第44話:お祭り開幕と、焦げる醤油の匂い
王都アルカディアが、一年で最も熱く燃え上がる三日間。
『建国祭』の初日の朝を告げる巨大なファンファーレが、王城のバルコニーから高らかに吹き鳴らされた。
その音を合図にするかのように、王都のメインストリートから路地裏に至るまで、街全体が一斉に歓声と拍手に包まれた。
色鮮やかな旗が青空にはためき、通りには吟遊詩人たちの奏でる陽気なリュートの音色や、大道芸人たちの炎を吹くパフォーマンス、そして無数の屋台から立ち昇る煙が入り乱れている。
石畳の広場には、王都の住人だけでなく、遠方の村や他国からやってきた商人、冒険者、貴族たちが身分の垣根を越えて押し寄せ、まさに人の海と化していた。
そんな巨大な広場の片隅。
喧噪の中心からは少し外れた、木陰の涼しい一角に、藍色の真新しい暖簾を掲げた一つの屋台がひっそりと店を構えていた。
『小料理屋 結』特設屋台である。
屋台の骨組みは、ドワーフの鍛冶職人ドランが前日の夜に徹夜で組み上げてくれた、頑丈なミスリル合金のフレームだ。そして、その中央に鎮座しているのは、日本の裏口から酒屋の配達員・浩太が死に物狂いで搬入してくれた、プロ仕様の横長焼き台と、巨大な極厚鉄板である。
真っ白な割烹着にねじり鉢巻という、気合十分の出で立ちで屋台の中に立つ店主の藤原栞は、目の前を通り過ぎていく凄まじい人の波を見つめながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……すごい人。これ、日本の花火大会とかお正月のお参りなんて目じゃないくらいの人出だわ……」
圧倒的なスケール感に、栞は少しだけ足がすくむのを感じた。
王都警備隊のバルトルトたちは、今は非番とはいえ、祭りの開会式に合わせて広場周辺の安全確認や顔出しを行っており、屋台にはまだ到着していない。ミレイユやファリスも、それぞれの用事を済ませてから合流する予定だった。
つまり、現在この屋台を守っているのは、栞ただ一人である。
「よし、弱気になってる暇はないわ。仕込みは完璧。機材も絶好調。あとはお客さんを待つだけよ」
栞は両頬をパンッと叩いて気合を入れ直した。
屋台のカウンターには、すでに異世界の市場で仕入れた『森の若鶏』を使ったネギマ串が、山のように仕込まれている。隣のクーラーボックスには、お好み焼き用の生地と山盛りのキャベツ。
いつでも戦える準備は整っている。
しかし——。
祭りが開幕して一時間が経過しても、『結』の屋台には一人として客が寄り付かなかった。
「……おかしいわね。全然、立ち止まってくれない」
栞は首を傾げた。
目の前を、楽しそうな家族連れや、酒盛りを始めている冒険者たちのグループが次々と通り過ぎていく。彼らは栞の屋台を一瞥はするものの、怪訝な顔をして通り過ぎてしまうのだ。
無理もない。異世界アルカディアの住人にとって、この屋台の光景はあまりにも『異質』すぎたのだ。
彼らが知っている祭りの屋台といえば、豚や羊の肉を丸ごと焚き火の上でくるくると回して焼く豪快な丸焼きか、大きな鍋で豆や芋を塩茹でにしたものくらいだ。
それに比べて、栞の屋台に並んでいるのは、細い竹の棒に、小さく切られた生肉とネギがちまちまと刺さっているだけの『串』である。おまけに、真っ黒でドロドロとした得体の知れない液体の入った壺が置かれている。
『なんだあの貧相な肉は』
『あんな小さな肉切れでお腹が膨れるわけがない』
『それに、あの黒い液体はなんだ? 魔女の毒薬か何かか?』
通り過ぎる人々のひそひそ声が、栞の耳にも届いてくる。
見た目の地味さと、未知の料理への警戒心。それが、お客の足を遠ざけている最大の原因だった。
「……なるほど。お肉のインパクトと、見た目のわかりやすさで負けてるのね。確かに、隣の屋台の『オーク肉の丸焼き』の方が、お祭りっぽくて美味しそうだもんね」
栞は苦笑いを浮かべたが、その瞳には全く焦りの色はなかった。
むしろ、板前としての闘争心に静かに火が点いていた。
「見た目で負けてるなら、こっちの土俵に引きずり込むだけ。……非日常のお祭りで、人間の本能を一番手っ取り早く刺激する『武器』を使う時ね」
栞は、横長の焼き台に敷き詰められた『紀州備長炭』の灰を、うちわでパタパタと仰いで火力を上げた。
炭の表面が赤々と輝き、恐ろしいほどの熱気が立ち昇る。
そこへ、仕込んでおいた焼き鳥の串を、ズラリと二十本並べた。
——ジュウウゥゥッ。
鶏肉から滲み出た脂が、真っ赤な炭の上に落ちる。
その瞬間に立ち昇る白い煙。炭火焼き特有の、肉が焦げる香ばしい匂いが周囲に漂い始める。
それだけで、近くを歩いていた何人かの通行人が「おっ?」という顔をして足を止めた。肉が焼ける匂いは、どんな世界でも食欲をそそるものだ。
しかし、これだけではまだ足りない。ただの肉を焼いた匂いなら、他の屋台でも出している。
栞は、鶏肉の表面がこんがりと白く焼き上がり、ネギに美しい焦げ目がついた絶妙なタイミングを見計らい、串を十本まとめて手に取った。
そして、傍らに置かれた黒褐色の液体の入った壺——『秘伝の甘辛ダレ』の海へと、串をドップリと沈め込んだ。
醤油、みりん、砂糖、酒、そして鶏の旨味が凝縮された、日本の焼き鳥の魂。
タレをたっぷりと纏って黒光りする串を、栞は迷うことなく、超高温の備長炭の上へと戻した。
——ジュワァァァァァァァァッ!!!!!
次の瞬間。
タレに含まれる大量の糖分と醤油が、真っ赤な炭火に直接落ち、一瞬にして『焦げた』。
それはまさに、匂いの爆発だった。
もうもうと立ち昇る真っ白な煙。その煙は、ただの煙ではない。甘く、塩っぱく、そして脳髄を直接揺さぶるような『焦がし醤油の暴力的な香ばしさ』の塊であった。
それが、春の風に乗って、広場の片隅から中央へと一気に拡散していったのだ。
「なっ……なんだこの匂いは!?」
「あ、甘い……いや、塩っぱい? 香ばしい……!」
「なんだかわからねぇが、腹の底がグゥッと鳴りやがった! どこだ、どこから匂ってくるんだ!?」
広場を歩いていた人々が、一斉に立ち止まり、鼻をヒクヒクとさせて周囲を見回した。
オーク肉の丸焼きを食べていた男も、エールを飲んでいた冒険者も、皆一様に動きを止め、その得体の知れない、しかし抗いがたいほどに強烈な匂いの源を探し求めた。
匂いは、風に乗って容赦なく人々の理性を削り取っていく。
焦げた醤油の匂い。それは、日本人にとってはDNAに刻み込まれた郷愁の香りだが、異世界の人々にとっては、生まれて初めて嗅ぐ『未知の麻薬』のようなものだった。
「こっちだ! この奥の屋台から匂ってくるぞ!」
匂いに釣られ、ゾンビのようにフラフラと歩いてきたのは、三人組の若い冒険者たちだった。
彼らは栞の屋台の前に辿り着くと、焼き台の上で煙を上げながらテリテリに輝く『焼き鳥』を見て、ゴクリと喉を鳴らした。
「お、おい姉ちゃん……。その、黒いタレがかかった串の肉……。もしかして、このすげぇ匂いを出してるのはそれか?」
「いらっしゃいませ!」
栞は満面の笑みで、最高のタイミングで焼き上がった焼き鳥を皿に乗せ、彼らの前に差し出した。
「当店特製、『焼き鳥のタレ焼き』です。お肉とネギの旨味を、秘伝の甘辛いタレで閉じ込めて炭火で焼きました。匂いだけじゃなくて、味も最高ですよ。一本いかがですか?」
「お、おう。とりあえず、三本くれ」
冒険者のリーダー格の青年が、銀貨を払って串を受け取った。
彼はまだ半信半疑の顔をしていた。肉のサイズは小さいし、黒いタレはやはり見慣れない。だが、鼻孔を強打してくるこの暴力的な匂いには勝てなかった。
彼は、恐る恐る、タレが滴る鶏肉とネギを一緒に口に含み、串を引き抜いた。
「…………ッ!!!」
青年の瞳孔が、極限まで見開かれた。
咀嚼した瞬間、彼の脳内で何かが爆発した。
備長炭の遠赤外線で表面はパリッと香ばしく、中は驚くほどふっくらと焼き上がった若鶏の肉。そこから溢れ出す熱々の肉汁。
しかし、何よりも彼を打ちのめしたのは、肉に纏わりついた『甘辛ダレ』の圧倒的な破壊力だった。
醤油の深いコクと塩気に、砂糖とみりんの濃厚な甘み。それが炭火で焦がされたことによって、味覚の全方位を容赦なく蹂躙してくる。間に挟まれた長ネギの甘さが、タレの濃さを程よく中和し、次の一口を猛烈に要求してくる。
それは、彼が今まで食べてきた塩焼きの肉とは、完全に別次元の食べ物だった。
「う……うぉぉぉぉぉぉっ!!!」
青年は、広場に響き渡るような大声を上げた。
「うめぇぇぇぇぇっ!!! なんだこれ! なんだこの美味さは!! ただの肉じゃない! この黒いタレが、肉の味を何百倍にも跳ね上げてやがる! 甘くて、しょっぱくて、香ばしくて……噛むほどに旨味が溢れてきやがる!!」
「マ、マジかよ! 俺にも食わせろ!」
仲間の二人が慌てて自分の串にかぶりつき、次の瞬間、彼らもまた天を仰いで絶叫した。
「ああっ! 美味い! 美味すぎる! ダメだ、この味、エールが無限に飲めるぞ!!」
「姉ちゃん! 追加だ! ここにある串、全部俺たちに売ってくれ!!」
青年がカウンターに身を乗り出して叫ぶ。
しかし、その声は、背後から押し寄せてきた人々の怒号によってかき消された。
「おい、ふざけるな! 俺たちもそのいい匂いの串を食わせろ!」
「その黒いタレの肉だ! 匂いだけで腹が減って死にそうだ!」
「こっちにも十本くれ! いや、二十本だ!!」
焦がし醤油の匂いと、最初の客の狂乱ぶりを見た周囲の人々が、堰を切ったように栞の屋台へと殺到し始めたのだ。
『あの小さな屋台の串焼きが、信じられないほど美味いらしい』
『タレの焼ける匂いがやばい。一度嗅いだら忘れられない』
そんな口コミが、爆発的なスピードで広場の端から端へと伝播していく。
あっという間に、栞の屋台の前には数十人の人だかりができ、皆が一斉に銀貨を握りしめて「串をくれ!」と叫び始めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 順番に、順番に焼きますから!」
栞はパニックになりかけたが、すぐに板前としての本能が目を覚ました。
冷静に、確実に。焦げないように、しかし最速で。
栞は両手をフル稼働させ、焼き台の上に新しい串を次々と並べ、タレに潜らせ、また焼くという動作を機械のように繰り返した。
ジュワァァァァッ! モクモクモクッ!
タレが焦げる煙が上がるたびに、客の歓声と怒号が大きくなっていく。
しかし、栞の供給スピードを遥かに超える勢いで、客の数は増え続けていた。
「早くしろ! こっちはずっと待ってるんだぞ!」
「割り込むな! 俺が先だ!」
「匂いだけで酒が空になっちまった! 早くその串を食わせろぉぉっ!」
群衆の熱気は暴動の一歩手前まで高まり、小柄な栞一人では、いつ屋台が押し潰されてもおかしくない危険な状態に陥っていた。
(ど、どうしよう……! さばききれない! 誰か……バルトルトさーんっ!!)
栞が心の中で悲鳴を上げた、その時だった。
「そこまでだ、お前ら!! 列を乱す奴は、この俺が容赦なく叩き斬るぞ!!」
広場の喧噪を切り裂くような、雷鳴のごとき大音声。
群衆がビクッと体を震わせて振り返ると、そこには、王都警備隊の制服に身を包み、腰の剣に手をかけたバルトルトが、鬼神のような形相で立っていた。
その後ろには、クラウスやマルコをはじめとする第三部隊の屈強な騎士たちが、ズラリと横一列に並んで壁を作っている。
「た、隊長……っ!」
「女将! 遅くなって悪かったな!」
バルトルトは群衆をかき分けて屋台の前に進み出ると、振り返って大声で叫んだ。
「いいかお前ら! ここは俺たち第三部隊が命に代えても守り抜く、最高の『オアシス』の屋台だ! 美味い飯が食いたきゃ、一列に並んで静かに待て! 横入りや騒ぎを起こす奴は、警備隊の権限で即刻しょっ引くからな!!」
バルトルトの圧倒的な迫力と、警備隊という権力の前に、暴徒と化しかけていた群衆はスゥッと波が引くように大人しくなり、見事な一列の待機列を形成し始めた。
「クラウス! マルコ! 最後尾の札を持て! 横入りが出ないように徹底的に監視しろ!」
「ハッ!!」
「俺は屋台の中で、女将のサポートと現金の受け渡しをやる! 女将、お前は焼くことだけに集中しろ!」
バルトルトは屋台の中に入り込み、エプロンを締め直して栞の隣に立った。
その横顔は、悪党を捕まえる時よりもずっと真剣で、頼もしかった。
「バルトルトさん……ありがとうございます!」
「礼は後だ! ほら、客が待ってるぜ。ガンガン焼いて、この広場を女将のタレの匂いで完全制圧してやろうぜ!」
「はいっ!!」
最強の助っ人を得て、栞は再び備長炭の前に立った。
焼き台に並べられた串から脂が落ち、タレが焦げ、暴力的な醤油の香りが広場中に拡散し続ける。
「美味ぇ!」「なんだこの味は!」「ビールをくれ!」
串を食べた客たちの歓声が、祭りの熱気をさらに一段階引き上げていく。
建国祭の初日。
異世界の広場の片隅で、日本のB級グルメである『焼き鳥』が、そのタレの魔力によって大行列のパニックを巻き起こし、王都の食文化に歴史的な一石を投じた瞬間であった。
栞たちの、長くて熱い戦いの幕が、今ここに切って落とされたのである。




