第52話:地上げ屋の襲来と、激辛麻婆豆腐
王都アルカディアの裏路地に、底冷えのする冬の夜風が吹き荒れていた。
石畳の隙間に凍りついた泥を踏みしめながら、三人の柄の悪い男たちが、肩を怒らせて歩いていた。彼らは王都の暗部を牛耳る悪徳商人、ゴードンが飼っている地上げ屋のゴロツキたちである。
リーダー格の男、ザックは、腰に提げた長剣の柄をガチャガチャと鳴らしながら、下劣な笑みを浮かべていた。
「へへっ。あんなちっぽけな店が、建国祭で金貨の山を築いただと? 笑わせるぜ。今日は俺たちが、あの店の女将に『みかじめ料』ってやつをたっぷり教えてやる」
「ザックの兄貴、もし女が泣いて嫌がったらどうしやす?」
手下の男が下卑た笑い声を上げると、ザックは唾を吐き捨てた。
「決まってんだろ。適当に難癖をつけて、店の中をぶっ壊してやるのさ。料理に虫が入ってただの、味がクソ不味いだの、何でもいい。恐怖を植え付けて、店の権利書をゴードン商会にタダ同然で引き渡させる。それが俺たちの仕事だ」
彼らの目的は、小料理屋『結』を物理的かつ精神的に追い詰め、営業不能に陥らせることだった。祭りの熱狂が去った今、警備隊の連中も毎晩入り浸るほど暇ではないだろうと踏んでの、絶好のタイミングでの襲撃である。
やがて、彼らの視線の先に、藍色の暖簾を掲げた古ぼけた木造の建物が見えてきた。
オレンジ色の温かな灯りが漏れる引き戸の前に立つと、ザックは躊躇することなく、その分厚いブーツの底で引き戸を蹴り飛ばした。
ガンッ! ガラガラガラッ!!
「おいコラァ!! 店主はいるか!! この辺りの顔役である俺たちに挨拶もなしに商売するとは、いい度胸してんじゃねぇか!!」
怒号と共に店内に雪崩れ込む三人のゴロツキ。彼らは威圧感を放つために剣の柄に手をかけ、店内の客を震え上がらせようと周囲をねめつけ……そして、拍子抜けした。
店内には客が一人もいなかったのだ。カウンターの隅で、黒いローブを着た小柄な魔法使いの少女が、顔を伏せて居眠りをしているだけで、他には誰もいない。
そして、厨房の奥からヒョッコリと顔を出したのは、真っ白な割烹着に身を包んだ、まだうら若き黒髪の店主、藤原栞だった。
「いらっしゃいませーっ! あらあら、お連れ様三人ですね! 外は寒かったでしょう、どうぞ奥の温かい席へ!」
栞は、扉を蹴破らんばかりの勢いで入ってきたゴロツキたちを見て、全く怯えるどころか、満面の笑みで熱々のおしぼりを用意し始めた。
ザックたちは顔を見合わせた。王都の裏社会で名を馳せる自分たちに対して、悲鳴を上げるでもなく、怯えるでもない。あまりにも無警戒で天然な対応に、出鼻を完全にくじかれてしまったのだ。
「お、おい! 女! 俺たちが誰だかわかってんのか! 俺たちはただの客じゃねぇぞ!」
「あ、わかりますよ! その独特の訛りと、ワイルドな服装。それに、ドアを元気よく開けるパワフルな感じ。……ズバリ、遠くの異国からいらした外国人のお客様ですね!」
栞は手をポンと打って、一人で納得していた。
彼女の脳内では、剣と魔法のファンタジー世界の住人は『外国人』というふんわりとした枠組みで処理されている。少しガラが悪かったり、言葉遣いが乱暴だったりしても、「文化の違いね」「外国の人はテンションが高いから」という、おおらかすぎる解釈で全てを許容してしまうのだ。
「が、外国人……? 何を寝言を言ってやがる。俺は王都生まれの王都育ちだ! いいから、さっさと俺たちを満足させるもんを出しやがれ! もし一口食って、少しでも不味いと思ったら、この店を木っ端微塵にぶっ壊してやるからな!!」
ザックがカウンターをドンッと力強く叩き、凄みを利かせる。
しかし、栞の目にはそれが「スパイシーでパンチの効いた料理を求める、熱狂的な外国人旅行者の熱いリクエスト」にしか見えていなかった。
「ふふっ、なるほど。寒い夜だから、ガツンと刺激的で、身体の芯から燃え上がるようなお料理がご希望なんですね! 承知しました。お兄さんたちみたいなワイルドな方々にぴったりの、最高に痺れる一皿をお作りします!」
栞は袖をキリッとまくり上げ、やる気に満ちた表情でコンロの前に立った。
「……おい、兄貴。なんだか話が通じてねぇみたいですが」
「チッ。まあいい。どうせ何を出してきても『不味い』と言ってテーブルをひっくり返すだけだ。あの女が泣いて謝る顔を見るのが楽しみだぜ」
ザックたちはニヤニヤと悪意に満ちた笑みを浮かべ、カウンターにドカッと腰を下ろした。
一方、厨房の栞は、日本の業務用スーパーで仕入れてきた数々の『凶悪な調味料』をステンレスの調理台の上に並べていた。
「やっぱり、外国の人には中華のスパイスよね。それも、本場四川の容赦ないやつ!」
栞が作ろうとしていたのは、日本の家庭で食べられるような甘口のものとは次元が違う、暴力的なまでの辛さと痺れ、そして圧倒的な旨味を同居させた『特製激辛麻婆豆腐』であった。
まず栞は、中華鍋をコンロの火にかけ、たっぷりの油を熱した。
そこへ、異世界の市場で仕入れた新鮮なオークの豚挽肉を投入する。
ジュワァァァッ!
「お肉はしっかり炒めて、脂を完全に引き出すのがコツ。こうすることで、豚肉の臭みが消えて旨味だけが残るのよ」
挽肉がカリカリになり、透明な脂が滲み出してきたところで、栞は真紅のペースト——本場四川省産の三年熟成『郫県豆板醤』をたっぷりと投下した。さらに、大豆を発酵させた黒い粒の『豆鼓』、そして甘みとコクを足す『甜麺醤』を加える。
そして、ここで栞は容赦のない追撃を行った。日本の激辛唐辛子を粉末にしたものを、お玉に山盛り一杯、真っ赤な油の中へと放り込んだのだ。
——ジュバァァァァァァァッ!!!
熱せられた油の中で、豆板醤と唐辛子が強烈に焦げ、爆発的な刺激臭が立ち昇った。
それはまさに、目と鼻の粘膜を直接ナイフで削り取るような、凶悪な催涙ガスのような匂いであった。
「げほっ! ごほっ! な、なんだこの目に染みる煙は!?」
カウンターに座っていたザックたちが、突然立ち昇った赤い煙に咳き込み、涙目を浮かべる。
「あ、ごめんなさい! 今、旨味を油に閉じ込めてますからね!」
栞は涼しい顔で中華鍋を煽り続ける。熟練の料理人は、この程度のカプサイシンの揮発には慣れっこなのだ。
しっかりと香りが立った油の中に、極上の鶏ガラスープを注ぎ込む。真っ赤に煮えたぎるマグマのようなスープ。そこへ、あらかじめ塩茹でして水分を抜き、プルプルとした弾力を持たせた絹ごし豆腐を静かに滑り込ませた。
グツグツ、ボコボコッ。
赤い地獄の池の中で、真っ白な豆腐が煮込まれていく。
醤油と少量の酒で味を調え、たっぷりの刻みネギを加える。そして水溶き片栗粉でとろみをつけ、強火で一気に鍋肌を焦がすようにして香ばしさを引き出す。
だが、これで完成ではない。麻婆豆腐の魂は、辛さ(辣)だけではなく、痺れ(麻)にあってこそ完成する。
栞は最後の仕上げとして、すり鉢で丁寧に挽きたての『花椒』を、これでもかというほど大量に、真っ赤な豆腐の上へと振りかけた。
柑橘系に似た爽やかで鮮烈な香りが、唐辛子の暴力的な匂いを包み込み、料理を一つ上の次元の芸術へと昇華させる。
「お待たせしました!」
栞は、グツグツと沸騰を続ける真っ赤な麻婆豆腐を、保温性の高い一人用の黒い土鍋に移し替え、それぞれの前にドンッと置いた。
添えられているのは、大盛りの炊きたて白ご飯だけだ。
「当店特製、『四川風・激辛麻婆豆腐』です! 熱いので、火傷しないように気をつけてくださいね」
土鍋から立ち昇る、マグマのような赤い油と、鼻を突き刺す強烈なスパイスの香り。
ザックたちは、その圧倒的な見た目と匂いに一瞬気圧されたが、すぐに地上げ屋としての本分を思い出した。
「……ふん。赤いスープに白い豆の塊が浮いてるだけじゃねぇか。こんなゲテモノ、食えたもんじゃねぇ。おい野郎ども、一口食って、大袈裟に吐き出してやれ。そしたらこの店をぶっ壊すぞ」
ザックは手下たちに小声で指示を出し、木製のレンゲを手に取った。
そして、真っ赤な油が絡みついた熱々の豆腐をすくい上げ、嫌悪感を露わにしながら口の中へと放り込んだ。
「…………ッッ!!!!!」
ザックの身体が、雷に打たれたように硬直した。
舌に触れた瞬間、脳髄を貫いたのは、唐辛子の容赦のない暴力的な『辛さ(辣)』であった。口内が燃え上がるような熱を帯び、すべての味覚細胞が悲鳴を上げる。
「か……からっ……! なんだこれ、毒か!?」
ザックがレンゲを放り投げて文句を言おうと口を開きかけた、その刹那。
辛さの奥から、三年熟成豆板醤の圧倒的な発酵のコクと、オークの豚肉の甘い脂、そして極上の鶏ガラスープの『旨味』が、津波のように押し寄せてきたのだ。
それは、ただ辛いだけの罰ゲームのような料理ではない。辛さという圧倒的なストレスの後に訪れる、計算し尽くされた極上の旨味。脳が混乱し、エンドルフィンを分泌させる悪魔的な美味さ。
さらに、彼を絶望の淵に突き落としたのは、最後に振りかけられた大量の『花椒』の存在だった。
ビリビリビリビリッ!
舌の感覚が麻痺し、唇が震えるほどの鮮烈な『痺れ(麻)』。
辛さと痺れが交互に波状攻撃を仕掛け、その間に挟み込まれる豆腐の滑らかさと、甘い白ご飯の誘惑。
「あ、あがっ……が、ががっ……」
ザックは、辛さと痺れで文句を言うことすらできず、白目を剥きながら口をパクパクとさせた。手下の二人も同様に、一口食べた瞬間に顔を真っ赤にして悶絶し、大量の汗と涙、そして鼻水を垂れ流していた。
「あーらら、そんなに汗かいちゃって。やっぱり外国の人でも、本場の辛さは刺激的すぎましたか?」
栞は心配そうに冷たいお冷を差し出す。
「い、いいい、言うな……! てめぇ、俺たちを舐めて……こんな、こんな不味い……!」
ザックは意地でも「不味い」と言って店を壊そうと、震える手でレンゲを握り直した。
(不味いと言え! 文句を言って、テーブルをひっくり返すんだ!)
脳内ではそう命令しているのに。
ザックの右手は、彼の意志に反して、再び真っ赤な麻婆豆腐をすくい、白ご飯の上に乗せ、あろうことか自らの口の中へと猛スピードで運び込んでしまったのだ。
「……ッ!? ひぃぃぃぃっ! か、からい! からいのに、レンゲが、レンゲが止まらねぇぇぇぇっ!!」
ザックは泣き叫びながら、麻婆豆腐と白ご飯を狂ったようにかき込み始めた。
人間の身体は正直である。脳がどれだけ嘘をつこうとも、究極の『旨味』と『スパイスの快楽』を前にしては、本能が食事を止めることを許さないのだ。
「あぐっ、あぐっ、ひぃぃぃぃ! 水! 水をくれぇぇっ!」
「兄貴ぃぃ! 俺も、俺も手が止まりやせん! 舌がちぎれそうなのに、この白い飯と一緒に食うと、頭がおかしくなるくらい旨いんでさぁ!」
手下たちもまた、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、どんぶり飯をものすごい勢いで平らげていく。
(……くそっ! このままじゃ、ただ飯を食いに来た客になっちまう! なんとかして、難癖をつけて暴れなきゃ!)
ザックは最後の気力を振り絞り、レンゲをテーブルに叩きつけて立ち上がろうとした。
「お、おい女! いい加減にしろ! こんなもん……」
その時である。
カウンターの隅でずっと居眠りをして……いや、居眠りをしているふりをしていた黒いローブの少女、ミレイユが、スッと顔を上げた。
彼女の翠緑の瞳が、冷たく、そして面白がるような光を帯びてザックを捉える。
ミレイユはテーブルの下でこっそりと木製の杖を握り、ザックたちに向けて見えない魔力を放った。
「——沈黙」
彼女が極小の声で詠唱した瞬間。
「こんなもん、くぇぇぇぇ——……あれ?」
ザックの喉から、一切の音が出なくなった。
口を大きく開け、怒鳴り散らそうとしているのに、声帯が空気を震わせる感覚がない。完全なる無音。魔法の力によって、指定した空間の音波が完全に遮断されたのだ。
「……!? あ、あがっ! あーっ!」
ザックがパニックに陥って喉を押さえる。手下たちも、兄貴の声が突然消えたことに驚き、何かを叫ぼうとしたが、彼らの声もまた、ミレイユの魔法の範囲に巻き込まれて音を失っていた。
「あら? どうしました? もしかして、辛すぎて声も出ませんか?」
栞は魔法の存在など全く気づかず、ニコニコと笑いながらご飯のおかわりをよそう。
「ほらほら、無理しないでくださいね。でも、麻婆豆腐は熱いうちが一番美味しいですから。残さず食べてくださいね!」
声が出ない。文句が言えない。暴れようにも、口の中の痛覚と快感が大暴走して、立ち上がる気力すら湧いてこない。
ミレイユはカウンターの隅で、クスクスと意地悪に笑いながら、彼らに向けてさらに『強制咀嚼』の微弱な魔法までかけていた。
地上げ屋のゴロツキたちは、声なき悲鳴を上げながら、涙と鼻水と汗を垂れ流し、出された激辛麻婆豆腐と大盛りのご飯を、最後の一粒までひたすらに食わされ続けるハメになった。
「——っ! ——っ!」
無音の空間で、ただ顔を真っ赤にしてスプーンを動かし続ける屈強な男たちの姿は、滑稽を通り越して哀れでさえあった。
やがて、土鍋の中が完全に空っぽになった時。
ミレイユはスッと杖を下げ、魔法を解除した。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
ザックたちは、椅子に深く背中を預け、真っ白な灰になったかのように放心状態に陥っていた。唇は花椒の痺れでタラコのように腫れ上がり、目は涙で真っ赤に充血している。
「どうでしたか? 日本の本場四川風の味は。満足していただけましたか?」
栞が笑顔で伝票を差し出す。
ザックは、もはや剣を抜く気力も、悪態をつく気力も一ミリ残されていなかった。ただ、目の前のこの黒髪の女が、底知れぬ恐ろしい魔女に思えてならなかった。
「……ひっ……ひぃぃぃぃぃぃっ!」
ザックは震える手で懐から銀貨を鷲掴みにすると、カウンターに投げつけ、手下たちを連れて逃げるように引き戸を飛び出していった。
「ああっ、もう二度と来るかぁぁぁっ! こんな恐ろしい店ぇぇぇっ!」
夜の路地裏に、彼らの情けない悲鳴が遠ざかっていく。
「あ、ありがとうございましたー! また辛いものが食べたくなったら来てくださいねー!」
栞は引き戸から顔を出し、陽気に手を振って彼らを見送った。
そして、店内に戻ると、カウンターの隅で大きな伸びをしているミレイユに気がついた。
「あら、ミレイユちゃん。起きてたの? さっきの外国のお客さんたち、すごくユニークだったわね。辛すぎて一言も喋れなくなっちゃうなんて」
「ふふっ。そうですね、店主さん。あの人たち、きっと店主さんのご飯のあまりの美味しさに、感動して言葉を失っちゃったんですよ」
ミレイユは悪びれもせず、シレリと言ってのけた。
「それにしても、あの赤いスープ……見ているだけで私までお腹が空いてきちゃいました。店主さん、私にもあの『まーぼーどうふ』っていうやつ、作ってくれませんか? 辛さは控えめでお願いします!」
「はいはい、喜んで。ミレイユちゃんには特別に、お肉多めの甘口で作ってあげるわね」
王都の裏社会の悪意すらも、日本のスパイスの暴力と極上の旨味、そして常連客の密かなサポートの前には、ただの哀れなピエロに過ぎなかった。
小料理屋『結』は、今日も温かく、そして時折刺激的な香りを漂わせながら、平和な営業を続けているのであった。




