせ、一人で藍色の暖簾が下がる引き戸の前へと立った。

「ここが『結』か。……ふん、見るからに貧乏臭い、建付けの悪い戸だ。こんな場所で飯を食う連中の気が知れんわ」

ゴードンはマントを翻し、引き戸を乱暴に開け放った。


ガラガラガラッ!

「いらっしゃいませーっ! お一人様ですか? 外は寒かったでしょう、どうぞカウンターへ!」

店内に踏み込んだゴードンを出迎えたのは、真っ白な割烹着に身を包んだ、黒髪の若い女将——藤原栞(ふじわらしおり)だった。

店内は清潔に保たれてはいるものの、ゴードンの目から見れば、狭く、安っぽい白木のカウンターがあるだけの粗末な空間である。シャンデリアもなければ、大理石の床もない。

「……貴様がここの店主か」

ゴードンは挨拶もそこそこに、ズカズカと店内の中央へと進み出た。そして、懐から取り出したズッシリと重い革袋を、カウンターの上にドンッ! と乱暴に叩きつけた。

チャリン、と中から黄金の硬貨が擦れ合う美しい音が響く。

「手っ取り早く本題に入ろう。私はゴードン商会の会長、ゴードンだ。……ここに金貨三百枚がある。この路地裏の相場の十倍以上の額だ。これを受け取り、今すぐこの店の権利書を私に譲渡して、この街から立ち去れ」

ゴードンは傲慢な態度で腕を組み、栞を見下ろした。

相場の十倍の金貨。普通の庶民であれば、この額を見た瞬間に目が眩み、這いつくばって感謝の言葉を述べるはずである。ゴードンは、栞が驚愕のあまり腰を抜かすのを心待ちにしていた。

しかし。

「……はい?」

栞は、金貨の袋をチラリと見ただけで、全く動じることなく首を小首に傾げた。

「あの、お客様。当店は不動産屋でも土地の売買所でもありません。お腹を空かせた方に、美味しいご飯とお酒を提供する小料理屋です。もしお土地のお取引をご希望でしたら、大通りの専門の業者さんに行かれた方がよろしいかと思いますが……」

「なっ……貴様、この金貨の山が見えないのか! 私はこの店を買い取ると言っているのだ!」

「ですから、売りませんよ。ここは私と、私のお客さんたちの大切な居場所ですから。いくら積まれても譲るつもりはありません」

栞はキッパリと言い切り、困ったような笑顔を浮かべた。

「それに、お客様。そんなに眉間に皺を寄せて、顔を真っ赤にして大声を上げていると、血圧が上がって身体に障りますよ。お仕事で何か嫌なことでもあって、イライラされているんですか?」

「い、嫌なことだと……!? 貴様、私が誰だか分かって……!」

「まあまあ。とりあえず座ってください。外の冷たい風に当たって、中は暖房でポカポカですから、頭に血が上っちゃってるんですよ。まずは、熱くなった頭と胃袋をスゥッと冷まして、リラックスできるお料理をお出ししますから」


栞は有無を言わさぬ、しかし極めて自然な接客のトーンで、ゴードンをカウンターの席へと誘導してしまった。

ゴードンは毒気を抜かれたように、思わず椅子に腰を下ろしてしまった。

(……チッ。なんだこの女は。私の威圧感が全く通じない。それに、熱くなった頭を冷ます料理だと? ふざけるな、私は最高級の黄金鳥のローストや、海王竜のステーキしか口にしない美食家だぞ。こんな貧乏臭い店で出される残飯など、犬にでも食わせておけ)

ゴードンは内心で悪態をつきながら、栞がどんな惨めな料理を出してくるのか、そしてそれを完膚なきまでに酷評して店の評判を地に落としてやろうと、意地悪な笑みを浮かべて厨房の様子を睨みつけた。


一方、栞は厨房の奥に新設された、日本の最新型大型業務用冷蔵庫の前へと向かっていた。

「イライラして血圧が上がっているおじ様には、やっぱりこれね。視覚からも涼を感じて、ツルンと喉越しが良くて、でも極上の旨味で心を落ち着かせる一品」

栞が冷蔵庫の中から取り出してきたのは、美しく透き通るようなガラスの器だった。

その器の中には、淡い黄金色をした『卵の層』が、ゼリーのように美しく固まっている。

「よし。あとは極上のトッピングと、仕上げの銀餡(ぎんあん)ね」


栞が作っていたのは、夏の料亭などで出される極上の冷製前菜——『冷製茶碗蒸し』である。

温かい茶碗蒸しも美味しいが、冷製にする場合は、卵と出汁の配合が全く異なる。冷やすと生地が硬く締まってしまうため、通常の茶碗蒸しよりも出汁の割合を大幅に増やし、ギリギリ固まるか固まらないかという『一対四』の黄金比で卵液を作らなければならない。

利尻昆布と本枯れ節から引いた、旨味の暴力とも言える極上の一番出汁。それをたっぷりと含ませ、目の細かいザルで三度も濾して絹のような滑らかさを実現した卵液を、低温の蒸し器でじっくりと火を入れ、その後、最新型の冷蔵庫で芯までキンキンに冷やし固めてあるのだ。

気泡(す)一つない、鏡のようにツヤツヤと輝く黄金の表面。


栞はさらに、その上へと乗せるトッピングを用意した。

日本の裏口から仕入れておいた、冬の味覚の王様——『ズワイガニ』の剥き身である。

カニの足の身を丁寧にほぐし、それをごく少量のお酒と塩でサッと洗い、旨味を引き出しておく。そのズワイガニの身を、冷やした茶碗蒸しの表面にたっぷりと、贅沢に盛り付けた。

「そして、味の輪郭を一つにまとめるための魔法のベール……」

栞は小鍋に一番出汁を沸かし、薄口醤油とみりんで上品な味をつけ、水溶き片栗粉でとろみをつけた『銀餡』を作った。これを氷水に当てて急冷し、トロトロの冷たいジュレ状に変化させる。

その冷え切った銀餡を、カニの身の上から、器全体を覆うようにタラリと流し込んだ。

最後に、爽やかな香りを放つ緑色の『三つ葉』をチョコンと乗せて、完成である。


「お待たせしました」

栞は、ガラスの器が結露して涼しげな水滴を纏った冷製茶碗蒸しを、ゴードンの目の前に静かに置いた。

そして、白木で作られた小さなスプーンを添える。

「当店特製、ズワイガニを乗せた『冷製茶碗蒸し』です。頭を冷やしたい時にぴったりの、冷たくて喉越しの良いお料理ですよ」


ゴードンは、目の前に置かれたガラスの器を見て、ピクリと眉を動かした。

(……なんだこれは? 黄金色のゼリーのようなものの上に、海老か何かの身が乗っている。私が普段食べている、皿から溢れんばかりの肉料理や、派手なソースにまみれた料理とは全く違う……ひどく地味で、だが……)

ゴードンは料理人ではないが、長年高級食材を口にしてきた商人としての審美眼はある。

器の中の黄金色の層は、濁りが一切なく、まるで磨き上げられた宝石のように美しい。上にかけられた透明な餡が、店内の灯りを反射してキラキラと輝いている。

それは、貧乏臭い路地裏の飯屋で出てくるような代物ではなく、王城の晩餐会で出されても何ら遜色のない、極めて洗練された『引き算の美学』を感じさせる一品だった。


「ふん。見掛け倒しの子供騙しめ。こんな冷たいスープの出来損ないのようなもので、私の腹が満たされるとでも……」

ゴードンは悪態をつきながらも、促されるままに木のスプーンを手に取った。

冷たい銀餡と、カニの身、そして下の黄金色の卵の層を、スプーンで一気にすくい上げる。

スゥッ……。

スプーンが沈み込む感触に、ゴードンは微かな違和感を覚えた。まるで、水にスプーンを入れたかのように、何の抵抗もなかったのだ。

ゴードンは、すくい上げた冷たい茶碗蒸しを、そのまま口の中へと運んだ。


「…………ッッ!!!!!」


次の瞬間、ゴードンの分厚い身体が、雷に打たれたようにビクンッ! と跳ね上がった。

咀嚼という行為は、全く必要なかった。

舌の上に触れた瞬間、キンキンに冷えた黄金色の卵は、まるで春の雪解けのようにスゥーッと滑らかに溶け崩れたのだ。

そして、卵の中に限界まで閉じ込められていた、昆布と鰹節の圧倒的な『出汁の旨味』が、冷たい滝となって口内から食道へと一気に流れ込んできたのである。

「なっ……なんだ、これは……!?」

ゴードンは目を見開き、声にならない呻きを上げた。

冷たい料理というのは、温かい料理に比べて味が感じにくくなるのが料理界の常識である。しかし、この茶碗蒸しは違う。冷え切っているからこそ、出汁の輪郭が恐ろしいほどに研ぎ澄まされ、一切の雑味がない純粋な『旨味の結晶』として脳髄を直接殴りつけてくるのだ。

さらに、その出汁の波を追いかけるようにして、ズワイガニの持つ上品で強烈な甘みが弾け飛ぶ。

カニの身に絡みついたトロトロの銀餡が、卵の滑らかさとカニの繊維を完璧な一体感で結びつけ、三つ葉の爽やかな香りが、鼻腔を抜けて熱くなっていた頭を急速にクールダウンさせていく。


「美味い……! なんだこの洗練された味は……! 私が今まで食ってきた、脂と香辛料で誤魔化した高級肉のフルコースが、まるで下品な泥水のように思えてくるほどの……圧倒的な純度を持った美味さだ……!」

ゴードンは、自分が高級レストランの美食家であることも、この店を地上げしに来た悪徳商人であることも忘れ、ただひたすらに、一心不乱に木のスプーンを動かし続けた。

冷たい茶碗蒸しが喉を滑り落ちるたびに、彼の腹の底で煮えたぎっていた傲慢な怒りやイライラが、嘘のようにスゥッと洗い流されていく。

冷え切った極上の出汁とカニの旨味が、彼のちっぽけなプライドを、呆気ないほど簡単に粉砕してしまったのだ。


「……ふぅぅっ」

数十秒後。ガラスの器の底に残った最後の一滴の銀餡まで綺麗に舐め取るようにして完食したゴードンは、大きく息を吐き出し、スプーンを置いた。

その額にはうっすらと汗が浮かび、顔つきは先ほどの般若のような怒り顔から、憑き物が落ちたような穏やかな表情へと変化していた。

「どうでしたか? 少しは頭が冷えて、スッキリしましたか?」

栞が、温かいほうじ茶を淹れてゴードンの前に置く。


「……ああ。驚いた。これほどまでに計算し尽くされ、素材の命を引き出した料理を食ったのは、私の人生で初めてだ。王都の最高級レストランのシェフですら、この味の足元にも及ばないだろう」

ゴードンは、忌々しそうに、だが確かな賞賛の意を込めてそう言った。

「ありがとうございます。お口に合ってよかったです」

栞がニコリと微笑む。

その純粋な料理人としての笑顔を見て、ゴードンの心の中に、料理の味を認めたがゆえの『さらなる強欲』が、どす黒く燃え上がり始めた。


(……間違いない。この女の料理の腕とレシピは、本物だ。ただの路地裏の飯屋で終わらせておくような代物ではない。この女を私の商会で囲い込み、貴族向けの会員制レストランを開かせれば、今までの何百倍、いや何千倍もの莫大な富を私にもたらす金の卵になる!)

ゴードンの目に、再びギラギラとした悪徳商人としての野心が宿った。

彼はカウンターの上に置いたままになっていた金貨の袋を手で払いのけ、バンッ! と立ち上がった。

「店主。貴様の料理の腕は認めてやろう。……だからこそ、方針を変更する」

「方針?」

「この店から立ち去れと言ったのは取り消す。私はこの店という箱だけでなく、貴様という料理人の『身柄』そのものを買い取ることに決めた!」

ゴードンは醜く顔を歪めて高笑いした。

「貴様は明日から、我がゴードン商会の専属料理人となるのだ! 貴族ども相手にこの冷たい卵料理を出せば、莫大な金が動く。借金まみれにしてでも、逃げられないように一生私の元で働かせてやる!」


「えっ……いやですよ、そんなの」

栞は即座に首を横に振った。

「私は、この路地裏で、自分のお客さんたちに温かいご飯を食べてもらうのが好きでやってるんです。誰かの専属になるつもりも、貴族相手に商売を広げるつもりもありません」

「ふん、小娘の意思など関係ない! 私が『買う』と言ったものは、必ず手に入れるのがゴードン商会のやり方だ! この王都において、私の財力と権力に逆らえる者などいないということを、明日になれば嫌でも思い知ることになるだろう!」

ゴードンはマントを翻し、勝ち誇ったように引き戸の方へと歩き出した。

「せいぜい今のうちに、荷物をまとめておくことだな! 明日には、王都の役人と私兵を連れて、この店を強制的に差し押さえに来てやるからな!」


ガラッ! ピシャァッ!!

ゴードンは悪役そのものの高笑いを残し、嵐のように店を去っていった。

後に残された栞は、片手にふきんを持ったまま、ポカンと口を開けて立ち尽くしていた。


「……なんか、すごい勢いで怒って帰っちゃった。冷製茶碗蒸し、カニの身がちょっと少なかったのかしら……」

栞は自分がこれから王都屈指の悪徳商人に店を奪われようとしているという危機感に全く気づかず、ただ純粋に料理のレシピの反省を始めていた。


しかし。

その日、店の奥の小上がり席で、ひっそりと酒を飲んでいた『常連客たち』の存在に、ゴードンは全く気がついていなかった。

暖簾の陰から、冷たく、底知れぬ殺気を放ついくつもの視線が、ゴードンの去っていった引き戸を睨みつけていたのだ。

「……聞いたか、お前ら。どこぞの豚が、俺たちの『オアシス』を差し押さえるだとよ」

「ああ。エルフの耳は地獄の底まで届く。……あの男、絶対に許さん」

「へっ。ミスリルのハンマーで、あの豚の頭を叩き潰してやるか」


小料理屋『結』を愛してやまない、王都の裏表の権力者たち。

彼らの逆鱗に触れた悪徳商人の運命は、すでに風前の灯火であった。

しかし、そんな暗闘の始まりを知る由もない栞は、ただ「明日は温かいメニューを増やそう」と、のんきに厨房の片付けを続けるのであった。

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